戯れの贄となりて

深緋莉楓

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 夕陽を受けて光る甲羅から首を伸ばした池の主が猿田彦の足音に合わせて振り向く。
「よう、旦那。お疲れさん。今日は儂にも伝わる程に結界が揺れたぞぃ? 何ぞあったかね?」
 主亀の言葉に無言で片手を挙げてひらりと揺らし、答えの代わりとした。
「ふむ。相当な厄介事でもあったかね……幽世之神の出番は……どうだろうかね、まぁまだかね?」
 暮れてゆく夕陽を眺め、主はめだかや鯉達が群をなして泳ぐ池の中を進み、中央に配置された大きな岩に爪を掛けて陽の温もりを存分に吸い込んだ苔の上に鎮座した。腹の底からじんわりと伝わってくる温かさにゆっくりと目を閉じた。
 足を踏み入れた途端に神域の空気は柔らかく、穏やかに吹く風は手を振るだけに留まった猿田彦の頬を優しく撫でて消えた。
「お帰りなさいませ、猿田彦様」
「ああ、すまんが先に湯を浴びたいがお館様はもう済まされたかな?」
「え? ええ、先刻上がられて、おチビちゃんと麦茶を飲んでおられますよ?」
「ならばこのまま湯へ。着物には触らないでくれ。洗い場で流した後、明日ついでに燃やしてくれ」
 険しい猿田彦の表情に香染は内心驚きつつも素直に頷いた。ただならぬ様子に、何があったのかと聞きたい衝動を堪えて無言で湯浴みに向かう背中を見送る。
「……今日は……おつらい一日だったのね。きっとそう」
 香染が知る限り、猿田彦は神域に戻れば黄泉比良坂にいる時の雰囲気をあっさりと捨て去る事を常にこなしていたのだ。言葉こそいつも通りだったが、纏った雰囲気は重く澱み、体温もいつもより低かったが、人の体ではあっても蛇の精霊の香染は否が応でも感じ取ってしまったが、胸に飲んだ。
「あら? 猿田彦様、お帰りじゃないの?」
「あ、先にお風呂へと行かれまして……着物は明日燃やしてくれ、とも……」
 そう、と呟くと白藤は目を閉じて大きく息を吸い込んで、吐き出すと同時に頷いた。
「ご自身がお気持ちの整理が必要なのね、きっと。さ、夕餉に一品増やしましょうか」
「お姉様もそう思われますか?」
「当たり前じゃないの、貴女もそう感じたんでしょう? 私達は同族なのよ? しかも貴女より長生き!」
「そうでした! お姉様、今からなら茄子の煮浸しはどうでしょう?」
「猿田彦様、お茄子好きだものね。良いと思うわ。手伝ってね、言い出しっぺさん?」
 もちろんです! と香染の明るい声音の返事に白藤は微妙な体温の変化を感じ取り、香染の空元気を笑顔で受けて台所へと先に歩き出した。 
「香染ー! 裏庭の畑からお茄子を五本くらい見繕って来てちょうだいな」
「はぁい!」
 二人の気取りの能力を失念していた猿田彦は着物を着たまま湯船から桶で湯を掬うと頭から熱い湯を被った。
 脳裡に焼きついたあのへらついた笑顔と耳障りでしかなかった男の自論を消し去る為には少々温度が低く感じた程、猿田彦にとっては不愉快極まりない亡者との出会いだった。湯を被りながら込み上げる反吐を吐き出す思いで着物と共に投げ捨てると、広い湯船に身を沈めた。
 昨晩ははしゃぐ子を膝に乗せて、手拭いで泡を作って遊んだのが遠い日の事に思える程に膝の軽さに寂しさを感じていた。かと言って、子を呼ぶ程では無いと一瞬頭に思い浮かんだ考えを振り払った。
「あれは人にあって人に非ず……しかし最期のあの様子は……」
 湯の中で揺らめく膝を眺めつつ、猿田彦は鋭くなった視線を戻す為に勢い良く顔に湯を掛けて、両の目玉をごりごりと押し回した。
「俺は子供か……」
 自嘲の呟きは一人きりの浴室に哀しく響いた。
 幽世之神と入浴を済ませたと思われる子を呼ぶ程、へこたれてはいないしそんなに弱くは無いと湯を掬いざばざばと顔を擦ると湯船の端に腕を掛けて天井を見上げて深く息を吐く。
 神域の湯を吸った着物が湯気を上げつつ湯場の隅に蟠っている。纏わりつく不快感に全てを脱ぎ去った猿田彦は顔を顰め、ぐちゃぐちゃに纏めた濡れた着物の山に念押しするかの様に再度湯を掛けると、何度も踏みつけ水を抜く。着物から抜けた湯が重圧で形を変え溢れて流れ、粗方の水が抜けた布の塊を足で入り口まで寄せた。
 香りの良い石鹸を手を伸ばそうとした瞬間、いきなり浴室の扉が開き子の大きな声が響き渡った。
「おにぃちゃ! ずうい!」
 裸で仁王立ちする子は、ぷぅっと頬を膨らませて腰に手を当てて不満をこれでもかと体現していた。
「は?」
「オイラとおふりょでしょ!」
 猿田彦の返事も待たずに濡れた床を慎重に踏み締めながら、子は猿田彦の手から石鹸を奪うとまっさらな手拭いを湯に浸すとごしごしと力一杯擦りつけた。
「またオイラにぶくぶく見せてくれるって言ったでしょ?」
 膨らんだ頬のまま、子はぶつくさと文句を更に連ねる。
「おいてけぼり、ダメでしょ! ごしごしるでしょ? おかえんさい、言えてないでしょ? おにぃちゃんだめでしょ!」
「……ご、ごめん?」
