名器と呼ばれて…

MisakiNonagase

文字の大きさ
1 / 37

第1章:名器だから…

しおりを挟む
武田加代子は洗面所の鏡に映る自分を見つめた。54歳。 目尻には深く刻まれた小じわ、首筋には年輪のように浮かぶライン。白髪は染めていたが、生え際にはもう、白い根がちらほらと覗いている。彼女はそっと自分の頬に手を当てた。肌のハリは、どこへ消えたのだろう。かつては「ぽっちゃりして可愛い」と言われた頬も、今では弛みが目立つ。

「ただいま」

夫の声が玄関から聞こえた。加代子は慌てて手を下ろし、洗面所を出てリビングへ向かった。夫は新聞を持ち、いつものように無言でソファに座り、テレビのニュースをつけた。会話はない。もう何年も、実質的な会話などなかった。

子供たちは独立し、家には静寂と、互いに干渉しないという暗黙の了解だけが残っている。平行線。それが彼らの関係の、最も正確な表現だった。

5年前、49歳の時。子育ても一段落している中、突然訪れた巨大な空虚。その空虚を埋めるように、興味本位で登録したマッチングアプリ。背徳感はあった。人妻である自分が、そんな場に身を置くことへの後ろめたさ。それでも、押し寄せる好奇心と寂しさに抗えなかった。

そして、凛音(りおん)に出会った。当時20歳。プロフィール写真の笑顔は眩しく、無邪気だった。最初のメッセージは、彼からだった。 「こんにちは。お姉さん、素敵な笑顔ですね」

その言葉に、久しぶりに胸が高鳴った。話を始めると、彼は驚くほど優しかった。加代子が家庭を持つことを告げると、「大丈夫です。無理のない範囲で」と配慮を見せ、彼女の愚痴やどうでもいい日常の話を、相槌を打ちながら、じっくり聞いてくれた。29歳も年下の少年に、まるで少女のように甘え、気にかけてもらえることに、加代子はどっぷりと浸かった。それは凍りついた日常の中に、突然差し込んだ一筋の温かな光のように感じられた。

初めて会ったのは、落ち着いたカフェだった。凛音は写真以上に端正な顔立ちで、少し照れくさそうに笑った。彼は加代子の緊張をほぐすように、大学生活やアルバイトの話を面白おかしく語り、彼女を笑わせた。その後、何度か食事や散歩を重ねた。手をつなぎ、時には軽く抱きしめられ、加代子は数十年ぶりに「女」として見られているような、くすぐったい喜びを覚えた。

初めて肉体関係を持ったのは、出会ってから2ヶ月後のことだった。緊張で身体が硬くなる加代子に、凛音は「ゆっくりでいいよ」と囁き、いたわるように愛撫した。その優しさに、加代子は全てを委ねた。行為の後、彼は加代子をぎゅっと抱きしめ、「すごかったよ、加代子さん」と耳元で言った。加代子は、顔を彼の胸に埋めて、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。

しかし、その優しさは、脆いガラスのように、すぐに割れてしまった。

数回、ホテルで会ううちに、凛音からの連絡は突然、途絶えた。メッセージを送っても既読がつかず、電話も出ない。加代子は毎日、スマホを握りしめ、通知音に飛び上がるほど怯えた。自分が何か間違ったことをしたのだろうか。年齢の差が、ついに彼を引かせたのだろうか。不安と自己嫌悪に苛まれ、夜も眠れない日が続いた。

そして、1ヶ月後。突然、凛音からメッセージが届いた。 「久しぶり。会えない?」 胸が締め付けられるような思いと、抑えきれない安堵。加代子はためらいもなく「会いたい」と返信した。

再会した凛音は、相変わらずの笑顔だったが、何かが変わっていた。カフェでの長話はなく、軽い挨拶の後、すぐに「ホテル行こう」と言った。加代子は少し戸惑ったが、彼に会えた喜びがそれを上回った。ホテルの部屋では、以前のような長い前戯はなかった。凛音は加代子を抱きしめ、すぐに身体を求めてきた。行為の最中、彼はふと、加代子の耳元で呟いた。

