2 / 17
第一章 フランチェスカ
第二話
しおりを挟む
普段なら、フランチェスカはこんな男に話しかけられても無視しただろう。自分は歴史あるマレフツカ伯爵家の娘、平民の胡散臭い男となんて口を聞きたくないわ、と。
しかし、傷心のフランチェスカは、そんな見栄体裁よりも、慰めてほしかった。
「……舞踏会のホールから飛び出してきてしまいましたの」
「寒くない?」
「寒いですわ。羽織るものだってないし、でも」
「取りに戻りたくもないし、誰にも会いたくない、と」
「……ええ」
男性は屋台のカウンターを開け、しまってあった厚紙製のメニューをフランチェスカのもとへ持ってきた。五つほどのドリンクメニューを見せて、指差す。
「まずは温まらないとな。何を飲む?」
「私、お金など持っていませんわ」
「当たり前だよ、貴族のお嬢さんが自分で持つわけがない。いいから、一つサービスだ。何が好きだい? 紅茶? それともコーヒー? ホットチョコレートなんかは?」
軽い口調で勧められると、何だかそれに従ってもいいような気がする。
フランチェスカは、さすがにもう態度を固くする意味はないと悟り、男性のサービス精神に甘えることにした。
「では、ホットチョコレートを」
「はいよ。少し待っててくれ」
男性は足取り軽く屋台に戻った、と思ったら、すぐに取って返してきた。ふわり、と綿の房付きテーブルクロスを半分に折って、フランチェスカの肩にかける。
「テーブルクロスで申し訳ないが、それ以上外で肌を晒すのはレディの沽券に関わるだろ? 今だけ羽織っておきな」
「……ええ、ありがとう」
「どういたしまして」
何事もなかったかのように男性は身を翻し、屋台の下部に設えた棚を開けて注文の品を作りはじめた。
「砂糖は?」
「たくさん」
「いいねぇ。やっぱチョコレートは甘くないとな。疲れも何も吹っ飛ぶってもんだよ」
パタン、カチャン、ここが外であることを忘れるかのような、カフェの音が聞こえる。
たっぷりのココアの粉に香辛料、それから砂糖。屋台の上部にある金網の上に載った金属製のポットがシュー、とお湯の沸騰を知らせる。その横に小さなホーローのミルクパンが並び、棚から出てきた生クリームが端っこで温められていた。
男性は慣れた手つきで、分厚い陶器のカップに粉を混ぜ、少量のお湯を注ぎ、スプーンでよく練ってから生クリームで少しずつ溶いていく。ようやくチョコレートの香りがフランチェスカのもとまで届いてきた。
出来上がりを待つフランチェスカは、ふと、屋台の下部外側にある看板の文字を読んだ。
「カフェ・ド・カグラザカ?」
聞いたことのない単語だ。フランチェスカの知識の中に『カグラザカ』なんてものはない。地名、人名、どこの国の言葉だろうか。男性の名前や故郷の言葉かもしれない。ということは、男性はこの国の出身ではないのだろうか。
そんなことを考えていると、すっかり涙も鼻水も引っ込んだことにフランチェスカは気付いた。同時に、寒空に飛び出してきた後悔も顔を覗かせてくる。
フランチェスカには、貴族令嬢としてあるまじき行いをした自覚はある。どうやっても明日からサロンの笑い物だろうし、今頃従者たちは大慌てで自分を探し回っていると思うと少し申し訳ない気分にもなる。まさか仕える家の娘を放ったらかして帰るわけにもいかず、見つからなかったら、犯罪に巻き込まれていたら、なんて考えると本気で心配しているだろう。
はあ、とフランチェスカは夜空へとため息を吐いた。うっすらと雲が棚引き、夜にもかかわらずろくに星は見えない。時折吹く風は肌寒いし、テーブルクロスの暖かさが本当にありがたい。子どものころのように、家に帰って暖炉の前でナイトローブに包まって、はちみつたっぷりのホットミルクを飲んでゆっくりしたい——でも、もう自分は子どもではないのだ、とフランチェスカは現実に立ち返った。
ちょうど、フランチェスカの前に注文のホットチョコレートが差し出される。
男性は笑顔で、フランチェスカの手にカップを握らせた。
「熱いから気をつけて」
「え、ああ、ありがとう。いただくわ」
少し冷まされているホットチョコレート、カップを両手で持つとちょうどいい温度だ。冷えてきていた手指がじんわりと温まる。
フランチェスカは、香り立つホットチョコレートへ顔を近づける。シナモンとわずかにジンジャーの匂いも混ざって、とろみづいた赤茶色の液体は舌に乗ると甘味と濃厚な生クリームの踊るような調和で楽しませてくる。一口、また一口とフランチェスカはゆっくり、小さく飲む。
フランチェスカの細い喉が、胃が温かな飲み物を受け入れて、体の中からポカポカとしてくる。思わず、フランチェスカは笑みをこぼしていた。美味しいと、嬉しくなっていた。
フランチェスカが見上げれば、男性は自分用の飲み物を用意していた。いつの間にかエスプレッソマシンが火にかけられ、湯気を吹き出している。手のひらに収まるようなエスプレッソカップに角砂糖が二つも入れられ、ついに吹き出したエスプレッソマシンから黒い液体が注がれる。
風向きが変わり、濃ゆいコーヒー豆の焙煎の香りがフランチェスカのほうへと流れてきた。男性はティースプーンでエスプレッソをかき混ぜ、溶けていない砂糖がガリガリと音を立てている。
