​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

文字の大きさ
6 / 49

第5章:交錯する運命

しおりを挟む
​陽菜の部屋からは、夜遅くまで鉛筆が紙を走らせる音が聞こえるようになった。
これまではどこか冷めたように家族を眺めていた陽菜が、何かに取り憑かれたように、図書館で借りた建築の専門書やデザイン雑誌を読み漁っている。その情熱の源が「実の父親」であることを知る優子は、家の中で薄氷を踏むような思いで日々を過ごしていた。
​数週間後の放課後。優子がパートを終えてスーパーで買い物をしている頃、陽菜は一人、駅前の公共図書館にいた。
彼女が探していたのは、先日の工事現場で見かけたあの設計士の名前だ。
​「瀬戸拓也……」
​検索機で見つけた彼の名前は、いくつかの建築賞の受賞歴と共に、自身の事務所のホームページへと繋がっていた。
画面に映し出されたのは、彼がこれまで手がけてきた住宅や施設の写真。どれもが、静寂と光を大切にした、陽菜が心の底から求めていた世界観そのものだった。
​「やっぱり……この人だ」
​陽菜の指が、画面の中の問い合わせフォームの上で止まる。
本来なら、中学生が有名な建築家に連絡を取るなど無謀なことかもしれない。けれど、陽菜の中には不思議な自信があった。この人なら、自分の描いたスケッチを理解してくれる。この人には、自分の言葉が届く。
十数年前、まだ自分がこの世に生を受ける前、母と彼が分かち合っていた魂の片鱗が、血を通じて彼女を突き動かしていた。
​数日後、優子がリビングで洗濯物を畳んでいると、陽菜が学校から帰ってきた。
その表情は、どこか高揚しているように見えた。
​「お母さん、聞いて。……私、あの設計士さんにメールしてみたの」
​優子の手から、健太のワイシャツが滑り落ちた。
「……メール? 誰に?」
​「ほら、この前の工事現場にいた、瀬戸さん。私のスケッチを添付して、将来建築を学びたいって送ってみたんだ。そうしたら……今日、お返事が来たの」
​優子の視界が、一瞬ぐらりと揺れた。
「なんて……なんて書いてあったの?」
​「『君のスケッチには、空間に対する深い敬意を感じる。もし本気で建築を志すなら、一度事務所に遊びにおいで。実際の図面を見せてあげるよ』って」
​陽菜は、まるで宝物を見つけた少女のような笑顔でスマートフォンを見せた。
そこには、十数年前と変わらない、拓也の誠実で少し生真面目な文体があった。
​「駄目よ、陽菜。そんな、見ず知らずの人に会いに行くなんて。お母さん、許しません」
​優子は思わず声を荒らげた。その剣幕に、陽菜の笑顔が凍りつく。
「どうして? 私の将来に繋がることだよ? お母さん、いつも『やりたいことを応援する』って言ってたじゃない」
​「それは……そうだけど。でも、相手は大人だし、何があるか分からないわ」
​「瀬戸さんはそんな人じゃないよ。メールの文章だけで分かるもん。……お母さん、変だよ。」
​陽菜の鋭い視線が、優子の心の奥底を射抜く。
思慮深く観察眼の鋭い陽菜は、母親の過剰な拒絶に、直感的な違和感を抱き始めていた。
​「とにかく、行かせません。……いいわね」
​優子はそれだけ言い残して、逃げるようにキッチンへ向かった。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
優子が知らないところで、陽菜と拓也はすでに「言葉」を交わしてしまった。
​陽菜の中に流れる、拓也の血。
拓也の中に残っているかもしれない、優子への消えない記憶。
その二つが、陽菜という存在を介して、十数年の歳月を飛び越え、磁石のように引き寄せられている。
​その夜、事務所のデスクで陽菜からのスケッチを眺めていた拓也もまた、奇妙な胸騒ぎに捉われていた。
画面に表示された、中学生が描いたとは思えない緻密な階段のスケッチ。
その構図と、影の落とし方。
それは、かつて彼が愛し、そして「お互いのため」と言い残して去っていった、あの優子の面差しに、どこか通じる「静けさ」を宿していた。
​拓也はふと、右に首をかしげ、夜の窓の外を見つめた。
十数年前、涙の味がした最後のキスを交わしたあの夜から、彼の心の一部は今もあの場所に置かれたままだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―

MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」 「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」 失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。 46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

還暦妻と若い彼 継承される情熱

MisakiNonagase
恋愛
61歳の睦美と、20歳の悠人。ライブ会場で出会った二人の「推し活」は、いつしか世代を超えた秘め事へと変わっていった。合鍵を使い、悠人の部屋で彼を待つ睦美の幸福。 しかし、その幸せの裏側で、娘の愛美もまた、同じ男の体温に触れ始めていた。 母譲りの仕草を見せる娘に、母の面影を重ねる青年。 同じ男を共有しているとは知らぬまま、母娘は「女」としての業(さが)を露呈していく。甘いお土産が繋ぐ、美しくも醜い三角関係の幕が上がる。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

清掃員と僕の密やかな情状

MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。 青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。 肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。 44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。 その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。 全15話を予定

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

処理中です...