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第17章:優しい追及、見えない境界線
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翌朝、加代子が買い物に出かけようと身支度を整えていると、リビングでコーヒーを飲んでいた康助が、何気ない口調で声をかけた。
「母さん、これから買い物? もしよかったら、俺も付き合うよ。一年のブランクがあるし、今の日本のスーパーとか、母さんの行きつけの店を見ておきたいんだ。重い荷物も持てるしね」
加代子の指先が、バッグの持ち手の上でわずかに強張った。 行きつけの店。それは、単なるスーパーだけではない。時折立ち寄る、和文と会うためのバーの近くにあるブティックや、男たちのために少し背伸びをして選ぶ輸入食材店が含まれている。
「あら、嬉しいわ。でも、康助は友達と会う約束とかあるんじゃないの? 私は近所を回るだけだから、気にしなくていいのよ」
「いや、友達とは夜からなんだ。せっかくの一時帰国だし、母さんの手伝いをさせてよ」
康助の微笑みは、一年前と変わらぬ「優しい息子」そのものだった。だが、その瞳の奥には、母が提示する『近所』という言葉の真偽を確かめようとする、鋭い知性が光っている。
加代子はそれ以上の拒否が、かえって不自然な壁を作ることを悟った。 「……そう? じゃあ、お願いしようかしら。頼もしいわね」
二人は秋の柔らかな日差しの中、街へと出た。 歩きながら、康助はさりげなく会話をリードしていく。
「母さん、さっきの香水……。やっぱり、一年前とは好みが変わったよね。前の母さんは、もっと石鹸みたいな、主張しない香りが好きだった気がするけど」
「そうだったかしら。年齢を重ねると、少し華やかなものが欲しくなるのよ」
「へえ、そうなんだ。……でも、その香水、かなりセンスがいいよね。誰かに勧められたの? それとも、誰かへのプレゼントとか」
康助の言葉は、まるで世間話のように軽やかだ。しかし、その質問の意図が、加代子の「交友関係」という急所に向けられていることを彼女は敏感に察知していた。
「自分で選んだのよ。デパートのカウンターで、今の私に合うものを相談してね」
「自分に合うもの、か……。確かに、今の母さんにはすごく合ってる。すごく、自由で……自分に自信がある人の香りだ」
康助は、母の横顔をじっと見つめた。 一年前、自分の前で「母親」という役割を懸命に演じていた女性は、今、その役割を一枚の薄いベールのように纏いながら、その下で全く別の人生を謳歌している。
スーパーでの買い物を終えた帰り道、康助はふと、加代子の左手首に視線を落とした。 そこには、以前は見かけなかった、細身で上品なブレスレットが光っていた。
「そのブレスレットも、素敵だね。父さんからのプレゼント?」
「……ええ、まあ、そんな感じかしら」
加代子は咄嗟に嘘をついた。それは大輝が、自分のバイト代を注ぎ込んで「加代子さんに似合うと思って」と、震える手で贈ってくれたものだった。 嘘を吐いた瞬間、康助の瞳がわずかに細まったのを、加代子は見逃さなかった。 康助は知っている。父・謙介が、そういった細やかなアクセサリーを贈るような性格ではないことを。
「……そっか。父さんも、粋なことをするようになったんだね」
康助はそれ以上、追求しなかった。 だが、家に戻るまでの道中、二人の間に流れる空気は、物理的な距離以上に遠く、冷たく澄み渡っていた。
加代子は、自分の「楽園」を侵食し始めた息子の鋭さに、戦慄を覚えずにはいられなかった。康助は、力ずくで扉を開けようとはしない。ただ、優しく、しかし確実に、加代子が自ら綻びを見せるのを待っているのだ。
「母さん、これから買い物? もしよかったら、俺も付き合うよ。一年のブランクがあるし、今の日本のスーパーとか、母さんの行きつけの店を見ておきたいんだ。重い荷物も持てるしね」
加代子の指先が、バッグの持ち手の上でわずかに強張った。 行きつけの店。それは、単なるスーパーだけではない。時折立ち寄る、和文と会うためのバーの近くにあるブティックや、男たちのために少し背伸びをして選ぶ輸入食材店が含まれている。
「あら、嬉しいわ。でも、康助は友達と会う約束とかあるんじゃないの? 私は近所を回るだけだから、気にしなくていいのよ」
「いや、友達とは夜からなんだ。せっかくの一時帰国だし、母さんの手伝いをさせてよ」
康助の微笑みは、一年前と変わらぬ「優しい息子」そのものだった。だが、その瞳の奥には、母が提示する『近所』という言葉の真偽を確かめようとする、鋭い知性が光っている。
加代子はそれ以上の拒否が、かえって不自然な壁を作ることを悟った。 「……そう? じゃあ、お願いしようかしら。頼もしいわね」
二人は秋の柔らかな日差しの中、街へと出た。 歩きながら、康助はさりげなく会話をリードしていく。
「母さん、さっきの香水……。やっぱり、一年前とは好みが変わったよね。前の母さんは、もっと石鹸みたいな、主張しない香りが好きだった気がするけど」
「そうだったかしら。年齢を重ねると、少し華やかなものが欲しくなるのよ」
「へえ、そうなんだ。……でも、その香水、かなりセンスがいいよね。誰かに勧められたの? それとも、誰かへのプレゼントとか」
康助の言葉は、まるで世間話のように軽やかだ。しかし、その質問の意図が、加代子の「交友関係」という急所に向けられていることを彼女は敏感に察知していた。
「自分で選んだのよ。デパートのカウンターで、今の私に合うものを相談してね」
「自分に合うもの、か……。確かに、今の母さんにはすごく合ってる。すごく、自由で……自分に自信がある人の香りだ」
康助は、母の横顔をじっと見つめた。 一年前、自分の前で「母親」という役割を懸命に演じていた女性は、今、その役割を一枚の薄いベールのように纏いながら、その下で全く別の人生を謳歌している。
スーパーでの買い物を終えた帰り道、康助はふと、加代子の左手首に視線を落とした。 そこには、以前は見かけなかった、細身で上品なブレスレットが光っていた。
「そのブレスレットも、素敵だね。父さんからのプレゼント?」
「……ええ、まあ、そんな感じかしら」
加代子は咄嗟に嘘をついた。それは大輝が、自分のバイト代を注ぎ込んで「加代子さんに似合うと思って」と、震える手で贈ってくれたものだった。 嘘を吐いた瞬間、康助の瞳がわずかに細まったのを、加代子は見逃さなかった。 康助は知っている。父・謙介が、そういった細やかなアクセサリーを贈るような性格ではないことを。
「……そっか。父さんも、粋なことをするようになったんだね」
康助はそれ以上、追求しなかった。 だが、家に戻るまでの道中、二人の間に流れる空気は、物理的な距離以上に遠く、冷たく澄み渡っていた。
加代子は、自分の「楽園」を侵食し始めた息子の鋭さに、戦慄を覚えずにはいられなかった。康助は、力ずくで扉を開けようとはしない。ただ、優しく、しかし確実に、加代子が自ら綻びを見せるのを待っているのだ。
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