17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase

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第1話:鏡の中の空白と、青い縁取り

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午前7時15分。
加恋(かれん)は、キッチンに備え付けられた大理石調のカウンターに、丁寧に焼き上げた鮭と、出汁をたっぷり含ませた卵焼き、そして彩りとして茹でたブロッコリーを並べた。
湯気がたちのぼる味噌汁からは、かつお節の芳醇な香りが漂っている。
​「悟くん、朝ごはんできてるよ」
​リビングに向かって声をかけるが、返ってくるのはテレビのニュース番組が読み上げる、どこか遠い国の情勢を伝える無機質な声だけだった。
数分後、ネクタイを締めながら現れた夫・悟は、椅子を引く音を立てて座ると、スマホの画面に目を落としたまま箸を動かした。
​「……味、どうかな?」
「ん、いいよ」
​それだけだった。加恋が今朝、あえて出汁の配合を変えたことにも、彼のために新調したランチョンマットの色が変わったことにも、彼は気づかない。悟にとって、この完璧に整えられた朝食は、朝起きたら太陽が昇っているのと同じくらい「当たり前」の現象に過ぎなかった。
​加恋は自分の分の箸を動かしながら、ふと窓に映る自分を見た。
32歳。肌の手入れも怠っていないし、スタイルも維持しているつもりだ。近所のスーパーに行けば、レジの青年が少しだけ緊張した面持ちで接客してくれることもある。
けれど、この家の中での彼女は、壁に掛けられたカレンダーや、隅に置かれた空気清浄機と同じ「無機物」だった。
​(私は、ここにいるのに)
​喉の奥に、飲み込みきれない苦い塊が残るような感覚。
夫が家を出た後、加恋は習慣のようにスマホを手に取った。
​彼女の唯一の逃げ場は、インスタグラムだった。
アカウント名は『karen_life』。
投稿されるのは、吟味して選んだ服、流行のカフェ、そして洗練された自宅のインテリア。そこには「岡崎加恋」という一人の女性が、誰にも邪魔されず、最高の輝きを放っている世界があった。
​投稿ボタンを押すと、ものの数分で通知が鳴り始める。
​『今日も美魔女ですね!』
『旦那さんが羨ましいです、こんな綺麗な奥さんがいて』
『そのワンピース、どこのですか?』
​届くメッセージは、彼女の「外殻」をなぞるような言葉ばかり。美しさを称えられれば悪い気はしないが、心は1ミリも動かない。彼らは加恋自身を見ているのではない。自分たちが投影したい「理想の主婦」を見ているだけなのだ。
​そんな中、一通のコメントが加恋の指を止めさせた。
​晴人:「今日の弁当、彩りが素敵です。きっと手間かけて作られたんですね。器も可愛い。その青い縁取り、少し懐かしい感じがします。」
​加恋はハッとして、自分が投稿した写真を確認した。
主役は、新しく購入したベージュのトレンチコートを羽織り、鏡の前で微笑む自分。けれど、その背後のキッチンカウンターの端に、ほんの少しだけ、自分用に詰めた小さな木製のお弁当箱が写り込んでいた。
​「……そこ?」
​誰もがコートの質感や彼女の顔立ちについて書き込む中で、この『晴人』というユーザーだけが、写真の片隅に追いやられた彼女の「日常の努力」を見つけ出したのだ。
さらに、器の青い縁取り。それは亡くなった祖母から譲り受けた古い波佐見焼(はさみやき)のものだった。今の悟が「古臭い」と言って見向きもしない、加恋が大切にしている思い出の品。
​加恋は、吸い寄せられるように晴人のプロフィールを覗いた。
アイコンは、夕暮れの海。投稿されているのは、読みかけの文庫本や、雨粒のついた窓越しに見える街並み。
派手さはないが、どの写真にも「一人の人間の確かな視線」が感じられた。
​気づけば、彼女はDM(ダイレクトメッセージ)を送っていた。
​加恋:「コメントありがとうございます。お弁当の器に気づいていただけるなんて、驚きました。あれ、実は祖母から譲り受けた大切なもので。……なんだか、今日一日が少しだけ報われた気がします。」
​送信してから、少しだけ後悔が襲う。見ず知らずの青年に、こんな重い感情を吐露してどうするのか。
しかし、返信は驚くほど速かった。
​晴人:「報われたなんて言っていただけて、僕も嬉しいです。加恋さんの投稿は、どれも指先まで神経が行き届いていて、凛としていますね。でも、時々、その完璧さが少しだけ切なく見えることがありました。だから、あのお弁当の生活感を見た時、なんだかホッとしたんです。」
​切なく見える?
加恋は息を呑んだ。
自分でも気づかないふりをしていた「完璧な虚勢」を、20歳の大学生だというこの青年は、画面越しに見抜いていたのか。
​晴人:「僕は最近自炊を始めたばかりの大学生で、まだ加恋さんのような素敵な彩りは出せませんが……いつかあんなお弁当を作れるようになりたいです。」
​画面を見つめる加恋の頬が、少しだけ熱を帯びた。
夫には見えない自分の努力。世間には見せない自分の寂しさ。
それらが、インターネットの海を越えて、たった一人の見知らぬ青年に届いた瞬間だった。
​(晴人、くん……)
​彼という存在が、加恋の停滞していた心に、小さな、けれど確かな波紋を広げ始めていた。
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