​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

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第24章:沈黙の共犯者

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キッチンに漂う、焼き立てのパンの香りとコーヒーの匂い。 かつては平和の象徴だったその香りが、今の優子には吐き気を催させるほどの異臭に感じられた。

彩花は、自分の問いに沈黙で答えた母を一度だけ冷ややかに見つめると、何事もなかったかのようにトーストを口に運んだ。その所作の一つひとつに、もはや「幼い娘」としての甘えはない。

「……彩花、あの」 「お父さんには言わない。お母さんが心配しなくても」

彩花は母の言葉を遮り、感情を削ぎ落とした声で言った。 「でも、条件がある」

優子は息を呑んだ。エプロンのポケットの中で、先ほどの映画の半券を握りしめる。 「条件……?」

「陽菜のこと、これ以上邪魔しないで。瀬戸先生に会うのも、建築を学ぶのも、お母さんが勝手に決めて取り上げたりしないで。……あの子には、罪はないんだから」

その言葉は、優子にとって最も痛い場所を突いていた。 「……わかってるわ。でも、あの方と関わり続けることは、いつか……」 「いつか何? バレるのが怖いだけでしょう。自分が責められるのが嫌なだけ」 彩花は席を立ち、食器をシンクへ置いた。背を向けたまま、彼女は静かに付け加えた。 「陽菜は、自分が誰の子かなんて知らない。お父さんは、自分の子じゃないなんて疑いもしない。……その『嘘』の上に今の私たちの生活があるなら、お母さんは最後まで、死ぬまでその嘘を完璧に演じなさいよ。中途半端に怯えて、あの子の夢まで壊すなんて、そんなの自分勝手すぎる」

優子は何も言い返せなかった。 18歳の娘に、自分の人生の綻びをこれほどまで冷徹に指摘されるとは。 彩花はカバンを肩にかけると、振り返ることもなく玄関へ向かった。

その日の午後。 優子は家の中にいることが耐えられず、買い物という名目で街へ出た。 無意識に足が向いたのは、先日訪れた拓也の事務所がある街だった。

遠くから、あのコンクリートのビルを眺める。 あの場所に、かつての恋人がいて、今は自分の娘を教えている。 かつて彼と過ごした日々、建築のことは何一つわからなくても、彼の横顔を見ているだけで満たされていたあの時間が、今の自分の家族を壊そうとしている。

(私は、どうすればよかったの……)

立ち尽くす優子のスマートフォンの画面が、不意に光った。 メッセージの送り主は、瀬戸拓也だった。

『陽菜さんの指導について、少し相談したいことがあります。 来週、陽菜さんが来る前に、お母様だけで少しお話しできませんか。 もちろん、あくまで保護者の方へのフィードバックとしてです。』

事務的な言葉の羅列。けれど優子には、それが拓也からの「呼び出し」であると直感的にわかった。 彼は、優子が彩花に秘密を知られたことなど知る由もない。 だが、彼もまた、自分たちの間に流れる沈黙に限界を感じているのではないか。

優子は震える指で、返信の画面を開いた。 行けば、何かが決定的になってしまう。 けれど、行かなければ、彼は別の方法で自分の日常に踏み込んできかねない。

優子は一度だけ深く息を吐き、短い承諾の言葉を打ち込んだ。 それは、家族に隠れて「かつての男」に会いに行くという、十三年前の不貞を再び繰り返すような、背徳的な一歩だった。

その頃、高校の自習室にいた彩花は、参考書を広げたまま、全く別のことを考えていた。 自分の中に流れる父・健太への深い愛情と、母が隠していた真実への嫌悪。 そして、あの事務所で見た瀬戸拓也の、どこか悲しげな瞳。

「……みんな、嘘つきだ」

彩花は小さく呟くと、握りしめたシャープペンシルの芯を、音を立てて折った。
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