「加代子さん、やっぱり…名器だね」

その言葉を、加代子は最初、最大級の褒め言葉として受け止めた。彼女の身体が、彼を引き留める唯一の理由。そう思うと、複雑な誇らしさと、どこか卑屈な喜びが込み上げた。

それ以来、パターンが固定した。凛音は突然消え、1ヶ月か2ヶ月後、時に3ヶ月後に、唐突に「今日、空いてる?」と連絡してくる。加代子が「空いてる」と返信すると、待ち合わせ場所と時間だけが送られてくる。カフェや食事は最早なく、最初からホテルの名前だけが提示されるようになった。ホテル代は、いつの間にか加代子が支払うことが当然のようになっていた。

そして、行為。以前は、次の行為を期待させるような甘い言葉(彼はそれを「枕トーク」と呼んでいた)が長く交わされたものだ。今はない。凛音は入室すると、ほとんど言葉を交わさず、キスをしながら服を脱がせようとする。最近では、加代子の上半身の服を脱がさないことさえある。

「下半身だけでいい。その方が…都合がいいし」

ある時、凛音がそう言い、加代子のスカートだけをまくり上げた時のことは、今でも鮮明に覚えている。彼は自分のジーンズのチャックを下ろすと、加代子が自分で下着を脱ぐのを、少しイライラした様子で待っていた。「濡らしといてくれると助かるんだけどな…」冷たい言葉に、加代子の胸は刺すように痛んだ。

彼女は俯き、言われた通りにした。行為中、凛音は時折、もう一方の手でスマホを操作していた。画面の光が暗い室内でちらつく。彼の視線は加代子の身体ではなく、その小さな画面に向けられている。彼の体重が覆い被さり、動く。その行為は、もはや愛撫というより、単調で事務的な運動に近かった。

加代子は天井のシミを見つめ、自分がここにいる理由を考えた。

名器……彼が唯一、私を必要とする理由。 彼のあの一言が、加代子の中で増殖し、歪んだ解釈を生み出していった。

「ぽっちゃりだけど、名器だから」

「おばちゃんだけど、名器だから」

「不細工だけど、名器だから」

「美魔女じゃないけど、名器だから」

だから、彼は去ってはまた帰ってくる。私という人間ではなく、この身体の、この一部だけを求めて。そう思うと、涙が頬を伝った。凛音はそれに気づいたが、無視した。ただ、動きを止めることさえしなかった。

ある晩、行為が一段落した後、加代子は我慢できずに口を開いた。恥ずかしいほどに必死な、哀願のような声で。 「凛音くん…私、何でもするから。だから…捨てないで。連絡、絶やさないで」

一瞬、凛音の動きが止まった。彼は加代子の顔を見下ろし、その目には一瞬、何かが掠めたが、すぐに冷たい、どこか嘲るような笑みに変わった。「わかったよ。そんなに怖がらなくても」

それ以来、彼の扱いは明らかに雑になった。言葉はより少なく、前戯はほぼ皆無。スマホを弄りながらの行為が常態化した。加代子は、自分が発したあの言葉が、最後の一片の尊厳を剥ぎ取るきっかけを作ってしまったことを悟った。彼はもう、「加代子さん」という人間を相手にしているのではなく、自ら「何でもする」と宣言した便利な「道具」を扱っているのだ。

54歳の誕生日を、加代子は夫と静かに、つまりほとんど無言で迎えた。ケーキもなく、プレゼントもない。夫は「おめでとう」と一言言い、いつものように新聞を広げた。

その夜、凛音からメッセージが来た。1ヶ月ぶりだった。 「今日、空いてる?」

加代子は一瞬、誕生日だということを伝えようとした。ほんの少しでも、特別な日にしてくれるかもしれないという、儚い期待が頭をよぎった。しかし、指は違う動きをした。期待して裏切られることの痛みを、もうこれ以上味わりたくなかった。 「空いてるよ」

