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記憶の檻

10話(ケイジュ視点)

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 その後一時間も経たないうちに、セオドアは再び目を覚ました。
先程のように取り乱したりはせず、不安げに周りの様子を見回している。
ベッドの側でセオドアを見守っていたヴァージルは、セオドアを刺激しないように穏やかな声で語りかけた。

「おはよう、セオドア。気分はどうだ?」

何の気負いも感じないごく普通の挨拶に、セオドアの表情がようやく動いた。

「ヴァージル、にい……?」

おれの声には反応しなかったが、ヴァージルのことはちゃんと分かるようだ。
セオドアはヴァージルの姿に戸惑いを見せていたが、ちゃんと視線を向けている。
ヴァージルは不安や焦りを完璧に隠した優しい微笑みを浮かべ、セオドアの手をそっと握る。

「ああ、兄さんだ。長い間眠っていたから変な感じがするだろうけど、もう大丈夫だからな」

ヴァージルの言葉に、セオドアの表情が歪む。
虚ろな目に涙がたまり、頬を伝って流れていく。

「ヴァージルにい、ねえさんが、ミラねえが、おねがい、たすけて……はやくたすけて、じゃないと、しんじゃう……ぼくをたすけようとして、ぼくのせいで、ミラねえが、」

「セオドア、心配するな。もう怖いことはない。ミランダのことも、心配ない。だからセオドアはゆっくり休むんだ。喉は渇いていないか?」

「ぼくのことはいいから、ミラねえは、だいじょうぶなの?ぼく、ミラねえに、あやまらなきゃ、ミラねえはどこにいるの?」

「……セオドアが元気になったら、一緒に会いに行こう。セオドアは悪くないよ、だから、心配しなくていい」

ヴァージルのおかげでセオドアはようやく言葉を交わす程度の正気を取り戻したように見えた。
ヴァージルに手助けされながら、セオドアは水を飲み、不安を和らげる薬も口にした。
しかし、そのつかの間の安定は長く続かなかった。
セオドアは再び幼子のように泣き出し、謝罪ばかりを繰り返すようになる。
そうなるとヴァージルの言葉さえも届かず、やがて薬の効果ですぐに寝入ってしまった。
憔悴したセオドアの寝顔を見下ろしたヴァージルは、貼り付けていた柔らかい表情をぐしゃりと歪める。

「……セオドア……ああ……!……ほんとうに、あの頃のセオドアに、戻ってしまったのか……」

ヴァージルはベッドに縋るように顔を埋めると、しばらく沈黙した。
その背中が細かく震えている。
おれは見ているのも辛かった。
重苦しい沈黙が支配する寝室で、ヴァージルが震える吐息を細く吐き出した。
そして気丈な表情に戻ったヴァージルが顔をあげる。

「……これで確かめられた。やはり、セオドアの精神や記憶は10歳の頃まで退行している。やはり、地道に対話を繰り返して、現実と記憶のズレをすり合わせていくしかないのか……」

「ヴァージル様と会話できたことは、大きな進歩です。徐々に覚醒している時間を伸ばしつつ、セオドア様の罪悪感や恐怖を和らげることができれば、回復の見込みもあります」

「ああ。私もできるだけ時間を捻出しよう。もしセオドアの容態が安定しそうなら、父上や母上とも面会させたい。今日の夜も、時間があれば様子を見に来る。後は頼んだぞ」

ヴァージルは一度だけ目元を手で拭って立ち上がった。
そして医者やおれ、控えている使用人たちに順番に視線を送る。
その目元にはまだ赤みが残っていた。

「……一日でも早く安らかな日々が取り戻せるよう、尽力します」

医者が恭しく一礼するとヴァージルは頷き、もう一度セオドアの手に触れた。
その横顔に決意を滲ませながら、ヴァージルは迷いを感じさせない足取りで部屋を出ていった。



 その日から、セオドアの本格的な治療が始まった。
とは言っても、確立された治療法があるわけではない。
地道に声をかけ、言葉や薬で不安を和らげることしかできない。
セオドアは家族のことはちゃんと覚えていて、短い会話をすることはできた。
ヴァージルは忙しい政務の間を縫って、毎日セオドアの見舞いに訪れて声をかける。
母親はセオドアが女性を怖がっている間は面会できなかった。
しかし、寝ている間は頻繁に寝室を訪れ、屋敷に寝泊まりし、毎日セオドアの様子を見守っている。
比較的落ち着いている日はセオドアも母親のことも認識できた。
母親は涙声でセオドアの手を握り、涙を堪えた笑顔でセオドアを元気づけていた。
セオドアとまだ確執が残っているらしい父親も、ヴァージルと同じくらいの頻度で屋敷に訪れた。
優しい言葉をかけることもなく、ひたすらじっとセオドアを見つめているだけだったが、その横顔は見間違いようのない父のものだ。

