婚約破棄された令嬢の前に現れたのは、移動式屋台カフェ。

ルーシャオ

文字の大きさ
7 / 17
第二章 テオドラ

第二話

しおりを挟む
 リンリン、リリンリン。

 ハッとして、テオドラは音のした方向へと振り向く。こんなところで鈴の音なんて、と驚き、そして音の出所をその目で見て、さらに仰天した。

 テオドラの十歩ほど後ろに、自転車が止まっていた。

 それも、移動式の屋台を乗せた自転車という、テオドラは見たこともない乗り物だ。自転車は新聞の挿絵などで目にしたことがあるものの、自転車の前輪上に水色の箱型の屋台が乗っている。しかも、前方と両側面には折りたたみ式の小さな木製カウンターが備え付けられていた。屋台の中にはまるで私こそが屋台の主人とばかりに金属製の優雅な口のポットが鎮座していて、本物の屋台の主人である乗り手は——金縁の丸眼鏡のサングラスにリゾート帰りのようなカンカン帽キャノチエ、という出で立ちの男性だった。胡散臭さでは、さっきのシルクハットの男性といい勝負だ。テオドラは呆然としていたが、前輪横にある水色の看板に描かれた見事なカリグラフィの文字に目を惹かれた。

「『カフェ・ド・カグラザカ』……?」

 聞いたこともない響きの店名に、テオドラは自然と興味を持つ。元々好奇心旺盛な性分ゆえに、メニュー表らしき木版にも次々と目を通していく。

「ラテにエスプレッソ、ココアも? この屋台でできるの?」

 すると、屋台の主人であろう男性は、ほんの少しだけ上機嫌そうに答えた。

「できますよ。何か淹れましょうか?」

 ベージュのピーコートの袖をまくり、男性は左側面のカウンターをひょいと持ち上げて簡単なテーブルを作った。

 テオドラは移動式屋台のそばにやってきて、化粧が崩れた顔のことなど忘れて無邪気に注文する。

「じゃあ、コーヒーでおすすめはある?」
「んー、濃いのと薄いの、お好みは?」
「そうね、薄いほうが飲みやすくていいかしら」
「ミルクは?」
「いらないわ。あ、でも、砂糖はひとつ入れてちょうだい。それと小腹が空いたんだけれど、何か摘めるものはある?」
「さっきできたばかりのオペラケーキ……の試作品でよければ」
「試作品? 何それ、どんなもの?」

 先ほどまでの陰鬱な気分はどこへやら、テオドラは目を爛々と輝かせて、屋台の中にある引き出しから取り出されたホーロー製ケースをじっと見つめていた。

 カウンターの上に置かれた長方形の白いホーロー製ケースは、同じく水色のホーロー製の蓋を備えていて、男性の手が蓋をかぱっと開けると——。

「まあ、かわいらしい! おもちゃみたいだわ!」

 感嘆の声を上げたテオドラは、思わず手が伸びそうになって、慌てて指先を引っ込めた。

 長方形のケースの中には、小さな格子状に分けられた一面漆黒のケーキが並んでいたのだ。とろっとろの真っ黒なチョコレートソースと金箔がかかったサイコロのようなケーキ、それに小さな小さなケーキ同士がくっつかないよう間に細い紐状のマシュマロが詰められている。それがまたファンシーでかわいらしく、テオドラは顔をほころばせた。

 オペラケーキ、本来ほろ苦のコーヒー風味のケーキは、大人向けだ。なのに親指サイズのミニチュアとなっては、その精密さと愛おしさに、テオドラのうっとりとしたため息は今までとはまったく異なる意味合いになってしまう。

「はあ……これをあなたが作ったの?」
「まあね、屋台でひょいと摘める新しいお菓子にと思って」
「すごいわ。我が家のお抱えパティシエだってこんな発想はできないわ」
「ははっ、大絶賛は食べてからにしてくれ。ほら、フォーク」

 すっと差し出された二又の銀のフォークもまた、テオドラにとっては未知の、それでいて愛らしいものだ。カトラリーの中でも一番小さなカクテルフォークよりもさらに細く、小さい。

