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第8章:虚飾の再会
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秋葉原の喧騒を逃れ、僕は逃げ込むように地下鉄に乗った。心臓の鼓動がいつまでも耳元でうるさく鳴っている。
あのロングブーツを履いた母の姿、そして男たちに注いでいた慈愛に満ちた微笑。僕は震える指で、スマートフォンの発信ボタンを押した。
数回のコール音の後、聞き慣れた、けれど今の僕には毒のように響く声が耳に届く。
「……もしもし、京介? どうしたの、こんな時間に」
「あ、いや。なんとなく、声が聞きたくなってさ。母さん、今どこ?」
僕は自分の声が掠れているのを自覚し、努めて平静を装った。
「あら、奇遇ね。実はね、ちょっと用事があって東京に来てるのよ。今日はこっちに一泊する予定なの」
用事。彼女はそれを決して「イベント」とは言わない。僕はその嘘を飲み込み、喉の奥に溜まった苦い唾液と一緒に吐き出した。
「そうなの? じゃあ……もし時間があるなら、これから飯でもどうかな。駅の近くに、いい居酒屋があるんだ」
一瞬の間があった。彼女が何を考えているのか、今の僕には見当もつかない。けれど、彼女はいつもの穏やかなトーンで答えた。
「ええ、喜んで。お母さんも、京介に会いたいと思ってたところよ」
一時間後、神田のガード下にある、騒がしい居酒屋の片隅。僕は、数時間前にステージの上で光を浴びていた女性と、テーブルを挟んで向き合っていた。
母は、ステージで見せたあのタイトなミニスカートの上に、地味なハーフコートを羽織っていた。
けれど、足元にはまだ、あの黒いロングブーツが光っている。
プロの手によるメイクは落とされていたが、どこか都会の空気に洗練された艶っぽさが、隠しきれずに滲み出ていた。
「はい、お疲れ様」
生ビールのジョッキを合わせる。母は美味しそうに喉を鳴らし、ぷはあ、と息を吐いた。
「やっぱり東京のお酒は、なんだか少し気取ってるわね」
そう言って笑う彼女の目尻には、僕がよく知る小皺が浮かんだ。目の前にいるのは、紛れもなく僕を育ててくれた母だ。けれど、僕の脳裏には、先ほど見た掲示板の書き込みがフラッシュバックする。
『彩子の泣き顔は、絶望の深さが違う』
「……母さん、東京には何の用事だったの?」
唐突な問いに、母の箸がわずかに止まった。彼女は焼き鳥のつくねを一口頬張り、ゆっくりと咀嚼してから答えた。
「お店の仕入れの関係よ。新しいお酒の相談とか、いろいろね」
嘘だ。完璧な、そして慈しみに満ちた嘘。僕はその嘘を暴くこともできず、ただ黙ってビールを流し込んだ。この人は、僕を大学まで出すために、今もこうして「中村彩子」を演じ、身体を削り、そしてこの安居酒屋で僕と笑い合っている。
「京介、あんた最近、ちゃんと眠れてる? 目の下にクマができてるわよ」
母の白い指が、僕の頬に触れようとして、ためらうように引っ込んだ。
その指先。あの動画の中で、屈強な男の背中に爪を立て、絶頂のあまり震えていた、あの指。僕は反射的に顔を背けてしまった。
「……大丈夫だよ。ただの仕事の疲れ。母さんこそ、無理してないか?」
「私は大丈夫。最近は、なんだか新しい自分を見つけたみたいで、毎日が楽しいのよ」
毎日が、楽しい。あの蹂躙される日々が。あの悲鳴を上げる撮影が。彼女にとっての「解放」になっているのだとしたら、息子である僕に、それを否定する権利があるのだろうか。
店を出ると、夜の冷たい風が僕たちの間を通り抜けた。ホテルの入り口まで送り届ける道すがら、僕は隣を歩く母の横顔を盗み見た。
ロングブーツの踵が、アスファルトを硬い音で叩く。
「じゃあね、京介。明日、お野菜送る準備しておくわね」
母はそう言って、僕の頭を優しく撫でた。その手の温もりは、幼い頃と何も変わっていなかった。けれど、彼女がホテルの自動ドアの向こうへ消えていく背中を見送ったとき、僕は耐えきれずにその場に蹲った。
