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第19章:静かなる接近
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数日後。表彰式の熱狂がようやく落ち着きを見せ始めた頃、陽菜のもとに拓也から一通のメールが届いた。それは、前回の事務的な通告を和らげるような、穏やかで「指導者」らしい温もりのある内容だった。
『陽菜さん。先日はお父様とのご挨拶、ありがとうございました。直接お会いして、君の建築に対する純粋な情熱を改めて感じ、私も力になりたいと強く思いました。 これまでは画面越しでしたが、図面の細かなニュアンスを伝えるには、やはり対面での指導が望ましいと感じています。つきましては、私の事務所で開催している「学生向けオープンスタジオ」に招待させてください。そこでは私のスタッフも同席しますし、もちろん、ご両親が同伴されても構いません。』
陽菜はそのメールを読み上げるなり、跳ね回って喜んだ。 「お母さん! 瀬戸先生、私のこと認めてくれたんだよ! 事務所に呼んでくれるって。スタッフの人もいるし、お母さんも一緒なら安心でしょ?」
優子は、流し台の縁を指が白くなるほど強く握りしめた。拓也の「接近」は、あまりにも用意周到だった。無理に二人きりで会おうとはせず、公的な場を提案することで、優子の警戒心を解こうとしている。この正攻法の誘いを、どうやって拒めばいいというのか。
「お父さんに聞いてみる!」 陽菜は優子の返事を待たず、健太の携帯に電話をかけようと二階へ駆け上がっていった。
(……逃げられない) 優子は、窓の外の暮れなずむ景色を見つめた。拓也の意図は明確だった。彼は陽菜を通じて、優子をその場所へ引きずり出そうとしているのだ。
その日の夜。帰宅した健太は、陽菜の話を聞いて上機嫌で頷いた。 「いいじゃないか。あの瀬戸さんの事務所を見学できるなんて、陽菜にとって一生の財産になる。優子、俺と陽菜とで行こうと思うが、お前も一緒にどうだ?」
「……私は、やること多いのよ。それに彩花や結衣もいるし」 優子は必死に理由を並べ、その場は何とか「健太と陽菜」の二人で行くことで話がまとまった。直接会わずに済む。夫が一緒なら、拓也も変なことはできないはずだ――そう自分に言い聞かせ、優子は胸をなでおろした。
しかし、運命は非情だった。
訪問当日。準備を整えていた健太のスマートフォンに、仕事の緊急連絡が入った。大きなトラブルが発生したという。 「すまん、陽菜。どうしても行かなきゃならなくなった。……優子、本当に申し訳ないんだが、代わりに陽菜を連れて行ってやってくれないか? せっかくの機会を、俺のせいで台無しにしたくないんだ」
「でも、私……」 優子の拒絶は、父との外出を楽しみにしていた陽菜の、今にも泣き出しそうな顔を見て飲み込まれた。 「……わかったわ。私が行くわ」
夫の誠実さと、娘の期待。優子が大切に守ってきた「家族」という盾が、今は彼女を拓也のもとへと追い詰める刃となった。
一時間後。優子は陽菜に連れられるようにして、都心にある拓也の設計事務所を訪れた。コンクリート打ち放しのモダンなビル。その一角に、彼の城はある。
「……お母さん、顔色が悪いよ? 大丈夫?」 「ええ、少し緊張しているだけ」
重い扉を開けると、そこにはスタッフたちが忙しく立ち働く開放的な空間が広がっていた。そして、その中心。模型が置かれた大きなテーブルの前に、彼はいた。
「いらっしゃい、陽菜さん」
拓也が、ゆっくりとこちらを向く。陽菜に微笑みかけた後、その視線は、健太ではなく優子がそこに立っていることを確認すると、一瞬だけ鋭く、深く、揺れた。
「……お母様、ですね。今日は、お父様ではなく」
拓也の声。画面越しではない、本物の、低いバリトンの響き。 それが鼓膜に触れた瞬間、優子の心の中に潜伏していたはずの「女」が、叫び出しそうなほど激しく脈打った。
優子は震える唇を噛み締め、ようやく一言だけを絞り出した。 「……初めまして。主人が急用で行けなくなりまして。いつも、娘がお世話になっております」
「初めまして」という、自分たちが積み上げてきた過去のすべてを否定する嘘。 拓也はその言葉を聞いた瞬間、わずかに口角を上げた。それは、再会を喜んでいるようでも、彼女の嘘をあざ笑っているようでもあった。
「そうですか。それは残念ですが……お会いできて光栄です。さあ、どうぞ中へ」
