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第一話 未来の王妃
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「ミカ、アンネのことは頼んだよ」
お祖父様の最期の言葉は、きっとミカにも届いていたに違いありません。
私の祖父、第十一代エラト王国国王の逝去に伴い、次の国王の座を巡る争いは収まるどころかより激しくなってしまいました。
それはもう、国内外の貴族を巻き込み、王位継承権を持つ人間が百人以上いたはずなのに、二年後にはたったの三人にまでなってしまうほどでした。
謀殺、事故死、身分剥奪、法改正による王位継承権の喪失、自己放棄。少なくとも現在、自らと子孫が王位継承権を所持できる人間は、三人だけです。
オードヴィ公爵ガイスト、ラキア大公メディツァ、ヴァッサー王国王太子シュヴァルツ。
その中に、私の婚約者だったミカの名前はありません。
次の国王の王妃にと、褒賞のように約束されている私を守ってくれる人は、もういないのです。
王宮にいた大勢の人々がいなくなって、もう二年が経ちます。
先代国王の崩御とともに輝かしく華々しい晩餐会が開かれなくなって、貴族たちは王宮に寄り付かなくなりました。いえ、寄り付けなくなったが正しいですね。
私、アンネリーゼは先代国王唯一の肉親として、王宮の仮の主人を務めています。十六歳になる私は、もう政治の話も理解できます。祖父である先代国王の崩御から二年、このエラト王国には粛清と暗殺の嵐が吹き荒れていたのです。
私はただ、嵐の中心でそれを見ているしかできませんでした。早く嵐が過ぎ去りますよう、と力なく神に祈るほかなく、己の無力を何度も噛み締めました。
そして、今日。二年間、空位だった玉座の主人を決める会議が開かれます。
その話題は王宮でも持ちきりで、朝の弱い私のもとに、珍しく官僚が訪ねてくるほどです。
天蓋付きベッドを覆う、朝日避けのレースシェードの中で、私は朝の読書をたしなんでいました。起きたばかりの体が動くようになるまで、しばし大きなクッションに背を預けて様子を見る習慣ができて、その間にもベッドサイドのテーブルには侍女たちが朝食を用意してくれています。温かいスープに入った香草の匂いが漂い、焼きたてのバゲットが籐籠に並び、砂糖が一つ、ミルクがたっぷりの紅茶が侍女たちの長であり私の乳母でもある老婆マリーの手で淹れられました。
王女という肩書きのおかげで、私はこうして温室の中で何一つ不自由なく暮らしています。王宮の外では貴族であっても路上に死体が転がり、一家揃って毒殺されるなどの恐ろしいニュースがいまだに飛び交っていますが、まるで違う世界の出来事のようです。そのニュースさえも、私が頼りにする忠義心篤い官僚たちがこっそりと届けてくれる新聞でようやく知り得るのですから、私は本当に——何の力もありません。
その嘆きを払拭するかのように、マリーが努めて明るい声で私を呼びます。
「アンネリーゼ様、朝食の用意ができましたよ。それと、さっきから面会を希望される方が」
「面会? どなた?」
「いつもの執政官様ですよ」
マリーはやれやれと不機嫌を隠しません。王女の朝食を邪魔するなど不届者め、とでも言いたそうです。
「そう、入ってもらって。話を聞きましょう」
私の命令があれば、マリーはすんなりと来客を中へと招き入れます。
私が本を閉じ、ネグリジェの上から長いケープを羽織り、ベッドから朝食の並ぶテーブルの椅子へと腰を下ろすころ、一人の官僚が部屋に入ってきました。
顔上半分に包帯を巻き、右目とその周辺を覆う黒の眼帯を付けた男性です。頬には火傷痕がうっすら残り、金色の左目がギョロリと光ります。傍目には完全に不審者ですが、彼はれっきとしたこの国の官僚です。
年齢も分かりづらく、官僚のよく着るサテン生地のジャケットコートと、長い足を包むパンツにロングブーツは少し軍服の意匠を取り入れています。パッと見て、堂々たる態度と衣服の立派さから、中年くらいだろうか、と皆には推測されているようですが——。