いつものホテル。いつもの流れ。凛音は加代子の誕生日など知る由もなく、加代子も言わなかった。行為の後、シャワーを浴びたが、時間がなく、加代子は完全に流しきれないまま身支度を整えた。凛音は先に「じゃあね」と言って部屋を出ていった。加代子は一人、ベッドの皺を伸ばし、使い捨てのスリッパをゴミ箱に捨てた。

自宅に戻り、夫が既に寝静まった寝室を抜け、浴室に向かった。脱いだ下着を洗濯かごに入れようとした時、彼女は手を止めた。下着の布地に、微かに湿り気が残っている。ホテルのシャワーで洗い流せなかった、凛音との行為の痕跡だ。それは物理的なもの以上に、彼女の心に深く染み込んだ穢れと悲哀の象徴のように感じられた。

次はいつ、連絡が来るのだろう。 その考えが、頭をよぎった。来るのは、1ヶ月後か、2ヶ月後か。あるいは、もう来ないかもしれない。その不安が、彼女を縛り付ける。来るかもしれないという微かな期待が、彼女をこの屈辱的な関係に繋ぎ止める鎖になっている。

彼は25歳。加代子の自分の息子よりも2歳も年下だ。自分の子供よりも年下の男に、完全に都合よく弄ばれている。それは重々承知していた。理性は叫ぶ。断れ、と。この関係はおかしい、と。自分を貶めているだけだ、と。

しかし、誘いのメッセージが届いた時の、あの胸の高鳴り。あの「自分が必要とされている」という錯覚。空虚な日常を埋める、強烈で歪んだ刺激。それらが、理性の声をかき消す。スマホに「了解」と打ち、会って愛想笑いを浮かべる自分がいた。

名器。 たぶん、万人受けするものではない。ただ、凛音という特定の男と、私という女の、卑猥な相性の問題でしかない。それだけの理由で、彼は54歳の、老いていくおばさんの元に帰ってくる。

風呂上がり、清潔なパジャマに着替え、ベッドに入った。隣では夫が深い眠りについている。加代子は暗闇の中で目を開いていた。

洗濯かごの中の下着は、明日、彼女の手で洗われる。物理的な痕跡は消える。しかし、心に染み付いたものは、簡単には流せない。それは「名器」というレッテルと、それにしがみつくしかない自分への嫌悪。そして、たとえ道具扱いされても、彼の訪れを待ってしまう孤独な身体の哀しみだった。

彼女はそっと、自分の下腹部に手を当てた。そこには、確かに年齢とは裏腹に、激しい熱と生命力を宿す部分があった。それが祝福なのか、呪いなのか、加代子にはもうわからなかった。

ただ、明日もまた、平凡な一日が始まる。夫との無言の朝食。掃除。買い物。そして、スマホの通知音に、一瞬で心臓を掴まれるかもしれないという、緊張と期待に満ちた日常が。

加代子は静かに目を閉じた。少なくとも今この瞬間だけは、現実から逃げるために。暗闇が、一時的な安息を与えてくれることを願いながら。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。 その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。 全15話を予定

清掃員と僕の密やかな情状

MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。 青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。 肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。 44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

還暦妻と若い彼 継承される情熱

MisakiNonagase
恋愛
61歳の睦美と、20歳の悠人。ライブ会場で出会った二人の「推し活」は、いつしか世代を超えた秘め事へと変わっていった。合鍵を使い、悠人の部屋で彼を待つ睦美の幸福。 しかし、その幸せの裏側で、娘の愛美もまた、同じ男の体温に触れ始めていた。 母譲りの仕草を見せる娘に、母の面影を重ねる青年。 同じ男を共有しているとは知らぬまま、母娘は「女」としての業(さが)を露呈していく。甘いお土産が繋ぐ、美しくも醜い三角関係の幕が上がる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...