二人の周りには陽菜やスタッフたちがいて、表面的にはどこまでも穏やかで「正しい」光景が広がっている。 けれど、優子と拓也の間にだけは、誰にも聞こえない轟音のような「沈黙の会話」が流れていた。
『陽菜さん。先日はお父様とのご挨拶、ありがとうございました。直接お会いして、君の建築に対する純粋な情熱を改めて感じ、私も力になりたいと強く思いました。 これまでは画面越しでしたが、図面の細かなニュアンスを伝えるには、やはり対面での指導が望ましいと感じています。つきましては、私の事務所で開催している「学生向けオープンスタジオ」に招待させてください。そこでは私のスタッフも同席しますし、もちろん、ご両親が同伴されても構いません。』
陽菜はそのメールを読み上げるなり、跳ね回って喜んだ。 「お母さん! 瀬戸先生、私のこと認めてくれたんだよ! 事務所に呼んでくれるって。スタッフの人もいるし、お母さんも一緒なら安心でしょ?」
優子は、流し台の縁を指が白くなるほど強く握りしめた。拓也の「接近」は、あまりにも用意周到だった。無理に二人きりで会おうとはせず、公的な場を提案することで、優子の警戒心を解こうとしている。この正攻法の誘いを、どうやって拒めばいいというのか。
「お父さんに聞いてみる!」 陽菜は優子の返事を待たず、健太の携帯に電話をかけようと二階へ駆け上がっていった。
(……逃げられない) 優子は、窓の外の暮れなずむ景色を見つめた。拓也の意図は明確だった。彼は陽菜を通じて、優子をその場所へ引きずり出そうとしているのだ。
その日の夜。帰宅した健太は、陽菜の話を聞いて上機嫌で頷いた。 「いいじゃないか。あの瀬戸さんの事務所を見学できるなんて、陽菜にとって一生の財産になる。優子、俺と陽菜とで行こうと思うが、お前も一緒にどうだ?」
「……私は、やること多いのよ。それに彩花や結衣もいるし」 優子は必死に理由を並べ、その場は何とか「健太と陽菜」の二人で行くことで話がまとまった。直接会わずに済む。夫が一緒なら、拓也も変なことはできないはずだ――そう自分に言い聞かせ、優子は胸をなでおろした。
しかし、運命は非情だった。
訪問当日。準備を整えていた健太のスマートフォンに、仕事の緊急連絡が入った。大きなトラブルが発生したという。 「すまん、陽菜。どうしても行かなきゃならなくなった。……優子、本当に申し訳ないんだが、代わりに陽菜を連れて行ってやってくれないか? せっかくの機会を、俺のせいで台無しにしたくないんだ」
「でも、私……」 優子の拒絶は、父との外出を楽しみにしていた陽菜の、今にも泣き出しそうな顔を見て飲み込まれた。 「……わかったわ。私が行くわ」
夫の誠実さと、娘の期待。優子が大切に守ってきた「家族」という盾が、今は彼女を拓也のもとへと追い詰める刃となった。
一時間後。優子は陽菜に連れられるようにして、都心にある拓也の設計事務所を訪れた。コンクリート打ち放しのモダンなビル。その一角に、彼の城はある。
「……お母さん、顔色が悪いよ? 大丈夫?」 「ええ、少し緊張しているだけ」
重い扉を開けると、そこにはスタッフたちが忙しく立ち働く開放的な空間が広がっていた。そして、その中心。模型が置かれた大きなテーブルの前に、彼はいた。
「いらっしゃい、陽菜さん」
拓也が、ゆっくりとこちらを向く。陽菜に微笑みかけた後、その視線は、健太ではなく優子がそこに立っていることを確認すると、一瞬だけ鋭く、深く、揺れた。
「……お母様、ですね。今日は、お父様ではなく」
拓也の声。画面越しではない、本物の、低いバリトンの響き。 それが鼓膜に触れた瞬間、優子の心の中に潜伏していたはずの「女」が、叫び出しそうなほど激しく脈打った。
優子は震える唇を噛み締め、ようやく一言だけを絞り出した。 「……初めまして。主人が急用で行けなくなりまして。いつも、娘がお世話になっております」
「初めまして」という、自分たちが積み上げてきた過去のすべてを否定する嘘。 拓也はその言葉を聞いた瞬間、わずかに口角を上げた。それは、再会を喜んでいるようでも、彼女の嘘をあざ笑っているようでもあった。
「そうですか。それは残念ですが……お会いできて光栄です。さあ、どうぞ中へ」
二人の周りには陽菜やスタッフたちがいて、表面的にはどこまでも穏やかで「正しい」光景が広がっている。 けれど、優子と拓也の間にだけは、誰にも聞こえない轟音のような「沈黙の会話」が流れていた。
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