コーヒーに浸った砂糖をティースプーンで味わっている男性を見ていると、行儀が悪い、と思わなくもなかった。ただ、世間ではそう飲むものだし、自分も飲んでみたいと思った。フランチェスカはそう自分の心がほぐれてきたことを実感して、ついにはこう漏らした。
「婚約者に、婚約破棄を突きつけられたの」
しかし、傷心のフランチェスカは、そんな見栄体裁よりも、慰めてほしかった。
「……舞踏会のホールから飛び出してきてしまいましたの」
「寒くない?」
「寒いですわ。羽織るものだってないし、でも」
「取りに戻りたくもないし、誰にも会いたくない、と」
「……ええ」
男性は屋台のカウンターを開け、しまってあった厚紙製のメニューをフランチェスカのもとへ持ってきた。五つほどのドリンクメニューを見せて、指差す。
「まずは温まらないとな。何を飲む?」
「私、お金など持っていませんわ」
「当たり前だよ、貴族のお嬢さんが自分で持つわけがない。いいから、一つサービスだ。何が好きだい? 紅茶? それともコーヒー? ホットチョコレートなんかは?」
軽い口調で勧められると、何だかそれに従ってもいいような気がする。
フランチェスカは、さすがにもう態度を固くする意味はないと悟り、男性のサービス精神に甘えることにした。
「では、ホットチョコレートを」
「はいよ。少し待っててくれ」
男性は足取り軽く屋台に戻った、と思ったら、すぐに取って返してきた。ふわり、と綿の房付きテーブルクロスを半分に折って、フランチェスカの肩にかける。
「テーブルクロスで申し訳ないが、それ以上外で肌を晒すのはレディの沽券に関わるだろ? 今だけ羽織っておきな」
「……ええ、ありがとう」
「どういたしまして」
何事もなかったかのように男性は身を翻し、屋台の下部に設えた棚を開けて注文の品を作りはじめた。
「砂糖は?」
「たくさん」
「いいねぇ。やっぱチョコレートは甘くないとな。疲れも何も吹っ飛ぶってもんだよ」
パタン、カチャン、ここが外であることを忘れるかのような、カフェの音が聞こえる。
たっぷりのココアの粉に香辛料、それから砂糖。屋台の上部にある金網の上に載った金属製のポットがシュー、とお湯の沸騰を知らせる。その横に小さなホーローのミルクパンが並び、棚から出てきた生クリームが端っこで温められていた。
男性は慣れた手つきで、分厚い陶器のカップに粉を混ぜ、少量のお湯を注ぎ、スプーンでよく練ってから生クリームで少しずつ溶いていく。ようやくチョコレートの香りがフランチェスカのもとまで届いてきた。
出来上がりを待つフランチェスカは、ふと、屋台の下部外側にある看板の文字を読んだ。
「カフェ・ド・カグラザカ?」
聞いたことのない単語だ。フランチェスカの知識の中に『カグラザカ』なんてものはない。地名、人名、どこの国の言葉だろうか。男性の名前や故郷の言葉かもしれない。ということは、男性はこの国の出身ではないのだろうか。
そんなことを考えていると、すっかり涙も鼻水も引っ込んだことにフランチェスカは気付いた。同時に、寒空に飛び出してきた後悔も顔を覗かせてくる。
フランチェスカには、貴族令嬢としてあるまじき行いをした自覚はある。どうやっても明日からサロンの笑い物だろうし、今頃従者たちは大慌てで自分を探し回っていると思うと少し申し訳ない気分にもなる。まさか仕える家の娘を放ったらかして帰るわけにもいかず、見つからなかったら、犯罪に巻き込まれていたら、なんて考えると本気で心配しているだろう。
はあ、とフランチェスカは夜空へとため息を吐いた。うっすらと雲が棚引き、夜にもかかわらずろくに星は見えない。時折吹く風は肌寒いし、テーブルクロスの暖かさが本当にありがたい。子どものころのように、家に帰って暖炉の前でナイトローブに包まって、はちみつたっぷりのホットミルクを飲んでゆっくりしたい——でも、もう自分は子どもではないのだ、とフランチェスカは現実に立ち返った。
ちょうど、フランチェスカの前に注文のホットチョコレートが差し出される。
男性は笑顔で、フランチェスカの手にカップを握らせた。
「熱いから気をつけて」
「え、ああ、ありがとう。いただくわ」
少し冷まされているホットチョコレート、カップを両手で持つとちょうどいい温度だ。冷えてきていた手指がじんわりと温まる。
フランチェスカは、香り立つホットチョコレートへ顔を近づける。シナモンとわずかにジンジャーの匂いも混ざって、とろみづいた赤茶色の液体は舌に乗ると甘味と濃厚な生クリームの踊るような調和で楽しませてくる。一口、また一口とフランチェスカはゆっくり、小さく飲む。
フランチェスカの細い喉が、胃が温かな飲み物を受け入れて、体の中からポカポカとしてくる。思わず、フランチェスカは笑みをこぼしていた。美味しいと、嬉しくなっていた。
フランチェスカが見上げれば、男性は自分用の飲み物を用意していた。いつの間にかエスプレッソマシンが火にかけられ、湯気を吹き出している。手のひらに収まるようなエスプレッソカップに角砂糖が二つも入れられ、ついに吹き出したエスプレッソマシンから黒い液体が注がれる。
風向きが変わり、濃ゆいコーヒー豆の焙煎の香りがフランチェスカのほうへと流れてきた。男性はティースプーンでエスプレッソをかき混ぜ、溶けていない砂糖がガリガリと音を立てている。