 触れれば折れてしまいそうな銀のフォークを右手で受け取り、テオドラは慎重にオペラケーキの隅っこのひとつを選んで刺し、そっと持ち上げて口へと運ぶ。

 得体の知れない人物の、得体の知れない屋台の、得体の知れない料理であることなど、もはやテオドラにはどうでもいい。貴族として外食は信頼できる料理人のものしか口にすべきではないのだが、そんな堅苦しい常識よりもテオドラの好奇心は勝ってしまった。

「んー! 甘くて美味しい……それに、ほろ苦い!」

 間違いなく、今テオドラが口にしたものは、オペラケーキだった。小さくても、しっかりと重厚なバタークリームとガナッシュがいくつもの層を作り、スポンジケーキにたっぷり染み込んだコーヒーシロップがチョコレートソースとタッグを組んで、甘さの中の苦さが絶妙なアクセントとなっている。

 さらに、ご満悦のテオドラの前へと白磁のコーヒーカップが置かれ、なみなみと注がれた焦茶色の液体が、湯気立つ水面にテオドラのぼやけた輪郭を映し出す。ほぼ反射的にテオドラの左手はコーヒーカップの持ち手へと伸び、オペラケーキの甘い甘い滋味で満たされた舌にほどよい苦味を流し込む。カフェインを主張しすぎず、さりとて余韻の甘さを綺麗さっぱり消し去っていく、テオドラの注文どおりの薄めのコーヒーだ。

 味わい尽くして飲み込んで、テオドラは思わず、ほうとため息を吐いた。

「あぁ、美味しい。幸せだわ」

 その言葉に、男性は得意げだった。

「こちらこそ、ごちそうさま。そんなに褒めて味わってくれるなんて、こっちも作った甲斐があったよ」

 あまりの満足具合に、テオドラはにっこりと微笑んで応えた。見知らぬ男性へ心から微笑みかけるなど、初めてのことかもしれない。そのくらい、この瞬間のテオドラは心から幸せだった。

 とはいえ、いつまでも幸せは続かない。それに、テオドラもそろそろ自分の顔のひどいさまに手を入れなければならなかった。

「ふう、嫌だわ、コーヒーに顔が映ると現実に戻されてしまう。これを何とかしないと」
「化粧落としはさすがにないな。温かいおしぼりでよければあるんだが」
「それでいいわ。洗って返すから、いただける?」
「はいよ」

 男性はコーヒーを淹れた残りのお湯を、屋台の引き出しから取り出したタオル地の布二枚にかけ、手が触れられるくらいに冷めるまで待ってから絞ってテオドラへと渡す。

 顔面の化粧をすべて落とし切ることはできないが、口紅と白粉くらいは何とか拭き取れる。テオドラは素早く全体を一枚目のおしぼりで拭き取り、二枚目のおしぼりでおおよそ見苦しくない程度に拭き取った。元々が際立って美しい顔立ちということもあって、素嬪すっぴんそのものである。それを自覚しているテオドラは、化粧なんかなくても表を歩いたって恥ずかしくはない。ただ、貴族令嬢として、人前に出る際には化粧をすることが常識、義務、マナーとまで言われているからあえて顔中にわざわざ塗りたくっているだけのことだ。

 テオドラはコーヒーカップの残った水面に顔を映し、うん、と少しはマシになった顔に納得した。すっきりした顔には、寒気が直接触れて引き締まる。オペラケーキの幸せだけでは拭いきれなかった無意識の嫌な気持ちも、反射的に体が寒さに反応したおかげでどこかに吹っ飛んでしまった。

 テオドラは、男性へ感謝を述べる。

「あなたのおかげで、嫌なことがすっかり消し飛んでしまったわ。ありがとう」

 男性は素直に、そして気遣いの言葉を添えて応じる。

「どういたしまして。人生は嫌なことばかりなんだ、たまには幸せになったっていいさ」
「ふふ、そうね。でも」

 気分が一新した今、もう一度テオドラは『嫌なこと』を思い出そうという気になった。今なら、ただあの場から逃げるしかなかった情けない自分を、きちんと受け止められる気がしたからだ。

