​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

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第25章:空白の問い

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夕暮れ時の設計事務所。スタッフたちが外回りや打ち合わせで席を外し、室内には空調の低い唸りだけが響いていた。

優子は、入口の重い扉を背に立ち尽くしていた。陽菜はまだいない。拓也に呼び出された時刻は、陽菜の指導が始まる三十分前だった。

「座りませんか。紅茶でも淹れましょう」 デスクから立ち上がった拓也は、十数年前と変わらぬ穏やかな所作で優子を迎え入れた。完璧な礼節を保ってはいるが、その瞳の奥には、陽菜を介していた時にはなかった剥き出しの熱が宿っている。

「……いえ、結構です。すぐに失礼しますから。娘のことで、お話があるとか」 優子はバッグの持ち手を強く握り、彼との距離を保ったまま答えた。

拓也は小さく頷くと、おもむろに机の上のタブレットを操作し、陽菜が描いた最新の設計図を表示させた。 「彼女の感性は、やはり凄まじい。……けれど、それだけではないんです」

彼はゆっくりと歩み寄り、優子のすぐ前で足を止めた。 「彼女の描く光の捉え方、空間の繋ぎ目……それは、私が誰からも教わらず、自分自身の血の中に流れていると感じてきたものと、あまりに酷似している。……陽菜さんを教えていると、まるで自分の幼い頃の魂と向き合っているような錯覚に陥るんです」

優子は息が止まりそうになった。首を振って否定しようとするが、言葉が出ない。

「佳子さん」 十数年ぶりに呼ばれた、自分の名前。 拓也の低い声が、震える優子の心を容赦なく突き刺す。

「……陽菜さんの、本当の父親は……僕なのではないですか」

沈黙が、重く、粘り強く二人の間に横たわった。 窓の外を走る車の音さえ、遠い世界の出来事のように感じる。拓也の瞳は、逃げることを許さない。彼はもう、確信していた。陽菜という存在そのものが、自分たちの過去が消えていないことの証明なのだと。

優子は、こみ上げる涙を必死に堪え、ゆっくりと頭を下げた。 深く、深く、自分の罪を認めるかのように。

「……瀬戸先生」 優子は声を絞り出した。 「あの子は、新塚陽菜です。私の夫、健太が心から愛し、十数年間、大切に育ててきた娘です。……それだけが、あの子にとっての唯一の真実なんです」

「佳子さん、僕は……」 

「お願いします」

優子は顔を上げず、さらに深く頭を下げた。 「あの子に建築を教えてくださることには、感謝しています。あの子の夢を、どうか叶えてあげてください。……でも、それ以外で私たちに関わることは、どうか、どうか遠慮していただきたいのです」

拓也は、差し伸べようとした手を空中で止めた。 優子のその姿は、十数年前に自分を突き放した時と同じ、静かな拒絶に満ちていた。自分を愛していないから拒むのではない。家族という聖域を守るために、自分という存在を必死に押し留めようとしている。

「……それが、あなたの答えですか」 拓也の問いに、優子は答えず、ただもう一度だけ深々と頭を下げると、そのまま振り返らずに事務所を飛び出した。

事務所のビルを出たところで、ちょうどこちらへ向かってくる陽菜とすれ違った。 「あ、お母さん! 早いね」 「……ええ。先生に、お礼を言ってきたところよ」 優子は必死に笑顔を作り、娘の肩を叩いた。

自宅へ帰ると、リビングでは健太がテレビを観ながらのんびりとくつろいでいた。 「おかえり。どうだった、瀬戸先生は。陽菜のこと、また褒めてたか?」 「ええ……とても」 健太は、妻の瞳が赤くなっていることにも気づかず、「そりゃあよかった。瀬戸さんみたいな立派な人に認めてもらえるなんて、鼻が高いな」と笑っている。

夫の、この底抜けの善良さと、ある種の鈍感さ。 それが今まで、どれほど優子を救い、同時に今の彼女を苦しめていることか。

一方、一人残された事務所で、拓也は優子が立っていた場所を見つめ続けていた。 拒絶はされた。けれど、彼女は否定もしなかった。

「……やはり、そうだったんだな」

拓也は、デスクの上の陽菜の図面にそっと指を触れた。 血の繋がりを確信した今、彼の中に芽生えたのは、家庭を壊してまで彼女を奪い取りたいという野心ではなかった。 ただ、一人の父親として、彼女の人生に何が最善なのか。 陽菜が今の家族を愛しているのなら、その平穏を守りながら、自分は陰で彼女の才能という花をどう守るべきか。 彼の中に生まれたのは、執着という名に似た、あまりにも重く深い「覚悟」だった。
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