低い声で、その官僚はご機嫌伺いを立てます。
「アンネリーゼ王女殿下、お加減はいかがですか?」
形式的な挨拶の始まりに、私は少し不満です。
「ええ、今日は面会を許される程度にはよろしくてよ」
「それは重畳。あなたさまには、次の国王の妃となる使命がございますゆえ」
その官僚の言葉を気に入らなかったのは、マリーです。
「ジヴァニア執政官。口が過ぎますわ」
「いいのよ、本当のことだから」
「ですが」
「どうせ、誰も私には言ってくれないことよ」
私は憤るマリーをなだめ、紅茶を一口、口に含みます。
温かい飲み物は、心を落ち着けてくれます。どんなことがあってもまずは落ち着くのだよ、と祖父である先代国王のかけてくれた言葉が身に沁みます。
ジヴァニア執政官と呼ばれた官僚の男性は、私の言葉を待っていました。
まるで、こう言っているかのようです。「今日は特別な日だ、知っているだろう?」と。
ええ、知っていますとも。私も関係あることです。
今日は、オードヴィ公爵ガイスト、ラキア大公メディツァ、ヴァッサー王国王太子シュヴァルツの三人の王位継承権者が集まり、国王を定める会議が王宮で開かれる日です。巷では『三公会議』と名付けられ、市民も貴族も固唾を呑んでその推移を見守っています。
エラト王国の国王となることは、つまり私の夫が決まることと同義です。先代国王唯一の肉親であり、現王室唯一の直系子孫である私と結婚することで、正統なるエラト王国の後継者であると表明する。これまで生かされてきた私は、そのための道具にすぎません。
「さて、気鋭のジヴァニア執政官閣下は、誰が国王の座に就くとお思い?」
私が自分の不安を誤魔化すように、冗談まじりに口にした質問へ、彼はこう答えました。
「逆に問いましょう。あの中の誰が、国王にふさわしいとお考えで?」
そう問われて、私は何も言いませんでした。
わざとゆっくり摂った朝食のあと、私はジヴァニア執政官に伴われ、三公会議の開催される大広間へと向かうのです。
お祖父様の最期の言葉は、きっとミカにも届いていたに違いありません。
私の祖父、第十一代エラト王国国王の逝去に伴い、次の国王の座を巡る争いは収まるどころかより激しくなってしまいました。
それはもう、国内外の貴族を巻き込み、王位継承権を持つ人間が百人以上いたはずなのに、二年後にはたったの三人にまでなってしまうほどでした。
謀殺、事故死、身分剥奪、法改正による王位継承権の喪失、自己放棄。少なくとも現在、自らと子孫が王位継承権を所持できる人間は、三人だけです。
オードヴィ公爵ガイスト、ラキア大公メディツァ、ヴァッサー王国王太子シュヴァルツ。
その中に、私の婚約者だったミカの名前はありません。
次の国王の王妃にと、褒賞のように約束されている私を守ってくれる人は、もういないのです。
王宮にいた大勢の人々がいなくなって、もう二年が経ちます。
先代国王の崩御とともに輝かしく華々しい晩餐会が開かれなくなって、貴族たちは王宮に寄り付かなくなりました。いえ、寄り付けなくなったが正しいですね。
私、アンネリーゼは先代国王唯一の肉親として、王宮の仮の主人を務めています。十六歳になる私は、もう政治の話も理解できます。祖父である先代国王の崩御から二年、このエラト王国には粛清と暗殺の嵐が吹き荒れていたのです。
私はただ、嵐の中心でそれを見ているしかできませんでした。早く嵐が過ぎ去りますよう、と力なく神に祈るほかなく、己の無力を何度も噛み締めました。
そして、今日。二年間、空位だった玉座の主人を決める会議が開かれます。
その話題は王宮でも持ちきりで、朝の弱い私のもとに、珍しく官僚が訪ねてくるほどです。
天蓋付きベッドを覆う、朝日避けのレースシェードの中で、私は朝の読書をたしなんでいました。起きたばかりの体が動くようになるまで、しばし大きなクッションに背を預けて様子を見る習慣ができて、その間にもベッドサイドのテーブルには侍女たちが朝食を用意してくれています。温かいスープに入った香草の匂いが漂い、焼きたてのバゲットが籐籠に並び、砂糖が一つ、ミルクがたっぷりの紅茶が侍女たちの長であり私の乳母でもある老婆マリーの手で淹れられました。