 テオドラは一言一言区切って、我が身に降りかかった出来事を端的にまとめてみた。

「将来を夢見た相手が、なんとか親を説得して婚約を結ぼうとしたはずだったのに、昨日の夜のサロンで既婚者だったと明らかにされた上、その人の妻に泥棒と罵られてビンタされちゃった」

 テオドラはそう言うと、どうしても出そうになるため息を、どうにか呑み込んだ。

 ——あれはちょうど、日付が変わって今日になったころのことだった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

私ではありませんから

三木谷夜宵
ファンタジー
とある王立学園の卒業パーティーで、カスティージョ公爵令嬢が第一王子から婚約破棄を言い渡される。理由は、王子が懇意にしている男爵令嬢への嫌がらせだった。カスティージョ公爵令嬢は冷静な態度で言った。「お話は判りました。婚約破棄の件、父と妹に報告させていただきます」「待て。父親は判るが、なぜ妹にも報告する必要があるのだ?」「だって、陛下の婚約者は私ではありませんから」 はじめて書いた婚約破棄もの。 カクヨムでも公開しています。

夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結保証】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。 だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。 失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。 どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。 「悪女に、遠慮はいらない」 そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。 「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。  王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」 愛も、誇りも奪われたなら── 今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。 裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス! ⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。

悪役断罪?そもそも何かしましたか?

SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。 男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。 あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。 えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。 勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。

白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?

夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」 教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。 ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。 王命による“形式結婚”。 夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。 だから、はい、離婚。勝手に。 白い結婚だったので、勝手に離婚しました。 何か問題あります?

辺境伯聖女は城から追い出される~もう王子もこの国もどうでもいいわ~

サイコちゃん
恋愛
聖女エイリスは結界しか張れないため、辺境伯として国境沿いの城に住んでいた。しかし突如王子がやってきて、ある少女と勝負をしろという。その少女はエイリスとは違い、聖女の資質全てを備えていた。もし負けたら聖女の立場と爵位を剥奪すると言うが……あることが切欠で全力を発揮できるようになっていたエイリスはわざと負けることする。そして国は真の聖女を失う――

真実の愛を見つけた王太子殿下、婚約破棄の前に10年分の王家運営費1.5億枚を精算して頂けます?

ぱすた屋さん
恋愛
「エルゼ、婚約を破棄する! 私は真実の愛を見つけたのだ!」 建国記念祭の夜会、王太子アルフォンスに断罪された公爵令嬢エルゼ。 だが彼女は泣き崩れるどころか、事務的に一枚の書類を取り出した。 「承知いたしました。では、我が家が立て替えた10年分の王家運営費――金貨1億5800万枚の精算をお願いします」 宝石代、夜会費、そして城の維持費。 すべてを公爵家の「融資」で賄っていた王家に、返済能力などあるはずもない。 「支払えない? では担保として、王都の魔力供給と水道、食料搬入路の使用を差し止めます。あ、殿下が今履いている靴も我が家の備品ですので、今すぐ脱いでくださいね?」 暗闇に沈む王城で、靴下姿で這いつくばる元婚約者。 下着同然の姿で震える「自称・聖女」。 「ゴミの分別は、淑女の嗜みですわ」 沈みゆく泥舟(王国)を捨て、彼女を「財務卿」として熱望する隣国の帝国へと向かう、爽快な論理的ざまぁ短編!

【完結】悪役令嬢ですが、元官僚スキルで断罪も陰謀も処理します。

かおり
ファンタジー
異世界で悪役令嬢に転生した元官僚。婚約破棄? 断罪? 全部ルールと書類で処理します。 謝罪してないのに謝ったことになる“限定謝罪”で、婚約者も貴族も黙らせる――バリキャリ令嬢の逆転劇! ※読んでいただき、ありがとうございます。ささやかな物語ですが、どこか少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

処理中です...