僕の知っている母は、もうどこにもいない。同時に、僕の中にいる「純粋な息子」もまた、あの秋葉原のステージを見た瞬間に死んでしまったのだ。
あのロングブーツを履いた母の姿、そして男たちに注いでいた慈愛に満ちた微笑。僕は震える指で、スマートフォンの発信ボタンを押した。
数回のコール音の後、聞き慣れた、けれど今の僕には毒のように響く声が耳に届く。
「……もしもし、京介? どうしたの、こんな時間に」
「あ、いや。なんとなく、声が聞きたくなってさ。母さん、今どこ?」
僕は自分の声が掠れているのを自覚し、努めて平静を装った。
「あら、奇遇ね。実はね、ちょっと用事があって東京に来てるのよ。今日はこっちに一泊する予定なの」
用事。彼女はそれを決して「イベント」とは言わない。僕はその嘘を飲み込み、喉の奥に溜まった苦い唾液と一緒に吐き出した。
「そうなの? じゃあ……もし時間があるなら、これから飯でもどうかな。駅の近くに、いい居酒屋があるんだ」
一瞬の間があった。彼女が何を考えているのか、今の僕には見当もつかない。けれど、彼女はいつもの穏やかなトーンで答えた。
「ええ、喜んで。お母さんも、京介に会いたいと思ってたところよ」
一時間後、神田のガード下にある、騒がしい居酒屋の片隅。僕は、数時間前にステージの上で光を浴びていた女性と、テーブルを挟んで向き合っていた。
母は、ステージで見せたあのタイトなミニスカートの上に、地味なハーフコートを羽織っていた。
けれど、足元にはまだ、あの黒いロングブーツが光っている。
プロの手によるメイクは落とされていたが、どこか都会の空気に洗練された艶っぽさが、隠しきれずに滲み出ていた。
「はい、お疲れ様」
生ビールのジョッキを合わせる。母は美味しそうに喉を鳴らし、ぷはあ、と息を吐いた。
「やっぱり東京のお酒は、なんだか少し気取ってるわね」
そう言って笑う彼女の目尻には、僕がよく知る小皺が浮かんだ。目の前にいるのは、紛れもなく僕を育ててくれた母だ。けれど、僕の脳裏には、先ほど見た掲示板の書き込みがフラッシュバックする。
『彩子の泣き顔は、絶望の深さが違う』
「……母さん、東京には何の用事だったの?」
唐突な問いに、母の箸がわずかに止まった。彼女は焼き鳥のつくねを一口頬張り、ゆっくりと咀嚼してから答えた。
「お店の仕入れの関係よ。新しいお酒の相談とか、いろいろね」
嘘だ。完璧な、そして慈しみに満ちた嘘。僕はその嘘を暴くこともできず、ただ黙ってビールを流し込んだ。この人は、僕を大学まで出すために、今もこうして「中村彩子」を演じ、身体を削り、そしてこの安居酒屋で僕と笑い合っている。
「京介、あんた最近、ちゃんと眠れてる? 目の下にクマができてるわよ」
母の白い指が、僕の頬に触れようとして、ためらうように引っ込んだ。
その指先。あの動画の中で、屈強な男の背中に爪を立て、絶頂のあまり震えていた、あの指。僕は反射的に顔を背けてしまった。
「……大丈夫だよ。ただの仕事の疲れ。母さんこそ、無理してないか?」
「私は大丈夫。最近は、なんだか新しい自分を見つけたみたいで、毎日が楽しいのよ」
毎日が、楽しい。あの蹂躙される日々が。あの悲鳴を上げる撮影が。彼女にとっての「解放」になっているのだとしたら、息子である僕に、それを否定する権利があるのだろうか。
店を出ると、夜の冷たい風が僕たちの間を通り抜けた。ホテルの入り口まで送り届ける道すがら、僕は隣を歩く母の横顔を盗み見た。
ロングブーツの踵が、アスファルトを硬い音で叩く。
「じゃあね、京介。明日、お野菜送る準備しておくわね」
母はそう言って、僕の頭を優しく撫でた。その手の温もりは、幼い頃と何も変わっていなかった。けれど、彼女がホテルの自動ドアの向こうへ消えていく背中を見送ったとき、僕は耐えきれずにその場に蹲った。
僕の知っている母は、もうどこにもいない。同時に、僕の中にいる「純粋な息子」もまた、あの秋葉原のステージを見た瞬間に死んでしまったのだ。
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