コーヒーに浸った砂糖をティースプーンで味わっている男性を見ていると、行儀が悪い、と思わなくもなかった。ただ、世間ではそう飲むものだし、自分も飲んでみたいと思った。フランチェスカはそう自分の心がほぐれてきたことを実感して、ついにはこう漏らした。
「婚約者に、婚約破棄を突きつけられたの」
18
あなたにおすすめの小説
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
私ではありませんから
三木谷夜宵
ファンタジー
とある王立学園の卒業パーティーで、カスティージョ公爵令嬢が第一王子から婚約破棄を言い渡される。理由は、王子が懇意にしている男爵令嬢への嫌がらせだった。カスティージョ公爵令嬢は冷静な態度で言った。「お話は判りました。婚約破棄の件、父と妹に報告させていただきます」「待て。父親は判るが、なぜ妹にも報告する必要があるのだ?」「だって、陛下の婚約者は私ではありませんから」
はじめて書いた婚約破棄もの。
カクヨムでも公開しています。
夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結保証】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。
だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。
失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。
どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。
「悪女に、遠慮はいらない」
そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。
「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。
王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」
愛も、誇りも奪われたなら──
今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。
裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス!
⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。
悪役断罪?そもそも何かしましたか?
SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。
男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。
あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。
えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。
勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
辺境伯聖女は城から追い出される~もう王子もこの国もどうでもいいわ~
サイコちゃん
恋愛
聖女エイリスは結界しか張れないため、辺境伯として国境沿いの城に住んでいた。しかし突如王子がやってきて、ある少女と勝負をしろという。その少女はエイリスとは違い、聖女の資質全てを備えていた。もし負けたら聖女の立場と爵位を剥奪すると言うが……あることが切欠で全力を発揮できるようになっていたエイリスはわざと負けることする。そして国は真の聖女を失う――
真実の愛を見つけた王太子殿下、婚約破棄の前に10年分の王家運営費1.5億枚を精算して頂けます?
ぱすた屋さん
恋愛
「エルゼ、婚約を破棄する! 私は真実の愛を見つけたのだ!」
建国記念祭の夜会、王太子アルフォンスに断罪された公爵令嬢エルゼ。
だが彼女は泣き崩れるどころか、事務的に一枚の書類を取り出した。
「承知いたしました。では、我が家が立て替えた10年分の王家運営費――金貨1億5800万枚の精算をお願いします」
宝石代、夜会費、そして城の維持費。
すべてを公爵家の「融資」で賄っていた王家に、返済能力などあるはずもない。
「支払えない? では担保として、王都の魔力供給と水道、食料搬入路の使用を差し止めます。あ、殿下が今履いている靴も我が家の備品ですので、今すぐ脱いでくださいね?」
暗闇に沈む王城で、靴下姿で這いつくばる元婚約者。
下着同然の姿で震える「自称・聖女」。
「ゴミの分別は、淑女の嗜みですわ」
沈みゆく泥舟(王国)を捨て、彼女を「財務卿」として熱望する隣国の帝国へと向かう、爽快な論理的ざまぁ短編!
【完結】悪役令嬢ですが、元官僚スキルで断罪も陰謀も処理します。
かおり
ファンタジー
異世界で悪役令嬢に転生した元官僚。婚約破棄? 断罪? 全部ルールと書類で処理します。
謝罪してないのに謝ったことになる“限定謝罪”で、婚約者も貴族も黙らせる――バリキャリ令嬢の逆転劇!
※読んでいただき、ありがとうございます。ささやかな物語ですが、どこか少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる