戯れの贄となりて

深緋莉楓

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 蝋燭を抱えてやって来るものは後を絶たない。男はすうっと大きく息を吸い込むと肩に乗った子が耳を塞ぎたくなる程の声を当たり一面へと通した。
「記憶の甦ったものは此方へ。二十人、二十人だ。本日の道案内はそれにて終いとする!」
 二十人、と聞いて次々と集まる有象無象の衆に男はやはり同じ質問をし、聞き終えるとすっと逝くべき亀裂を指し示した。
 目の端で素直に従うか否かを確認し、宣言通り二十人に鳥居の向こうを指し示すと男はひょいと立ち上がった。
「覚悟が必要な奴は再び俺が来るまで這っておれ。朝一で蹴り落としてやる。さ、おチビさん、びっくりする程綺麗な場所へ行こうか」
 視線を合わせてきた男に子は無意識でこくりと頷く。そしてほんの少しだけ髪を握りしめた手を緩めた。
「じゃ、行こっか」
 先程まで躊躇いなく大きな底の見え無い穴に魂魄達を蹴り落としていたとは思えない穏やかで優しい声音と眼光に、子は背後で喚いているものの存在をすっかり忘れてしまった。
ーー優しいおにぃちゃんが戻ってきたんだ!ーー
「さ。本日の仕事は終わり。尽きるものも新たに産まれ出づるものもキリは無いからね」
 今日の晩ご飯は何かなぁ? と呟く男からはなんの気負いも感じられなかった。
「ばんごはん?」
「おチビさんも食べていたはずなんだけどなぁ? んんー、生活習慣の記憶もなし。もしくはその様な整った状況ではなかった可能性、と……」 
「おにぃちゃん?」
「なんでも無いよ、独り言」
 そう言って今度は子を肩車にして歩き出した男は、闇の中を慣れた足取りですいすいと進む。
 子は星一つ無い闇をきょろきょろと見渡して、あの怖い叫び声が聞こえていない事に初めて気づいた。
「ん? ああ、うるさいからね。ちょっと脇道にそれただけさ」
「いっぱい道があって、おにぃちゃんは迷子にならない。ん、すごい」
「すごいのかなぁ? 慣れだよ、慣れ」
 快活に笑い歩く男の肩でとんとんと規則的に揺れる子は、無意識に掴んだ彼の豊かな髪をそのままに目蓋がゆっくりと落ちて来るのを感じた。
 ゆっくりと歩く男が刻む穏やかな振動はどこか懐かしく、何故か幸せで、どうしてだか寂しくてたまらなくなった。並んで歩いていなくて良かった、こうして目を閉じていられて良かった、と子はそれ以上を考える事を止めて男の髪に埋もれ甘える事にした。
 耳元で聞こえ始めた寝息に思わず男の口角が少し上がった。
「寝ちゃうなら、背負った方が良かったかな」
 落ちなきゃ良いんだけど……と呟く男の声は子を起こさない程度の落ち着いたものだった。それと比例して歩みが上下しない様にと更に丁寧なものに変える。 
「やれやれ、おチビさんのせいで晩飯が遠退いたよ?」
 ふふ、と笑みを漏らして、落とさない様に細い足首をそっと掴み直し歩を進めた。 
 案の定、いつもの帰りを大幅に遅れて暗い森を抜け、白の玉砂利が敷かれた開けた幽世之神の神域へと入った。
「おや、旦那今日はお連れさんがいんのかい?」
 月を眺めるにもお誂え向きな大きな岩の上で寛いでいた大亀が声を掛ける。
「んん、まぁね。御館様にお預けかなぁ、と思ってね」
「ほう、そりゃまた珍しい子が来たもんだ。お疲れさん」
 気楽な会話を終え、男は館へと進んで行く。
 館を守る門に下げられた提灯の灯りが見えた頃、ぎぃと軋んだ音を立てて開き、迷わず門を潜った。
 上りかまちまで来ると、奥から音もなく肌の白い美しい女が出迎えに姿を現した。
「おかえりなさいませ、猿田彦様。本日もお務めご苦労様でした」
「ああ、いつもありがとう。ところで御館様は?」
「奥のお部屋で晩酌をなさっておられますよ? 先にお声掛け致しましょうか?」
 男は申し出を断ると、すっかり寝入っている子を女に託せないかと尋ねた。履き物が脱げないんだよ、と眉を下げる猿田彦の顔を見て、女はくつくつと笑いながらそっと子の指を開かせようと手を伸ばす。慌てて猿田彦は腰を屈めて頭を差し出した。
「あらあら、しっかり握っちゃって。お時間かかりますよ、これは」
「ううん、腹も減ったし、早めに頼むよ」
 諦めを滲ませた男の声が更に女を笑わせた。
「笑いすぎだよ、白藤しらふじ。本当に今日は色々と疲れたよ。早くお前さん達の作った美味い飯を掻き込みたいし、湯浴みもしたいんだよ」
「でもその前に御館様の所へ行かねばならぬのでしょう? 御館様がお許しなら膳はそちらへ運びますよ?」
「いや、そう長く話し込む事も無いだろうから……」
「そうですか。膳が必要であればお声掛けくださいね。では、このお子は少し汚れを拭いてこのまま寝かせておきましょうね」
「すまないね、白藤」
「とんでもございません。さ、お布団で休もうね、坊や」
 白藤と呼ばれた女の言葉と同時に猿田彦の肩首から重みと温かさがすぅと消えた。女の腕に抱かれてもなお眠り続けている子の姿を確認すると、わざとらしく腰に手を当てて大きく伸びをして反り返った。
 ぱきっと音が鳴った瞬間、白藤は目を丸くした後、堪えきれずに小さく吹き出した。
「この子が現れてからずっと担いでいたんだよ? 帰りは肩車で寝てしまうしさぁ。寝た子ってのは存外重たいものだね」
「あらまあ、本当に今日はいつも以上に重労働だったのですね。それも御館様にしっかりとお伝えなさってくださいませ」
 そう言い残して、笑いながら奥へと消える白藤の背中を見送り、猿田彦はふう、と一息吐いた。 
 さて、と独言ると綺麗に磨かれた廊下を奥へ奥へと進んで行く。目指すは最奥の、幽世之神の私室である。
 閉ざされた襖に描かれた美しい吉祥画はいつ見ても素晴らしい。しかし今はそれを眺めて悦に浸っている場合ではなかった。
「御館様、猿田彦、まかり越しました」
「ん? お入りなさいな、仰々しい」
 中から聞こえる声は落ち着いていて、揶揄う口調とは微妙なずれを感じた。
「失礼致します」
「今日は遅かったね。食事も酒もまだだろう? 運ばせよう」
「お心遣い、大変ありがたく。しかしながら今は先に本日の出来事にお耳を傾けていただきたく思います」
 膳と白磁の徳利、揃いの猪口を前にした幽世之神は穏やかな表情のまま頷くと、箸を置き座り直して男へ真正面に向き直った。
「話が終わらねば、一献誘っても頷きそうに無い気配だね」
 そう言われて、猿田彦はそこまで硬い表情だったか? と己に問う。
「その様な事は……ただ久しく現れなかったものが現れまして。ああ、白藤に託してありますので大丈夫でしょう」
「ほう、白藤なら大丈夫だろう。で? そのものはお前から見ても異質かい?」
「食事の概念を持たぬもの。そして人の形はしておりますが獣の類。そして……死後なお、痛みを覚えているものでございます。痛かった、辛かった、苦しかった……それならば解るのです。私自身、幾度も聞いた言葉達のそれらは全て過去。しかしそのものは、転けて傷ついた際に、痛い、と泣いたのです」 
「それは、何度あの場所を訪れても変わらない、という猿の判断で良いかな?」
 良い音を立てて盃に酒が入ってゆくのを猿田彦は黙って見ていた。
「猿?」
「それは……再度試して見なくては何とも」
「でも、本心ではそう思っているから私の所へいの一番に来たのだろう?」
 口につけた盃越しに見遣る幽世之神の視線は真っ直ぐに猿田彦を射抜いた。猿田彦は取り繕う事すら忘れてこくりと頷いた。
「そのものは、明日には会えるかな?」
「会えましょうが、子供ですぞ?」
「えっ? 小さいのかい?」
「ええ、せいぜいがこのくらいでしょうか」
 猿田彦は座った自分の肩より一、二寸下を示した。
「そんなにも小さいと⁉︎ それで人の身体を模した獣なのかい⁉︎」
 ぱっと幽世之神の瞳が好奇心で輝く。
 奥深い闇の中の館に住まうこの主人は、常に何か目新しいものを探している……猿田彦が呆れを悟られぬ様目を伏せた時、背後の襖の向こうから声がかけられた。幽世之神が軽く返事をすると、襖が開き白藤とよく似た面差しの女が膳と酒を持ち畳の上を滑る様に部屋に入ると音も立てずに猿田彦の前に置き、小さな声で労りの言葉を残してすぐに部屋を出た。
香染こうぞめは相変わらず無口だねぇ」
「まだ慣れぬのでしょう」
 それだけ言うと猿田彦は自分の膳に乗せられた徳利を持ち、ずいと幽世之神へと伸ばした。
「そうだね、ひと月と少しくらいかねえ」
 酒を受けながらのんびりと答える幽世之神に猿田彦は微かに笑う。
「それならば、まだやる事なす事珍しく、広すぎて館の中でも庭でも迷うでしょうよ」
 と言いながら自分の猪口へと手酌する。
「うーん、そうかい? まあ、猿が言うのならそうなのだろうね」
「そうです」
 ふふ、と笑う幽世之神はぶっきらぼうに言い返してきた猿田彦に足を崩す様伝えて、再び箸を取った。それに倣って猿田彦も盃に口をつけた後、箸を持った。
 穏やかに流れる時間の中で猿田彦は美味い料理で空腹を満たし、今日は殊更疲れたとあの子を思い出しながら岩魚の塩焼きに箸をつけた。
「ねぇ、猿。その子はどんな子なんだい?」
「相変わらずせっかちですねぇ……明日になれば会えるでしょうに」
「だって、そんな小さい子が来るなんて思ってもいなかった! これは賑やかになるねぇ。その前に此方を怖がらずにいてくれると良いのだけれど……猿、どう思う?」
「御館様、貴方、やっぱり楽しんでますね? 黄泉比良坂での記憶戻りを試す気も無いのでしょう?」
「だって、さっきも言ったけれどお前が無理だと思ったから此方へ連れてきたのだろう? ならばあの暗い場所へわざわざ連れ戻して試す必要はあるのかい?」
 不思議そうに尋ねる幽世之神に猿田彦は返答に詰まった。
 誰があんな場所に連れて行きたいものか……しかし記憶が戻れば逝くべき場所へと導き、来たる刻に新しい生を得る事ができるかもしれない。それが幸か不幸かは猿田彦には解らなかったが、その機会を神の気紛れで与えず奪い取るのはよろしく無いと思う己が動きを止めさせていた。
「猿、眉間の皺は老けて見えるよ? どうせまた色々と考え込んでいるのだろう? 難しい顔では食事も不味かろうに」
 はぁあぁ、とわざとらしく盛大な溜め息を吐いた幽世之神はほんの少しばかりいたずらっ子の様な顔をして正面で難しい顔をしている猿田彦を見遣った。
「……仕事ですから、まあ、少しは真面目に考えますよ。自分一人の事では無いですしね。毎晩風呂に浸かりながら考えるものですよ、私が指し示した場所は本当に正しかったのか、ってね」
「正しいのだろう?」
「ええ、正しいですよ。私は間違えない、絶対にね。でもやはり考えてしまうものですよ、今日の自分は正しかったのか、違える事なく導けたのか……」
「そしてたどり着く答えは、正しい、なんだね?」
「ええ、私は正しく、人は愚かであり、獣は潔い、ですね」
 ふむ、と箸を握ったまま顎に手を当てて猿田彦の言葉の意味を幽世之神は噛み締めていた。
ーー人は愚かであり、獣は潔い、かーー
「では、連れてきた子は?」 
「あの子は……魂すらも迷い子ですが、まぁ、素直な子、とだけはお伝えしてもよろしいかと」
「ほう」
 素直な迷子ね、と呟いた幽世之神は再び膳へと箸を伸ばした。
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