2 / 9
第2話:審判の夜
不倫の事実に気づいてから2週間。徹は、地獄のような日々を過ごしていた。 仕事中も、ふとした瞬間に美香が別の男と肌を重ねる光景が脳裏をよぎり、激しい吐き気に襲われる。調査会社から届いた封筒には、ホテルから腕を組んで出てくる二人の姿が鮮明に写っていた。相手は美香より12歳も若い、34歳の男だった。
5月の金曜日の夜。 大輔はサークルの合宿で不在、真司は塾で帰りが遅い。家の中には、徹と、鼻歌まじりに明日の外出の準備をする美香の二人きりだった。
「明日、また友達とランチなの?」 徹の問いに、美香は鏡越しに口紅を引きながら、事も無げに答えた。 「ええ。久しぶりに横浜まで足を伸ばそうかって話してるの。遅くなるかもしれないから、夕飯は適当に食べてね」
その、あまりに滑らかで、あまりに無慈悲な嘘。 徹の中で、何かが音を立てて千切れた。
「……横浜の、どのホテルで食べるんだ?」
美香の手が止まった。鏡の中の彼女の瞳が、泳ぐ。 「え? 何言ってるの、徹さん。ホテルなんて……」 「とぼけるなよ、美香。これを見ても同じことが言えるのか?」
徹はダイニングテーブルに、調査会社から突きつけられた写真をぶちまけた。 美香の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼女は震える手で写真を一枚手に取り、それを信じられないものを見るような目で見つめた。
「どうして……どうしてこんなこと……」 「それは俺のセリフだ! 20年だぞ、美香。大輔や真司がどんな気持ちでこの家にいると思ってるんだ。お前が浮ついた遊びに興じている間、俺がどんな思いでこの家族を守ってきたか、一度でも考えたことがあるのか!」
徹の声が、静まり返ったリビングに怒号となって響いた。美香はしばらく呆然としていたが、やがて顔を覆って泣き崩れた。 「ごめんなさい……寂しかったの。あなたが仕事ばかりで、私はただの家政婦みたいに感じて……」
「寂しい? だったらなぜ、俺に話さなかった。なぜ別の男の腕の中に逃げたんだ。それは理由じゃない。ただの甘えだ。お前が選んだのは、家族じゃなく、一瞬の快楽だろう」
徹の言葉は、氷のように冷たく、鋭かった。 泣き叫ぶ妻を見下ろしながら、徹が感じたのは、勝利感でも怒りの解消でもなかった。ただ、目の前にいる女が、かつて愛した女性とは別の「何か」に見えるという、底知れない空虚さだけだった。
その時、玄関のドアが開く音がした。真司が帰ってきたのだ。 「……何、これ」 廊下に立ち尽くす16歳の息子の足元には、散らばった写真が何枚か滑り落ちていた。真司の顔が、嫌悪と蔑みで歪んでいく。
「真司、これは……」 美香が這いずるように息子に手を伸ばそうとしたが、真司はそれを冷たく振り払った。 「触んなよ。汚らわしい」
その一言が、美香の胸に徹の言葉以上の深手を負わせた。彼女はその場に崩れ、ただ声を殺して震えることしかできなかった。
【幕間:美香の独白】
「あの瞬間、私の人生の歯車が狂った音がしたわ。徹さんの怒りに満ちた目も、真司の氷のような冷たい言葉も、すべてが私を責め立てる刃に見えた。でもね、心のどこかで『バレて良かった』と思っている自分もいたの。だって、もう嘘をつき続けるのは限界だったから。でも、その代償がこれほどまでに重いなんて、その時の私はまだ、本当の意味で理解していなかったのよ」
5月の金曜日の夜。 大輔はサークルの合宿で不在、真司は塾で帰りが遅い。家の中には、徹と、鼻歌まじりに明日の外出の準備をする美香の二人きりだった。
「明日、また友達とランチなの?」 徹の問いに、美香は鏡越しに口紅を引きながら、事も無げに答えた。 「ええ。久しぶりに横浜まで足を伸ばそうかって話してるの。遅くなるかもしれないから、夕飯は適当に食べてね」
その、あまりに滑らかで、あまりに無慈悲な嘘。 徹の中で、何かが音を立てて千切れた。
「……横浜の、どのホテルで食べるんだ?」
美香の手が止まった。鏡の中の彼女の瞳が、泳ぐ。 「え? 何言ってるの、徹さん。ホテルなんて……」 「とぼけるなよ、美香。これを見ても同じことが言えるのか?」
徹はダイニングテーブルに、調査会社から突きつけられた写真をぶちまけた。 美香の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼女は震える手で写真を一枚手に取り、それを信じられないものを見るような目で見つめた。
「どうして……どうしてこんなこと……」 「それは俺のセリフだ! 20年だぞ、美香。大輔や真司がどんな気持ちでこの家にいると思ってるんだ。お前が浮ついた遊びに興じている間、俺がどんな思いでこの家族を守ってきたか、一度でも考えたことがあるのか!」
徹の声が、静まり返ったリビングに怒号となって響いた。美香はしばらく呆然としていたが、やがて顔を覆って泣き崩れた。 「ごめんなさい……寂しかったの。あなたが仕事ばかりで、私はただの家政婦みたいに感じて……」
「寂しい? だったらなぜ、俺に話さなかった。なぜ別の男の腕の中に逃げたんだ。それは理由じゃない。ただの甘えだ。お前が選んだのは、家族じゃなく、一瞬の快楽だろう」
徹の言葉は、氷のように冷たく、鋭かった。 泣き叫ぶ妻を見下ろしながら、徹が感じたのは、勝利感でも怒りの解消でもなかった。ただ、目の前にいる女が、かつて愛した女性とは別の「何か」に見えるという、底知れない空虚さだけだった。
その時、玄関のドアが開く音がした。真司が帰ってきたのだ。 「……何、これ」 廊下に立ち尽くす16歳の息子の足元には、散らばった写真が何枚か滑り落ちていた。真司の顔が、嫌悪と蔑みで歪んでいく。
「真司、これは……」 美香が這いずるように息子に手を伸ばそうとしたが、真司はそれを冷たく振り払った。 「触んなよ。汚らわしい」
その一言が、美香の胸に徹の言葉以上の深手を負わせた。彼女はその場に崩れ、ただ声を殺して震えることしかできなかった。
【幕間:美香の独白】
「あの瞬間、私の人生の歯車が狂った音がしたわ。徹さんの怒りに満ちた目も、真司の氷のような冷たい言葉も、すべてが私を責め立てる刃に見えた。でもね、心のどこかで『バレて良かった』と思っている自分もいたの。だって、もう嘘をつき続けるのは限界だったから。でも、その代償がこれほどまでに重いなんて、その時の私はまだ、本当の意味で理解していなかったのよ」
あなたにおすすめの小説
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。
その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。
全15話を予定
清掃員と僕の密やかな情状
MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。
青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。
肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。
44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。