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北城市地区予選 1年生編

第54走 招集時間

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 雨天練習場には、男子100mの選手が何列にもなって並んでいる。



 結城は男子100mの第7組だ。
 後半の招集は7組から始める為、結城は早速係員に呼ばれていた。

「7レーン早馬君、北城高校~!」

 その呼びかけに対し”はい”と小さく返事をして、結城は一番前にある木製のイスへと向かって行く。
 そこでスパイクとユニフォーム・ナンバーカード・腰番のチェックを受けるのだ。

 だが同じ時、雨天練習場に響いた”早馬”という名前を聞いた選手達が、少しだけザワつき始めていた。
 2年前に脅威の日本記録を残した中学生と同じ珍しい苗字が呼ばれたのだ、ザワつくのも無理はなかった。

「早馬?復活したの……?」
「別人だろ」
「坊主だったよな?多分違うだろ」

 もちろん結城もその空気に気づいてはいた。
 だが特に気にする素振りは見せない。
 これが彼なりに積み上げて来た防衛方法の成果なのだ。


 その後も続々と選手の名前が呼ばれていく。
 キタ高のキャプテン・隼人は第11組、結城の中学時代の親友・今江は最終の第12組だ。
 そして北城地区予選から戦う事になるタケニ・虎島勇気こじまゆうきは結城の2つ後の第9組だった。

 陸上強豪高のタケニで1年から100mに出場できている虎島は、結城の世代を代表する正真正銘トップスプリンターなのは間違いなかった。

 もちろん結城や今江も同じ1年生で出場してはいるが、部員が少ない弱小高の今江や、先輩が枠を譲ってくれた結城とは意味も価値も全く違うのだ。
 だが意外にもそれが虎島のプレッシャーになっているのか、彼の表情は珍しく硬かった。

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 ちなみに結城はというと、待機中の右隣の選手に少しイライラしていた。
 それはなぜか?
 答えは単純だ。

「よぉ久しぶり~。スパイク変えてんじゃん!」

「あれ、髪型変えたの!?」

「お前緊張しすぎだろ~!」

「カハハハ!」

 その選手は、周りにいる知り合いに手当たり次第話しかけていたのだ。
 そう、レース前には黙って集中したい派の結城にとっては、とにかく騒音でしかなかった。

(まさかコイツが今江の言ってた先輩じゃないよな……?)

 更衣室で”10秒台の先輩が隣のレーン”と聞いていた結城は、なぜか今江に対しての怒りがこみ上げている。
 だがそんな時、騒音機とは反対側に座っていた選手が、優しく結城に話しかけてきた。

「早馬君だよね?今江から話は聞いたよ」

「え?」

 声の聞こえた左側を見ると、優しい顔をした男が結城の方を見て話しかけていたのだ。
 今江を知っている時点で、この人が先ほど言っていた先輩だと結城は気づく。

(あ、こっちの方か。スマン今江、一瞬お前を恨んでしまった)

 そして気を取り直した結城は、彼の問いかけに答える。

「あ、そうです。僕もさっき今江から聞きました。”隣のレーンが先輩なんだ”って」

「そうだよ。あ、いきなり話しかけてごめんね。僕は前田博樹まえだひろき。建山たてやま高校の2年だよ。よろしくね」

 そう言って前田は笑顔を浮かべる。彼は言葉も表情も全て優しさを感じさせる男だ。

 そんな彼の通う建山高校は、実は結城の実家から最も近い高校でもある。
 なので結城は、子供の頃から建山高校の制服を何度も見ていた。
 ちなみに今江も”近いから”という理由で建山高校を選んだそうだ。

「スタートリストを見てたら、今江がビックリしててね。何事かと思ったら、早馬君の名前がある事にビックリしてたんだよ。しかも先輩と同じ組で隣ですよ!って、さらに驚いてた。
 今の早馬は昔ほど速くはないかもしれないけど、ホントに凄い奴だから気を抜かないで下さいって言われちゃったよ」

 前田は細い目をさらに細めながら、嬉しそうに話している。
 だが温厚そうな前田という男も、実は”凄い奴”なのだ

 100mのベストは10秒89。レベルの高い兵庫県内の2年生の中では、3番目に速いタイムである。
 なので今シーズンだけでなく、来年以降も大きな期待がかかるトップレベルのスプリンターなのだ。

 弱小の建山高校の中では、数年ぶりに現れた唯一の希望と言っても過言では無い。

「今の僕は、今田の言う通りまだまだです。走り方は少し思い出しましたけど、たった1か月程度じゃあ10秒台なんて夢のまた夢ですよ」

 少し控えめな声で結城はつぶやいた。
 すると前田もすかさずフォローする。

「そうなんだ。でも来年にはとっくに抜かされてるだろうな、僕みたいな凡人は」

 謙遜しながら前田は言った

「10秒台は凡人じゃ無いっすよ。凄いです」

「君と比べたら凡人だって」

「は、はぁ。そうですかね」

 結城は変に自分が立てられる事を気持ち悪く感じていた。

(この人、良い人なんだろうけど、自信は無い人なのかなぁ……)

 結城は落ち込むわけでもない、とても不思議な感情に喉が少しだけ詰まるのだった。

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 メイントラックでは男子100mの第1組がスタートしようとしている。
 しばらくすると、招集係も雨天練習場に座っていた後半の100mの選手達に指示を出す。

「では前の第7組の人達から順番に、スタート地点へ移動して下さーーい!!!」


 いよいよ結城の戦いが、再び始まろうとしていた。

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