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第29章:鏡合わせの警告
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「……少し、席を外すわね」
優子は震える膝を隠すように立ち上がった。テーブルでは健太と拓也、そして陽菜が建築の未来について熱っぽく語り合っている。その輪の中に一秒でも長く留まれば、心臓が破裂してしまいそうだった。
化粧室へと向かう廊下は、フロアの喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁に飾られたモダンな抽象画が、今の優子の混乱を映し出しているようだった。
鏡の前に立ち、冷たい水で指先を冷やす。鏡に映る自分は、端から見れば「幸せな家庭の妻」そのものだ。けれど、その内側は十数年前から止まったままの時計が、狂ったように時を刻み始めていた。
「佳子さん」
背後からかけられた声に、優子の肩が跳ねた。
振り返ると、いつの間にか席を立っていた拓也がそこにいた。彼はホストとしての柔らかな笑みを消し、一人の男として優子を見つめていた。
「……何のつもりですか、先生。あんなふうに、主人の隣に座るなんて」
「僕が望んだことではありません。健太さんに呼ばれて、断れるはずがない」
拓也は一歩、歩み寄った。
「今日、健太さんに会って、確信しました。彼は、本当に素晴らしい父親だ。陽菜さんを、あんなに真っ直ぐな、光を愛する子に育ててくれた」
「なら、もう二度と近づかないで……」
「それはできない」
拓也の言葉は静かだが、鋼のような固さを持っていた。
「僕は今日まで、自分の才能だけを信じて生きてきた。けれど、あの子の描く線の中に自分を見つけてしまった。彼女を教えることは、僕にとって自分自身の命を肯定することなんです。……佳子さん、僕は健太さんを裏切るつもりも、今のあなたの家庭を壊すつもりもありません」
「……言っていることが矛盾しているわ」
「いいえ。僕は『建築家』として、あの子を守り抜く。あなたの嘘を守りながら、あの子の才能も守る。それが、僕にできる唯一の贖罪なんです」
優子は言葉を失った。拓也の瞳にあるのは、独占欲ではなく、血の繋がりを認めたがゆえの、重すぎる「責任感」だった。彼は、家族という形を壊さないまま、陽菜という才能を自分の手元に留め置こうとしている。それは、優子にとって最も残酷で、逃げ場のない監獄だった。
一方、テーブルでは彩花が独り、残された冷めたジンジャーエールを眺めていた。
健太は陽菜と笑い合っている。その父の顔を見るのが、今は何よりも辛い。
「お父さん、少し外の空気吸ってくる」
「お、そうか? 迷子になるなよ、彩花」
健太の冗談を背に、彩花はレストランのテラスへと出た。
夜の都心のビル群が、星のように輝いている。美しくて、冷たい景色。
「……お父さん」
彩花は小さく呟いた。
もし、自分がこの秘密を一生抱え続けたら。
もし、陽菜がいつか、自分の中の「本当の父」の影に気づいてしまったら。
その時、彩花の背後で自動ドアが開く音がした。
戻ってきた優子と、少し遅れて現れた拓也。二人の間に流れる空気は、フロアの誰よりも濃密で、そして致命的なまでに断絶していた。
優子はテラスに立つ彩花の姿を見つけると、縋るような目を向けた。
彩花はそれを受け止め、無言で母の傍に歩み寄る。
「帰ろう、お母さん。……もう、十分でしょ」
彩花の声には、母を許したわけではないが、この地獄のような晩餐を終わらせようとする、冷徹なまでの優しさが籠もっていた。
二人がテーブルに戻ると、健太が上機嫌で会計を済ませようとしていた。
「いやぁ、本当にいい夜だった。先生、またぜひ、今度はうちの近所でも一杯やりましょう!」
拓也は、優子と彩花の視線を真正面から受け止めながら、深く、静かに頭を下げた。
「ええ。……ぜひ。また、陽菜さんの指導でお会いしましょう」
レストランを出る新塚家。
夜風の中で、健太は陽菜と結衣の肩を抱き、満足そうに歩き出す。
