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- 8 - それぞれの覚悟と月夜の庭
- 8 - それぞれの覚悟と月夜の庭 1話
しおりを挟む――レンとネイトの周囲の景色が、再び激しく歪み始める。
・
ベネットごと弾き飛ばされた湖の強大な力は、彼女が咄嗟に繋いだ回路を通じて、クロノドクサの作戦司令室、そして作戦に参加した全ての者の精神に、凄まじい勢いで逆流してきた。
「ベネット!!」
ティモシーの絶叫は、司令室に響き渡る無数の魂の叫びにかき消された。
水盤の映像は完全に途絶え、代わりに、回路を通じて流れ込んできたのは、純粋な情報と、そしてあまりにも生々しい感情の奔流だった。
ノルンの、家族との幸せだった記憶。
管理人になることを決意した日の、凍てつく森の寒さ。
燃え盛る黒い湖を前にした絶望。
そして、モイラとなって世界を破壊し、自らの手で愛する者たちを飲み込んでしまったことへの、狂気に近い苦悩と罪悪感。
それだけではなかった。
モイラを構成する、名もなき無数の魂たちの声が、直接脳裏に響き渡る。
『痛い』
『助けて』
『お母さん、どこ?』
『嘘つき!』
『返せ!私の人生を!』
オルタンシアの非道な計画の犠牲となった者たちの、断末魔の叫び。残された家族を想う悲しみ。
全てを奪われたことへの怒り。
そして、未来永劫この苦しみから逃れられないという絶望。
研究者がもたらしたモイラの書き置きに記された呪詛が、今や現実の感情となって、研究員たちの心を直接苛んだ。
当初、モイラへの怒りに燃えていた者たちも、このあまりにも個人的で、あまりにも普遍的な悲しみの奔流を前にして、言葉を失った。
ある者は頭を抱えてうずくまり、ある者は静かに涙を流し、またある者は、ただ虚空を見つめて立ち尽くす。
そこにあったのは、敵への憎しみではなく、ただ、やるせないほどの悲しみと、オルタンシアのいや―――人間の愚かさに対する深い絶望だった。
「…作戦は、中断だ」
ダニエルが、絞り出すような声で告げた。
彼自身も、額に脂汗を浮かべ、青白い顔をしていた。
「ベネットは…モイラとの干渉により、彼女自身の湖・セラフィナの、時空のどこかへと弾き飛ばされた。
彼女の状況は…いま見える範囲だとどうなっているか不明だ。
だが、彼女が最後に繋いだ回路は、奇跡的に維持されている。
ベネットの湖には、ノルンへと繋がる回路と―――
待て、これはティモシーにも湖とノルンとの回路がつながっているのか?
ティモシー、聞こえているか?」
『はい。ダニエル所長。
湖とノルンとも新たにつながりができています。
それにベネットとの繋がりも切れていないのです!
しかし応答はありません――――
ですがこちらに何か悪いものが寄ってくる気配があるかけでもないです。』
「わかった。ティモシー、ジル。
転移陣を使っていい。
早急に一度研究所に戻ってきてくれ」
司令室は、重い沈黙に包まれた。
誰もが、今体験したばかりの魂の奔流に、そして、作戦の失敗とベネットの喪失という現実に打ちのめされていた。
「…一度、休憩を挟む。
皆、一度頭を冷やせ。
だが、気を抜くな。
我々の戦いは、まだ始まったばかりだ」
ダニエルの言葉に、研究員たちは、まるで亡霊のような足取りで、それぞれの持ち場を離れていった。
・
休憩と言っても、誰一人として落ち着ける者はいなかった。
転移陣を使い即座に戻ったティモシーを筆頭に、ジル、サーシャ、ミラは、クロノドクサのカフェテリアで無言で飲み物を受け取ると、誰ともなく、ベネットの湖が見える丘の上の庭へと向かった。
夕暮れが、穏やかな湖面を茜色に染めている。
その光景はあまりにも美しく、先ほどまでの地獄のような記憶との落差が、かえって胸を締め付けた。
ティモシーは、ベンチに座り込んだまま、ただ一点、湖を見つめている。
彼の瞳には光がなく、まるで魂が抜け殻になってしまったかのようだった。
ジルは、そんな彼の隣に寄り添うように立ち、かける言葉も見つけられずに、ただ唇を噛み締めていた。
ミラは、芝生の上に座り込み、何かを計算するかのように、指で地面に数式を描いている。
彼女なりの、感情の整理の方法なのかもしれない。
重い、重い沈黙。
風が芝生を撫でる音だけが、やけに大きく聞こえる。
その沈黙を破ったのは、サーシャだった。
彼は、いつものように静かで、感情の読めない表情のまま、ぽつりと呟いた。
「…こんな事を言ったら、不謹慎だと怒られるだろうが」
その声は、水面に落ちる雫のように、静かに場の空気を震わせた。
「彼の気持ちが―――
ノルンという男の気持ちが、痛いくらいにわかる」
その言葉に、ティモシーの肩が微かに震えた。
ジルとミラも、ゆっくりとサーシャに視線を向ける。
「恋しさ、悲しさ、無念や怒り――
そんなありふれた言葉で、あの感情を表すことなど到底できはしない。
愛しい人との望まぬ別れなど、言葉に綴ることすら、おこがましい。
―――言語化できるほど、人の想いは簡単なものじゃないんだ」
サーシャの声は、どこまでも単調で、平坦だった。
しかし、その感情を排したかのような声色が、かえってノルンの悲劇と、サーシャ自身の言葉の奥にある計り知れない痛みを、その場にいる全員に色濃く印象付けた。
ここにいる皆が、サーシャの過去をある程度知っている。
彼が本来、他国の研究所で、身を粉にして魔道具の研究に明け暮れるような身分ではないことも。
元は他国の王族で、王太子だったという彼の経歴。
愛する恋人を、彼と同じように、理不尽な形で「記憶の湖」に奪われたという過去。
自らの手で愛する者を飲み込んでしまったノルンと、愛する者を制度や権力によって奪われたサーシャ。
その形は違えど、根底にある喪失の痛みは、あまりにも似ていた。
サーシャの言葉は、ただの同情ではなかった。
それは、似た痛みを抱え生きて来た者だからこそ発することができる、魂からの共鳴だった。
ティモシーは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、ようやく、微かな光が戻り始めていた。
彼は、サーシャの横顔を見つめ、そして、もう一度、ベネットが消えた湖へと視線を戻した。
悲しみも不安も消えない。
怒りも、絶望も、まだ胸の奥で渦巻いている。
だが、先ほどまでの絶望的なそれとは違い、そこには、互いの傷を静かに舐め合うような、わずかな温もりが生まれ始めていた。
一人ではない。
この痛みを分かち合える者が、すぐそばにいる。
サーシャの言葉は、その場にいた全員の胸に、それぞれの形で深く突き刺さっていた。
ノルンという男の悲劇は、もはや遠い国の厄災ではなく、彼ら自身の痛みと共鳴する、普遍的な悲しみとなっていたのだ。
その事実に、ほんの少しだけ、救われたような気がした。
――夕暮れの庭に、重く、しかしどこか温もりを帯びた沈黙が流れていた。
――――――――――
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