​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

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第7章:封印された署名

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​ある日の午後、優子が買い物から帰ると、郵便受けに一通の厚手の封筒が届いていた。
宛名は、次女の「陽菜」。そして差出人の欄には、かつて情報誌で見かけたあの名前――『瀬戸拓也建築設計事務所』の文字が、静かに、けれど確かな主張を持って印字されていた。
​優子の指先が、氷に触れたように凍りつく。
(陽菜……本当に、連絡を取っていたの?)
激しい動悸に襲われながらも、優子はそれを勝手に開けることはしなかった。三十代の過ちを経て、四十路になった今の彼女は、守るべき平穏のために「誠実な母親」という仮面を剥がしてはならないと自律していたからだ。
​優子は震える手でその封筒を持ち込み、陽菜の机の上にそっと置いた。
​夕方、学校から帰ってきた陽菜は、机の上の封筒を見るなり、弾かれたように部屋に籠もった。その直後、二階から小さな、弾むような歓声が聞こえ、優子はキッチンで包丁を握る手に力を込めた。
​夕食時、陽菜はどこか落ち着かない様子だった。
「パパ、今日ね、学校でね……」
三女の結衣が健太に無邪気に甘える横で、陽菜は何度も自分の部屋の方を振り返っている。その瞳は、これまで家族に見せてきた冷めた光ではなく、隠しきれない高揚感で潤んでいた。
​「陽菜、何か良いことあったのか? ずっとソワソワしてるじゃないか」
健太の優しい問いかけに、陽菜は一瞬たじろぎ、「……ううん、別に」と視線を逸らした。その嘘をつく時の、わずかに右に首をかしげる仕草。
優子は、胃の奥が熱くなるような思いで、自分の皿を見つめることしかできなかった。
​事件が起きたのは、夕食後の片付けの最中だった。
「お母さん、お風呂沸いたよ!」
結衣の声が響き、陽菜が慌てて立ち上がった。その拍子に、彼女が大切そうに手に持っていたクリアファイルが、床に滑り落ちた。
​中から飛び出したのは、陽菜が自室で何度も読み返していたであろう、例の封筒の中身だった。
​「あ……」
陽菜が拾おうとしたが、それよりも早く、足元に落ちた紙が優子の視界に飛び込んできた。
それは、陽菜が描いたあの階段のスケッチだった。しかし、元の絵が見えないほどに、上から鮮やかな「赤ペン」で幾本もの線が描き加えられていた。
​優子は、吸い寄せられるようにその紙を見つめた。
ただの添削ではない。そこにあるのは、光の射し方、壁の厚み、空間の奥行きを教える、鋭くも迷いのないプロの筆跡。そして何より、線の終わりで少しだけ跳ねる独特の癖……。
​それは、十数年前のあのファミレスで、拓也がレジロールの裏紙に「いつか優子さんと住みたい家だよ」と笑って描いてくれた、あの筆致と寸分違わぬものだった。
​「お母さん、返して!」
陽菜が慌てて紙を奪い取る。
その拍子に、添えられていた一枚の「一筆箋」が、優子の手の甲をかすめて床に落ちた。
​そこには、流麗な文字でこう記されていた。
​『君の描く「静寂」は、とても美しい。
かつて僕が大切にしていた人に、よく似ている。――瀬戸拓也』
​その瞬間、優子の目の前が激しく歪んだ。
視界を覆ったのは、今のリビングの景色ではない。十数年前、狭いアパートの窓から差し込む月光を浴びながら、二人で分け合ったあの濃密な静寂。不倫という名の暗闇の中で、唯一信じられた拓也の体温。
​優子の目には、抑えようのない涙が溢れ出していた。
それは、裏切ってしまった今の家族への罪悪感か。あるいは、あの日、お互いのためにと無理やり断ち切ったはずの、拓也への消えない想いか。
一筆箋に記された「大切にしていた人」という言葉。それは、十数年という歳月を飛び越え、彼が今もなお、自身の設計する空間のどこかに優子の面影を置き去りにしていることを告げていた。
​(どうして……。どうして今さら、そんなこと言うの……)
​赤ペンで修正された陽菜のスケッチは、まるで拓也が陽菜の手を握り、一緒に描いたかのような生命力を宿している。娘の中に生き続ける「彼」の才能と、彼の中に生き続ける「私」の記憶。その二つが、残酷なほど鮮やかに重なり合って、優子を打ちのめした。
​「これ……どうしたの?」
ようやく絞り出した優子の声は、涙でひどく掠れていた。
​「……瀬戸さんから、届いたの。私の絵、褒めてくれたんだよ。お母さん、やっぱりこの人、凄い人だよ。お母さんも、なんで泣いてるの……?」
​陽菜は、母の涙の本当の意味に気づかぬまま、困惑した表情でその一筆箋を大切そうに胸に抱えた。
優子は慌てて手の甲で涙を拭ったが、一度溢れ出した感情の濁流は止まらなかった。
​リビングからは、健太と他の娘たちがテレビを観て笑う、穏やかな声が聞こえてくる。
そのすぐ隣で、優子の平和な日常は、かつての恋人が引いた「赤い線」と、蘇った記憶によって、無残に切り裂かれていった。
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