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第16章:一年という歳月、綻びる記憶
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康助が海外へ発ってから、ちょうど一年。 この一年の間に、加代子の中で何かが決定的に変わってしまった。かつて康助を送り出した時の彼女は、どこか自分を犠牲にしているような、典型的な家庭の母だった。
だが、今目の前にいる母はどうだ。
「康助、今日のお魚は築地で良いのが入ったのよ。お刺身にするわね」
台所に立つ加代子の後ろ姿を、康助はリビングのソファから黙って見つめていた。一年前、母の背中はもっと慎ましく、家庭という枠の中に収まっていた。今の母は、包丁を握る所作一つにも瑞々しい力が宿り、何より、家の中でも絶やさないその微笑みが、家族に向けられた「慈しみ」というよりは、自らの内に確固たる悦びを持つ者の余裕に見えてならない。
(一年前の母さんなら、父さんが返事もしないでテレビを見ていたら、もっと寂しそうな顔をしていたはずだ……)
夕食時、康助は隣で静かに晩酌を楽しむ父・謙介に話を振ってみた。 「父さん……母さん、最近なんだか綺麗になったね。一年前よりずっと若々しくなった気がするよ」
謙介は手元のビールをゆっくりと喉に流し込み、穏やかな表情で加代子の背中を振り返った。 「ああ、そうだな。康助がいなくて寂しがるかと思っていたんだが、案外元気にやっているようだ。友達とランチに行ったり、自分磨きというやつか? まあ、母さんが楽しそうにしているのは良いことだよ。夕飯も相変わらず旨いしな」
謙介の言葉には、妻への信頼と、長年連れ添ったゆえの平穏な肯定があった。だが、その「善意の無関心」が、康助には何よりも危うく感じられた。父は、母が自分たちの知らない「別の世界」で、誰のためにその美しさを磨いているのか、露ほども疑っていない。
「……父さんは、母さんが最近どこに行ってるかとか、気にならないの?」
「気になる、か。まあ、たまに帰りが少し遅くなることもあるが、ちゃんと夕飯の支度はしてくれているし、家のことも完璧だ。加代子のやることに文句はないよ」
謙介はそう言って、満足げにテレビに目を戻した。 康助は、目の前の父の、あまりにも「平和な視線」に寒気を覚えた。父のこの深い信頼と、それゆえの死角が、母を「別の場所」へと解き放ってしまったのではないか。
加代子が洗面所へ向かった際、テーブルに置かれたままの彼女のスマートフォンが、短く一度だけ震えた。 康助は咄嗟に目をやったが、画面には通知の内容は表示されず、ただ『1件の新着メッセージ』という無機質な文字だけが浮かび、すぐに消えた。
(一年前にはなかった、あの『隠し事』の気配……)
「母さん」という聖域の内側で、静かに、しかし確実に芽吹いている別の顔。 康助の心の中で、かつて愛した「優しい母」としての加代子と、今目の前にいる「見知らぬ女」としての加代子が、激しくぶつかり合っていた。
一年の空白が生んだのは、懐かしさだけではない。血の繋がった息子だからこそ感じ取れる、悍ましくも魅力的な「変貌」への予感だった。
だが、今目の前にいる母はどうだ。
「康助、今日のお魚は築地で良いのが入ったのよ。お刺身にするわね」
台所に立つ加代子の後ろ姿を、康助はリビングのソファから黙って見つめていた。一年前、母の背中はもっと慎ましく、家庭という枠の中に収まっていた。今の母は、包丁を握る所作一つにも瑞々しい力が宿り、何より、家の中でも絶やさないその微笑みが、家族に向けられた「慈しみ」というよりは、自らの内に確固たる悦びを持つ者の余裕に見えてならない。
(一年前の母さんなら、父さんが返事もしないでテレビを見ていたら、もっと寂しそうな顔をしていたはずだ……)
夕食時、康助は隣で静かに晩酌を楽しむ父・謙介に話を振ってみた。 「父さん……母さん、最近なんだか綺麗になったね。一年前よりずっと若々しくなった気がするよ」
謙介は手元のビールをゆっくりと喉に流し込み、穏やかな表情で加代子の背中を振り返った。 「ああ、そうだな。康助がいなくて寂しがるかと思っていたんだが、案外元気にやっているようだ。友達とランチに行ったり、自分磨きというやつか? まあ、母さんが楽しそうにしているのは良いことだよ。夕飯も相変わらず旨いしな」
謙介の言葉には、妻への信頼と、長年連れ添ったゆえの平穏な肯定があった。だが、その「善意の無関心」が、康助には何よりも危うく感じられた。父は、母が自分たちの知らない「別の世界」で、誰のためにその美しさを磨いているのか、露ほども疑っていない。
「……父さんは、母さんが最近どこに行ってるかとか、気にならないの?」
「気になる、か。まあ、たまに帰りが少し遅くなることもあるが、ちゃんと夕飯の支度はしてくれているし、家のことも完璧だ。加代子のやることに文句はないよ」
謙介はそう言って、満足げにテレビに目を戻した。 康助は、目の前の父の、あまりにも「平和な視線」に寒気を覚えた。父のこの深い信頼と、それゆえの死角が、母を「別の場所」へと解き放ってしまったのではないか。
加代子が洗面所へ向かった際、テーブルに置かれたままの彼女のスマートフォンが、短く一度だけ震えた。 康助は咄嗟に目をやったが、画面には通知の内容は表示されず、ただ『1件の新着メッセージ』という無機質な文字だけが浮かび、すぐに消えた。
(一年前にはなかった、あの『隠し事』の気配……)
「母さん」という聖域の内側で、静かに、しかし確実に芽吹いている別の顔。 康助の心の中で、かつて愛した「優しい母」としての加代子と、今目の前にいる「見知らぬ女」としての加代子が、激しくぶつかり合っていた。
一年の空白が生んだのは、懐かしさだけではない。血の繋がった息子だからこそ感じ取れる、悍ましくも魅力的な「変貌」への予感だった。
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