その数歩後ろで、優子と彩花は、一度も振り返ることなく、暗い夜の街へと消えていった。
優子は震える膝を隠すように立ち上がった。テーブルでは健太と拓也、そして陽菜が建築の未来について熱っぽく語り合っている。その輪の中に一秒でも長く留まれば、心臓が破裂してしまいそうだった。
化粧室へと向かう廊下は、フロアの喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁に飾られたモダンな抽象画が、今の優子の混乱を映し出しているようだった。
鏡の前に立ち、冷たい水で指先を冷やす。鏡に映る自分は、端から見れば「幸せな家庭の妻」そのものだ。けれど、その内側は十数年前から止まったままの時計が、狂ったように時を刻み始めていた。
「佳子さん」
背後からかけられた声に、優子の肩が跳ねた。
振り返ると、いつの間にか席を立っていた拓也がそこにいた。彼はホストとしての柔らかな笑みを消し、一人の男として優子を見つめていた。
「……何のつもりですか、先生。あんなふうに、主人の隣に座るなんて」
「僕が望んだことではありません。健太さんに呼ばれて、断れるはずがない」
拓也は一歩、歩み寄った。
「今日、健太さんに会って、確信しました。彼は、本当に素晴らしい父親だ。陽菜さんを、あんなに真っ直ぐな、光を愛する子に育ててくれた」
「なら、もう二度と近づかないで……」
「それはできない」
拓也の言葉は静かだが、鋼のような固さを持っていた。
「僕は今日まで、自分の才能だけを信じて生きてきた。けれど、あの子の描く線の中に自分を見つけてしまった。彼女を教えることは、僕にとって自分自身の命を肯定することなんです。……佳子さん、僕は健太さんを裏切るつもりも、今のあなたの家庭を壊すつもりもありません」
「……言っていることが矛盾しているわ」
「いいえ。僕は『建築家』として、あの子を守り抜く。あなたの嘘を守りながら、あの子の才能も守る。それが、僕にできる唯一の贖罪なんです」
優子は言葉を失った。拓也の瞳にあるのは、独占欲ではなく、血の繋がりを認めたがゆえの、重すぎる「責任感」だった。彼は、家族という形を壊さないまま、陽菜という才能を自分の手元に留め置こうとしている。それは、優子にとって最も残酷で、逃げ場のない監獄だった。
一方、テーブルでは彩花が独り、残された冷めたジンジャーエールを眺めていた。
健太は陽菜と笑い合っている。その父の顔を見るのが、今は何よりも辛い。
「お父さん、少し外の空気吸ってくる」
「お、そうか? 迷子になるなよ、彩花」
健太の冗談を背に、彩花はレストランのテラスへと出た。
夜の都心のビル群が、星のように輝いている。美しくて、冷たい景色。
「……お父さん」
彩花は小さく呟いた。
もし、自分がこの秘密を一生抱え続けたら。
もし、陽菜がいつか、自分の中の「本当の父」の影に気づいてしまったら。
その時、彩花の背後で自動ドアが開く音がした。
戻ってきた優子と、少し遅れて現れた拓也。二人の間に流れる空気は、フロアの誰よりも濃密で、そして致命的なまでに断絶していた。
優子はテラスに立つ彩花の姿を見つけると、縋るような目を向けた。
彩花はそれを受け止め、無言で母の傍に歩み寄る。
「帰ろう、お母さん。……もう、十分でしょ」
彩花の声には、母を許したわけではないが、この地獄のような晩餐を終わらせようとする、冷徹なまでの優しさが籠もっていた。
二人がテーブルに戻ると、健太が上機嫌で会計を済ませようとしていた。
「いやぁ、本当にいい夜だった。先生、またぜひ、今度はうちの近所でも一杯やりましょう!」
拓也は、優子と彩花の視線を真正面から受け止めながら、深く、静かに頭を下げた。
「ええ。……ぜひ。また、陽菜さんの指導でお会いしましょう」
レストランを出る新塚家。
夜風の中で、健太は陽菜と結衣の肩を抱き、満足そうに歩き出す。
その数歩後ろで、優子と彩花は、一度も振り返ることなく、暗い夜の街へと消えていった。
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