48歳主婦の宅建試験挑戦―そして年下彼がくれた勇気と恋

MisakiNonagase

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第1話:スクロールする指先

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「お母さん、それ何?」
夕食の片付けを終えたリビングで、長女の楓(24)が不審そうに私の手元を覗き込んだ。
「ん? ああ、これ。ちょっとね、ボケ防止に」
私は、リビングのテーブルに広げた分厚い参考書を、わざと軽く叩いて見せた。表紙には大きく『らくらく宅建士・基本テキスト』と書かれている。

「宅建? 不動産屋さんにでもなるの?」
「まさか。パート先で、何か新しいこと始めたくなって。国家資格って響き、格好いいじゃない」
嘘ではないけれど、本当でもない。

夫の忠夫(53)は、テレビのニュースに目を向けたまま、「へぇ、感心だね」と他人事のように呟いた。大学3年生の長男、択実(21)にいたっては、イヤホンを耳に突っ込んだままスマホの画面に夢中で、私の言葉すら届いていないようだった。

この家の中で、私は「お母さん」であり「妻」であり「パートの中西さん」だ。
中西京香、48歳。
名前で呼ばれることも、私の内側に何が溜まっているかを聞かれることも、もう何年もなかった。

窓の外は、冷たい雨が混じる2月の風が吹いている。2026年、新しい年が始まってから、私は何かに突き動かされるようにこのテキストを手に取った。
自室に戻り、真新しい参考書を開く。

『権利関係:意思表示』
「AがBに甲土地を売却したが、Aが心理留保により……」
……心理留保。聞き慣れない言葉が、砂のように脳を滑り落ちていく。
48歳の脳に、この密度はあまりに過酷かもしれない。

ふと、今日のために作った新しいインスタグラムのアカウントを開いた。
アイコン画像は、先日、娘に内緒で撮ってもらった自分の後ろ姿だ。顔も年齢も特定できない、ただの「勉強する誰か」のシルエット。
プロフィール欄には、迷った末にこう打ち込んだ。

京香@48歳からの宅建挑戦
2月から勉強開始。不動産業未経験。主婦。10月の合格を目指して頑張ります。無言フォロー失礼します。
#宅建 #宅地建物取引士 #大人の勉強垢 #国家試験

ハッシュタグを辿ると、そこには驚くほど多くの「戦士」たちがいた。
1月から既に問題集を回している猛者もいれば、私と同じように2月から始めた初心者もいる。
カフェで広げられた付箋だらけのテキスト、深夜のデスクを照らすライト、模試の結果に一喜一憂する叫び。

私は、目に留まった数人のアカウントを順にフォローしていった。
『独学で40点超え!』と息巻く大学生、仕事の合間に暗記カードを捲る会社員。
その中に、一際目を引く写真があった。

ゆきまさ@宅建リベンジ
「去年の不合格、あと1点が足りなかった。ボロボロになった昨年のテキストはお守りにして、今年はこいつを使い倒す。今日から民法、徹底的に潰す。 #宅建 #背水の陣」

写真には、新調されたばかりの真っさらなテキストと、その横に、付箋が幾層にも重なり黒ずんだ「去年の残骸」が写っていた。
「あと1点か……。厳しい世界なんだな」
他人事のようにそう呟き、私は「いいね」を押して次の投稿へと指を滑らせた。
彼は、私がフォローした有象無象の受験生の一人に過ぎなかった。

数分後、スマホが震えた。

『ゆきまさ@宅建リベンジさんがあなたをフォローバックしました』

青い通知が、暗い部屋の中で一瞬、強く光った。
タイムラインには、いいねやコメントを送り合う仲間たちが溢れている。
2026年2月。この時はまだ、この賑やかな輪が、試験が近づくにつれて一人、また一人と静かになっていくことも。
そして、無機質なアイコンの向こう側にいる「ゆきまさ」という青年が、私の日常を根底から変えてしまう存在になることも、知る由もなかった。
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