 しかし、セオドアは家族以外の人間は上手く認識できないようだった。
視界に入っていても、声をかけても、セオドアは誰も居ないように振る舞った。
しかし、毎日顔を合わせていれば徐々に認識できるようになるようで、医者や使用人、おれに対しては反応を返すようになってきた。
視線を合わせたり、頷いたり首を振って意思表示をすることも増えてきた。
しかしそうして意思疎通が可能な時間というのは限られている。
一日の殆どは、生命力が感じられない虚ろな表情でただただ天井を見上げているか、記憶が蘇って姉に謝り続けるかだ。
錯乱して部屋から逃げ出し、助けを求めて泣くことも何度かあった。
部屋が暗くなると誘拐された記憶が鮮明になるのか、セオドアが酷く怯える。
そのため寝室の魔力灯は昼夜問わず付けっぱなしだ。
おれのことを思い出す兆候もなく、誘拐された日からすでに10年以上経っていると理解している様子もない。
絶望は日々おれの背中を這い上がり、もう駄目なんだと冷たい現実を囁く。

 それでも、どんなに小さくても、日々進歩はあった。
日を追うごとに錯乱する回数も減り、ヴァージルや母親と会話できる時間も増えている。
医師やおれの介助があれば、普通に食事もできるし歩くこともできる。
人形のように人の言葉に従って動くだけだったが、昼間には屋敷の庭に出て散歩をすることもできる。
しかし、その青銀の瞳は青空も、紅葉した木々も映すことはない。
姉のことや謝罪以外は言葉もなく、恐怖や悲しみ以外の表情も見せない。
おれはそれでも、セオドアの看護を続けた。
ヴァージルが用意してくれた寄宿舎の一室で短い睡眠を取り、使用人たちとともに食事を取る以外はずっとセオドアの寝室に控え、食事や排泄の介護を手伝った。
セオドアに不安を与えないために、おれはセオドアの前で絶対に取り乱さないと決めていたが、ひとたび一人になると一気にグズグズになってしまう。
おれは、弱い。
セオドアと共に居たのはほんの数ヶ月で、それ以外はずっと一人で生きていたはずだ。
なのに、もう思い出せない。
一人でどうやって呼吸をして、飯を食い、眠ればいいのか。

 一日経つごとに体に馴染んでいたセオドアの精気は減っていく。
今までの経験から、そろそろ精気を摂取しないと体が保たないとわかっているのに、他の人間から吸精する気が起きない。
他人の精気がセオドアの精気を上書きして消してしまうことに、おれは耐えられないだろう。
精気が少なくなっていくたびに、体は重くなり飢餓感が強くなる。
何を食べても飢えは癒えず、眠っても倦怠感が取れない。
ずっとこのままでは居られないとわかっている。
だが、もう少し、もう少しだけ残していたい。
おれとセオドアが旅をして、想いを通じ合わせた日々の残滓を。
あの日々は確実に存在していたと、自分に言い聞かせる証拠を。
いつの間にか、耳飾りに触れることが癖になっていた。
セオドアが深く眠っている時には、セオドアの耳飾りにも触れて心を慰める。
目を閉じてその冷たい青い石の感触に集中していれば、少しは飢えも悲しみも虚しさも忘れられた。

 日々は平坦に過ぎていった。
セオドアを起こし、医師の朝の定期健診を横で聞き、食事を手伝い、その日の天気のことや食事のことを語りかけ、調子が良ければセオドアを庭に連れ出して、手を引いて歩く。
段々と落ち葉が増えて、色彩が薄れていく庭を眺めながら、寒くないか、と声をかける。
しばらく陽の光を浴びたあとは寝室に戻り、セオドアをベッドに寝かせて、日が暮れるまでずっと見守る。
夜が来て、暗くなり始めたらセオドアに薬を飲ませて寝かせる。
セオドアが夜中に目を覚まして怯えないように付き添い、明け方近くなって来たら寄宿舎に戻って睡眠をとる。
その繰り返しだ。
セオドアはおれが触れても怯えたりしなかった。
おれの尖った耳を見ても、視線を重ねても、ただ茫洋と頭を揺らすだけで反応しなかった。
そのおかげでおれはセオドアの看護を続けられている。だが、同時に辛かった。
あんなに生き生きと世界を写していた瞳も、料理を口いっぱいに頬張って笑顔を浮かべていた口元も、わかりやすく感情を伝えてくれた眉も、今は凍りついてしまったように動かない。
最低限の食事と運動しかしていないので、セオドアの体は徐々に痩せていく。
セオドアの背中に手を当てて起き上がらせるたびにそれがわかって、ぞっと背中が寒くなる。
それでも、大丈夫だ。
安定している時間は長くなっている。
少しずつだが、心の傷は癒えている。
いつか、おれのことも思い出して、また元のように旅ができるようになる。
自動二輪車で草原を駆け抜け、景色に目を細めてくれる。
その土地の料理にはしゃいで、おれにも食べさせようと差し出してくれる。
おれの腕の中で安らいだ表情で眠ってくれる。
好きだと、もう一度言ってくれる。
だから、大丈夫だ。
大丈夫。



 おれは組んでいた指を引き剥がして顔をあげる。
朝目覚めるたびに、祈るように大丈夫だと呟くのも習慣になっていた。



 今日は、黒月14日。
セオドアが精神退行を起こしてから、もう、一ヶ月以上が経過していた。






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