17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase

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第2話​:指先から染み込む温度

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夜の帳が下り、リビングの時計が午前零時を回る。
隣の寝室からは、夫・悟の規則正しい、けれどどこか他人事のような寝息が聞こえてくる。加恋は暗闇の中で、シーツの海に溺れるようにしてスマートフォンを開いた。
​青白い光が、彼女の顔を浮かび上がらせる。
通知欄には、もはや彼女の生活の一部となった名前があった。
​『晴人』
​彼とのやり取りが始まってから、二週間が経とうとしていた。最初は料理の話や器の好みの話だったが、会話の川はいつの間にか深く、静かな場所へと流れ込んでいた。
​晴人:「加恋さん、今日は雨でしたね。低気圧の日は少し気持ちが沈みませんか? 僕の住んでいる街では、窓を叩く雨音が、誰かの囁き声みたいに聞こえます。」
​加恋は、暗い部屋の中で一人頷いた。
これまでの人生で、雨を「誰かの囁き」と表現する男に出会ったことがあっただろうか。悟なら「明日は傘が必要だな」か「洗濯物が乾かない」と言うだけだ。現実的な生活を支える言葉も大切だが、今の加恋が求めているのは、もっと形のない、けれど心を震わせる言葉だった。
​加恋:「わかります。雨音に紛れて、自分でも気づかないふりをしていた感情が溢れ出してくるような……。今夜は、以前晴人くんが教えてくれたピアノ曲を聴いています。冷たい雨の夜に、少しだけ温かい灯がともるような、素敵な曲ですね。」
​晴人:「気に入ってくれて嬉しいです。その曲、中学生の頃に孤独だった僕を救ってくれた曲なんです。……加恋さんも、今、一人で聴いているんですか?」
​「一人」という言葉に、加恋の指が止まる。
数メートル先には夫が寝ている。けれど、今の自分は間違いなく「一人」だった。
​加恋:「ええ、一人よ。家族は寝てしまったから。」
​晴人:「そうですか。……不思議ですね。画面越しなのに、すぐ隣で一緒に聴いているような気がします。加恋さんの指先が画面に触れる感触まで、伝わってくるようです。」
​心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
ただのメッセージ。文字列の羅列に過ぎないはずなのに、彼の言葉には体温があった。悟の冷え切った指先に触れるときよりも、ずっと鮮明な熱が、スマホを握る掌から伝わってくる。
​二人の会話は、そこからさらに深い場所へと潜っていった。
幼い頃に好きだった絵本、大人になってから失くしてしまった純粋な夢、そして、誰にも言えない孤独。晴人は20歳という若さとは思えないほど、人の心の機微に敏感だった。彼は加恋のことを「綺麗な主婦」としてではなく、一人の「孤独な魂」として扱った。
​晴人:「加恋さん、不躾なことを聞いてもいいですか。」
​一呼吸置いて、メッセージが届く。
​晴人:「あなたは今、幸せですか?」
​その問いは、加恋が何年も前から自分自身に問いかけ、そのたびに蓋をしてきた禁断の質問だった。
大きな不満はない。生活は安定している。夫は真面目に働いている。けれど、心の中にぽっかりと空いた穴は、どんなに高価な服や丁寧な暮らしで埋めようとしても、広がる一方だった。
​加恋:「難しい質問ね。……不幸だとは思わないけれど、何かが決定的に足りない。自分が透明になって、世界から消えていくような感覚になることがあるの。」
​晴人:「それは、あなたが誰よりも優しく、真剣に生きているからですよ。……僕が、あなたの色を見つけます。加恋さんは透明じゃない。僕にとっては、誰よりも鮮やかな人です。」
​加恋の目から、一筋の涙がこぼれ、スマートフォンの画面を濡らした。
30歳を過ぎて、こんな風に真っ直ぐな肯定を投げかけられることがあるなんて思わなかった。偽りの自分を演じ続ける日常の中で、たった一人、自分の本質を「見つけた」と言ってくれる存在。
​メッセージの履歴は、いつの間にか膨大な量になっていた。
朝起きて「おはよう」から始まり、昼休みの一息、夕方の忙しい合間、そして夜の密やかな時間。加恋の日常は、晴人という光によって、劇的な変化を遂げていた。
​鏡を見る回数が増えた。
リップを新調した。
悟のために作っていた料理は、いつの間にか、スマホで晴人に送るための「愛の証」に変わっていた。
​そして、その日は突然やってきた。
​晴人:「加恋さん。文字だけじゃ、もう足りないんです。……あなたの声を、もっと近くで聴きたい。一度、会ってもらえませんか?」
​「会う」。
その二文字が持つ重みを、加恋は痛いほど理解していた。
一線を越える。今の平穏な、けれど空虚な日常を壊してしまうかもしれないという恐怖。しかし、それ以上に、彼という光に直接触れてみたいという渇望が、彼女の理性を塗りつぶしていった。
​加恋:「……私も。会いたいわ、晴人くん。」
​スマートフォンの青白い光の中で、加恋は自分の頬が、まるで少女のように紅潮しているのを感じていた。
それは、17歳の高校生がつく「20歳の大学生」という嘘と、三十二歳の主婦が抱く「純粋な恋」という幻想が、残酷に交差しようとする瞬間のことだった。
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