王女という肩書きのおかげで、私はこうして温室の中で何一つ不自由なく暮らしています。王宮の外では貴族であっても路上に死体が転がり、一家揃って毒殺されるなどの恐ろしいニュースがいまだに飛び交っていますが、まるで違う世界の出来事のようです。そのニュースさえも、私が頼りにする忠義心篤い官僚たちがこっそりと届けてくれる新聞でようやく知り得るのですから、私は本当に——何の力もありません。
その嘆きを払拭するかのように、マリーが努めて明るい声で私を呼びます。
「アンネリーゼ様、朝食の用意ができましたよ。それと、さっきから面会を希望される方が」
「面会? どなた?」
「いつもの執政官様ですよ」
マリーはやれやれと不機嫌を隠しません。王女の朝食を邪魔するなど不届者め、とでも言いたそうです。
「そう、入ってもらって。話を聞きましょう」
私の命令があれば、マリーはすんなりと来客を中へと招き入れます。
私が本を閉じ、ネグリジェの上から長いケープを羽織り、ベッドから朝食の並ぶテーブルの椅子へと腰を下ろすころ、一人の官僚が部屋に入ってきました。
顔上半分に包帯を巻き、右目とその周辺を覆う黒の眼帯を付けた男性です。頬には火傷痕がうっすら残り、金色の左目がギョロリと光ります。傍目には完全に不審者ですが、彼はれっきとしたこの国の官僚です。
年齢も分かりづらく、官僚のよく着るサテン生地のジャケットコートと、長い足を包むパンツにロングブーツは少し軍服の意匠を取り入れています。パッと見て、堂々たる態度と衣服の立派さから、中年くらいだろうか、と皆には推測されているようですが——。
低い声で、その官僚はご機嫌伺いを立てます。
「アンネリーゼ王女殿下、お加減はいかがですか?」
形式的な挨拶の始まりに、私は少し不満です。
「ええ、今日は面会を許される程度にはよろしくてよ」
「それは重畳。あなたさまには、次の国王の妃となる使命がございますゆえ」
その官僚の言葉を気に入らなかったのは、マリーです。
「ジヴァニア執政官。口が過ぎますわ」
「いいのよ、本当のことだから」
「ですが」
「どうせ、誰も私には言ってくれないことよ」
私は憤るマリーをなだめ、紅茶を一口、口に含みます。
温かい飲み物は、心を落ち着けてくれます。どんなことがあってもまずは落ち着くのだよ、と祖父である先代国王のかけてくれた言葉が身に沁みます。
ジヴァニア執政官と呼ばれた官僚の男性は、私の言葉を待っていました。
まるで、こう言っているかのようです。「今日は特別な日だ、知っているだろう?」と。
ええ、知っていますとも。私も関係あることです。
今日は、オードヴィ公爵ガイスト、ラキア大公メディツァ、ヴァッサー王国王太子シュヴァルツの三人の王位継承権者が集まり、国王を定める会議が王宮で開かれる日です。巷では『三公会議』と名付けられ、市民も貴族も固唾を呑んでその推移を見守っています。
エラト王国の国王となることは、つまり私の夫が決まることと同義です。先代国王唯一の肉親であり、現王室唯一の直系子孫である私と結婚することで、正統なるエラト王国の後継者であると表明する。これまで生かされてきた私は、そのための道具にすぎません。
「さて、気鋭のジヴァニア執政官閣下は、誰が国王の座に就くとお思い?」
私が自分の不安を誤魔化すように、冗談まじりに口にした質問へ、彼はこう答えました。
「逆に問いましょう。あの中の誰が、国王にふさわしいとお考えで?」
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わざとゆっくり摂った朝食のあと、私はジヴァニア執政官に伴われ、三公会議の開催される大広間へと向かうのです。
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