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第二章 テオドラ

第一話

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 王都の川の流れが緩やかとなり、木々に一つも枯葉がなくなった冬。

 まだ薄く朝日が差し込む川べりにはほとんど人はいないが、転落防止用の鉄柵に両肘を突き、白いため息を吐く、身なりのいい女性がいた。

 場違いなほど高価な装いのあまり、実は近くを通りすがった酔っぱらいさえも何事かと驚いて逃げ去ってしまったのだが、憂いに満ちた表情の彼女はそんなことはまったく知らない。

 ダチョウの羽が一本ついた唾広の紫の帽子に、すっかり冬用になった厚手のツイード生地のドレス、首元に狐のファーがついた濃紺のロングコート、ボタンで留めた脚絆を巻いたエナメルヒール。豪奢な金の巻き毛は手入れが行き届いており、腕のいい髪結の技術を持った使用人がいる良家の出だと一目で分かる。

 しかし、悲しいかな、腫れた左頬の白粉は崩れ、真っ赤な口紅も顎まで引きずられていた。飛び抜けてまつ毛の長い両まぶたは伏し目がちで、普段ならその伏し目から少し水色の瞳を覗かせるだけで男は放っておかないだろう美女だ。

 彼女の名前は、テオドラ。肩書きも含めればシーバート公爵家令嬢テオドラであり、父のシーバート公爵にとっては遅くに生まれた初めての女の子ということで大変溺愛されて育った、と有名な彼女ももう十八歳だった。

 昨日からある大きなサロンに参加して、その類稀なる美しさと聡明さで上流階級を賑わせたテオドラだったが、つい先ほどフラれたばかりだ。

 否、それは正確ではない。

 テオドラはかすれた声でつぶやいた。

「……何よ、既婚者だなんて聞いていなかったわ」

 鉄柵にもたれて、テオドラは盛大なため息を真下の川へと吐き出した。

 彼女の沈痛で憂鬱な気持ちは、いくら白い吐息に乗せて吐き出しても消え失せはしない。

 そこへ、一人の男性がやってきた。

「探しましたよ、お嬢様」

 微笑みを貼りつけ慣れた顔で、シルクハットに簡易燕尾服の紳士が現れ、テオドラの隣の鉄柵に背をもたせかけた。あまりにもその表情が偽物くさすぎて、若いのか歳を取っているのかよく分からない。

 ただ、テオドラはシルクハットの男性がやってきても、顔ひとつ上げなかった。

「お父上は顔面蒼白でお嬢様の捜索を命じられまして、今頃お屋敷で一睡もできずに狼狽えておいでですよ。さ、戻りましょう」

 そのくらいのこと、テオドラも予想はついているし、それを分かった上でここにいる。

 テオドラは、また小さくため息を吐いた。

「はあ。それ以外に言うことはある?」
「いえ、特には。もし何か言伝があれば、お伝えいたしますが? もちろん、なるべく早めにご帰宅なさると約束していただければの話です」
「そう、じゃあお父様にはこう伝えておいて。『お父様の可愛いテアは正午までに帰ります。婚約者との顔合わせもちゃんと出席します』と」

 テオドラの父シーバート公爵にとっては、娘のテオドラが王都のどこにいようともすぐに手勢を派遣して確保できる。まさに今、テオドラの隣にいるシルクハットの男性がこんなところにいるテオドラを見つけ出したことがその証明だ。振るえる権力なら当代ピカイチで、軍や警察にいるテオドラの兄たちも総動員すれば、たとえ縁もゆかりもない貴族の別宅のクローゼットの中に隠れていようとあっさり見つけてしまえるだろう。

 それでも、シーバート公爵は愛娘テオドラが目の届くところにいなければ気が済まない。溺愛にもほどがあるが、それは愛ゆえなのだとテオドラは知っているから邪険にはしない——つい昨日まで勝手に父から婚約者を押し付けられたと憤慨して、「絶対会わない」と意地を張っていたとしても、だ。

 もう意地を張る理由がなくなったテオドラは、父の要求に応える気になった。それについて、シルクハットの男性は深入りせず、ただ頷くだけだ。

「承知しました。そうそう、これは独り言ですが」
「何?」
「昨晩のトレント侯爵の件ですが、もし意趣返しを考えておいでであれば、お父上にご相談なさってはどうでしょう?」

 そこで初めて、テオドラは顔をわずかに動かして、シルクハットの男性を睨みつけた。

「いらないわ。余計なお世話よ」
「それは失礼を。では、またのちほど」

 そう言って、シルクハットの男性はすたすたと帰っていった。

 男性の気配が消えたところで、テオドラはまた川へと視線を戻し、陽光が当たりはじめた河岸の緩やかな流れを見つめる。

 目の前の川はさして水質が綺麗でもないが、ゴミがないだけ他の川よりずっとマシだった。遠くの石造りの橋に灯っていたガス灯はすでに消え、対岸にある船着場はもう少しすれば陸に揚げている観光遊覧用の舟を川に浮かべ、漕ぎ手たちも集まるだろう。

 人目を引かないようそれまでにここを離れて、家に帰るかどこかで時間を潰すかして、テオドラは気持ちを切り替えなくてはならない。

 だが、そんな気分にはなれそうもない、とテオドラは自分でもよく分かっていた。

 ところが、その気分を弾き飛ばすような、甲高い鈴の音が聞こえた。
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