​三十路の決断、四十路の静寂(しじま)

MisakiNonagase

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第30章:日常への帰還と、新たな亀裂

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​都心のレストランでの喧騒が嘘のように、深夜の自宅は静まり返っていた。
健太と陽菜、結衣は、心地よい疲れと満足感に包まれながら、それぞれの部屋へと引き上げていった。しかし、優子と彩花だけは、見慣れたはずの我が家のリビングで、何者かに侵食されたような言いようのない違和感を覚えていた。
​優子は「少し頭が痛むの」と言い残し、逃げるように寝室へ向かった。
「お、大丈夫か? はしゃぎすぎたかな」
廊下で健太が心配そうに声をかける。その濁りのない優しさが、今の優子にはどんな刃物よりも鋭く、自分の心臓を削り取っていくように感じられた。
​優子は暗い寝室で横になり、天井を見つめた。
レストランでの拓也の言葉が、耳元で何度もリフレインする。
『僕は「建築家」として、あの子を守り抜く。あなたの嘘を守りながら、あの子の才能も守る』
それは救いなどではなく、一生、彼という影に支配され続けるという宣告だった。
​二階の陽菜の部屋からは、楽しげな鼻歌が聞こえていた。
彩花は、自分の部屋へ戻る足を止め、吸い寄せられるように陽菜の部屋のドアを叩いた。
​「陽菜、まだ起きてる?」
「あ、彩花お姉ちゃん。見てよこれ、今日先生から貰ったんだ」
​陽菜が机の上で見せてくれたのは、一冊の古びた洋書だった。建築の巨匠による設計を特集した画集。
「これ、先生が学生の頃にずっと大切にしてた本なんだって。陽菜なら、この本に描いてあることが理解できるはずだ、って……」
​陽菜は、宝物を手に入れた子供のように瞳を輝かせている。
彩花はその本を手に取った。表紙の端は擦り切れ、何度も読み返された形跡がある。ページをめくると、余白には細かなスケッチやメモが書き込まれていた。その独特な筆跡。あの化粧箱に隠されていたイラストのサインと、全く同じものだった。
​「……これ、返してきなよ」
「えっ、どうして? 先生がくれるって言ったんだよ」
「重すぎるんだよ、こんなの。あんな人の『想い』が詰まったものなんて……」
​彩花の声が、自分でも驚くほど冷たく響いた。
陽菜の無垢な憧れが、拓也の「執着」によって着実に塗り替えられていく。それを黙って見ていることが、彩花には耐えられなかった。
​「お姉ちゃん、なんだか今日ずっと変だよ。お母さんも……」
「変なのは、この家よ!」
​彩花は思わず声を荒らげた。陽菜が驚いて肩をすくめる。
その時、ドアが開いた。階段を上がってきた健太だった。
​「どうした、二人とも。こんな夜中に大きな声を出して」
健太は不思議そうに娘たちを見つめた。その手には、優子のために用意した白湯のコップが握られていた。
​「……なんでもない。ただの、受験のストレス。ごめん」
彩花は吐き捨てるように言い、健太の横をすり抜けて自分の部屋へ駆け込んだ。
​一人残された陽菜は、戸惑いながら健太を見た。
「お父さん、彩花お姉ちゃん、瀬戸先生のこと嫌いなのかな……」
「そんなことはないさ。彩花も疲れてるんだよ。ほら、もう寝なさい」
​健太は陽菜の頭を優しく撫で、机に置かれたその画集を手に取った。
「……いい本だな。先生に感謝しなきゃな、陽菜」
​何も知らない父。その手が、陽菜の実の父親が大切にしていた本を、愛おしそうに撫でている。
この「平和」な光景こそが、彩花にとっては耐え難い地獄だった。
​自室のベッドに倒れ込んだ彩花は、枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
父を裏切り続ける母。父を欺きながら娘を導く拓也。そして、すべてを知りながら、父の笑顔のために嘘を支え続けている自分自身。
​「……お父さん、ごめんなさい」
​新塚家という名の幸福な物語は、見慣れた自宅の屋根の下で、目に見えない無数の亀裂を走らせながら、静かに崩壊へのカウントダウンを始めていた。
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