サレ夫の監獄 ―世間体という名の鎖―

MisakiNonagase

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Case 2:鏡の中の敗北―藤代慎一の場合

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都心の一等地にそびえ立つタワーマンション。藤代慎一(45)は、28階の自室から見える夜景を愛していた。外資系コンサルティングファームのパートナーとして、血の滲むような努力で手に入れた「成功者」の証明。その傍らには、自慢の美しい妻・舞子(38)がいる。

​「慎一さん、今日もお疲れ様。ワイン、開けておくわね」

​舞子の微笑みは完璧だった。しかし、慎一はその笑顔の裏に潜む「違和感」に、一ヶ月前から気づいていた。きっかけは、彼女のクローゼットの奥に見慣れないスポーツブランドのパーカを見つけたことだ。それは、慎一が好むエルメスやカシミアの質感とは無縁の、安っぽいが、どこか若々しいエネルギーを感じさせる代物だった。
​慎一は持ち前の分析能力で、すぐに答えに辿り着いた。舞子が通うパーソナルジムの

トレーナー、佐伯遼(26)。

​ある火曜日の午後。慎一は「会議が入った」と嘘をつき、舞子が通うジムへと向かった。怒りに任せて怒鳴り込むつもりはなかった。自分には社会的地位がある。論理的に、そして経済的な優位性をもって、若造に引導を渡してやるつもりだった。
​ジムの更衣室。慎一は、レッスンの合間に一人で着替えていた佐伯を見つけ、背後から声をかけた。

​「佐伯さん。……少し、話がある」
​佐伯がゆっくりと振り返る。Tシャツを脱ぎ捨てた彼の裸体を見た瞬間、慎一の言葉が喉に張り付いた。

そこには、自分がジムに週三回通って手に入れようとしていた、しかしどうしても手に入らなかった「本物の肉体」があった。彫刻のように深い腹筋、瑞々しく張りのある肌、そして溢れんばかりの生命力。​対して、鏡に映る自分はどうだ。高級なシャツを脱げば、そこにはデスクワークで丸まった背中と、重力に逆らえない下腹部、そして隠しきれない疲労の色が滲む中年男が立っていた。

​「ああ、舞子さんの旦那さん。お疲れ様です」
​佐伯は悪びれる様子もなく、むしろ憐れむような笑みを浮かべた。慎一は必死に声を絞り出す。

​「……舞子とは、どういうつもりだ。私がどれだけ彼女に不自由のない生活をさせているか分かっているのか。君のような若造に、彼女を養えるわけがないだろう」
​それは、慎一が持てる最大の武器――「経済力」による攻撃だった。しかし、佐伯は鼻で笑った。

​「養う? 旦那さん、勘違いしてませんか。彼女が僕に求めてるのは、お金じゃなくて『生きてる実感』ですよ。あなたの隣にいる時の彼女、死んだ魚みたいな目をしてるって知ってました? 僕の腕の中では、あんなにかわいい声で泣くのに」

​「貴様……!」
​「殴りますか? でも、それやったらあなたのキャリア、終わりですよね。あ、慰謝料とかも言わないほうがいいですよ。公になったら、『45歳のエリートが、20代のフリーターに寝取られた』って、会社や近所に知れ渡る。……それ、耐えられます?」

​佐伯の一言一言が、鋭いメスのように慎一の自尊心を切り裂いていく。
正論だった。慎一にとって、世間体は何よりも重い。不倫を暴き、裁判をすれば勝てるだろう。だが、その代償は「無様な敗北者」というレッテルだ。

​結局、慎一は一言も言い返せず、逃げるように更衣室を後にした。

​その夜。
帰宅すると、舞子がリビングで雑誌を眺めていた。慎一がアイロンをかけたはずのシャツを着て、昼間、佐伯に抱かれた体で、平然と「おかえり」と言う。

​「……慎一さん? どうしたの、顔色が悪いわよ」
​舞子が近づき、慎一の肩に手を置く。その手の感触さえも、今は汚らわしい。だが、彼はその手を振り払うことができなかった。

​「……いや、仕事が少し立て込んでね。今日、君の好きなヴィンテージのワインを買ってきたんだ。開けようか」

​慎一は、震える手でコルクを抜いた。
もし、あのパーカを見つけなければ。もし、ジムに行かなければ。
知らないフリをしていれば、自分はまだ「選ばれた成功者」のままでいられたのに。

​「美味しいわ、やっぱり慎一さんの選ぶものはセンスがいいわね」
​舞子の言葉が、空虚に響く。

慎一は、スマートフォンのカメラを起動した。
​「舞子、こっち向いて。久しぶりに、二人で撮ろう」

​SNSにアップされた写真は、完璧な夫婦の肖像だった。
『妻と、至福の一杯。いつも支えてくれてありがとう。 #理想の夫婦 #幸せな日常』
​数分後、その投稿に「いいね!」がついた。

アイコンは、あの佐伯遼のものだった。

誰にもバレていない。公にはなっていない。

だが、藤代家の空気は、ゆっくりと、確実に死臭を放ち始めていた。
​慎一は、自分の選んだ最高級のワインが、泥水のような味がすることに、ただ絶望した。
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