 あまりの子の勢いに思わず謝罪の言葉を述べる。それに満足したのか子は、にぱっと笑うと猿田彦に座る様に促した。
 弱く優しい力で背中を上下させる子の弾む息を耳にして、胸に抱えたどす黒い靄が薄れてゆくのを感じた。
「おチビさんはすごいねぇ」
「ほんと? じょうず、なた?」
 うん、と答えた背を縦横斜めと子は嬉しそうに擦ってゆく。猿田彦にとっては最早それは撫でる感触と大差なかったが、あまりに楽し気に動くのでされるがままになる事に決めたのだった。
「ざっぱーんするです」
 そう宣言した子は片手に桶を持ち、湯船の前で立ち尽くした。
「どうかしたかい? おチビさん?」
「うぅん……あのね、お湯おもいの……ざっぱーんでけない……」
 悲しそうに呟く子に猿田彦は桶を貸す様に言うと、子の手を包み込んで桶の取手を持つと子が望んでいるであろう量の湯を汲み上げた。
「せーの、でざっぱーんだよ? 良いかい?」
「うん」
 猿田彦が取手を持ち、子は桶の底を支えて二人で声を合わせる。
「せーの」
 子がぐいっと持ち上げるのを感じ取って自らの体についている優しい泡を洗い流した。
「おにぃちゃん、もういっかい!」
「はいはい、解ったよ」
 昨晩は二回湯を掛けられた事を思い出して猿田彦は苦笑いを浮かべながらもう一度同じ様に湯を汲んだ。
 二人して湯船に浸かると、子は当然とばかりに猿田彦の膝の上に座った。そして浴槽の縁にかけた手拭いを見つめて振り返った。
「おにぃちゃん、ぶくぶくして?」
「うぅん、お姉さん達には内緒だよ?」
「なんで?」
 子は不思議そうに猿田彦を見上げた。
「ぶくぶくはね、お行儀が良い事じゃ無いから……俺が怒られちゃうかも知れないんだ」
「えぇ! そなの? どうしよう、言っちゃった……」
「あちゃー、言っちゃったかぁ!」
 手で目を覆って盛大に笑う猿田彦を見て、子は訳も解らずきょとんとした後に小声で恐る恐る声を掛けた。目を押さえた手の隙間から、じわりと滲むものを子は見逃さなかった。
「おにぃちゃん、ないてんの? オイラがしゃべっちゃったから? ごめね? ごめなしゃ」
「違う、違うんだよ、おチビさん……違うんだ。そんなんじゃ無いんだ。ぶくぶくしたら上がろうか?」
「あい!」
 お風呂の後はご飯だねと言われた子は、手拭いの隙間から漏れ出る泡を真剣に見つめながらこくりと頷く。
「えと、いたらきましゅ、して、おさじをちゃんともって、ゆっくり食べるの」
「そうだね」
 石鹸の匂いのする子の頭に顎を乗せた猿田彦は最後に手拭いに目一杯の空気を取り込み、少しでも長く続く泡を出してみせた。
 満足気な子を湯船から出し、軽く手拭いで水気を拭き取った後、同じ様に自分の身体を拭く。脱衣所に用意してあった乾いた手拭いで子の頭から勢い良く水気を飛ばし、身体を拭いて浴衣を着せてやった。その何の変哲もない事にも子はきゃっきゃとはしゃぎ、更に猿田彦を笑わせた。その声を聞きつけて、幽世之神が脱衣所に顔を出した。
「おやおやおや、今日も私は一人風呂だねぇ……これは残念。ところで。ねぇ、猿? この子の笑い声は救いだね?」
 有無を言わせぬ口調に、猿田彦は一瞬手を止め真顔で幽世之神を見つめた。
「……左様でございます……ね」
 それだけ答えると、猿田彦は子に幽世之神と先に行く様に言い聞かせて濡れた髪を拭く。着心地良く仕上げられた着物に袖を通して帯を閉めると、ぱちんと頬を叩いてから皆が待つ夕餉の間へと向かった。
「おにぃちゃん! いたらきましゅよ?」
「お待たせ、おチビさん。皆様もお待たせしてしまい申し訳ありません。勝手をしました」
「猿田彦様がなさりたい様になさるのが一番でございましょう? さ、準備に抜かりはございません。幽世之神様?」
「ああ、そうだね。では皆、本日が無事に過ごせた事と、目にも楽しく美しい食事を用意してくれた白藤と香染にも感謝して」
「かみしゃま、オイラ、きゅうり、たぁっくさん取ったよ!」
「ふふ、そうだね。おチビさんにも感謝だね」
 感謝? と首を傾げる子に香染がそっと、ありがとうって事よと伝えると子は顔を赤くして照れてしまった。
 穏やかな空気の中、幽世之神の声を機に、それぞれが箸や匙を持ち色鮮やかな料理に手を伸ばす。子に至っては香染が小皿に綺麗に取り分け、目の前に置いている。目を輝かせては茶碗に盛られた白米と見比べ、次は……と未だ食べ始めてもいないのに香染に伝え、それをにこにこと頷いて聞く二人の姿は神域に来て間も無い者同士としても微笑ましく皆の目に映った。
ーーこのままで良いーー
 神であるくせに猿田彦は誰とも解らぬ神に願った。
 このまま、穏やかで優しい時間の中で少しずつ育てば良いと猿田彦は目を伏せる。
「今日はねぇ、かみしゃまとおしゃんぽして、おひるねもして、おねぇちゃんがしゃりしゃりつくってくれたの」
「しゃりしゃり?」
「うふふ、かき氷です、猿田彦様。食後の甘味にもお出ししようかと思っておりますの。餡蜜の上に少しばかり乗せ様かと」
 笑みを浮かべて説明してくれた白藤に猿田彦は短く、楽しみにしていると答えて茄子の煮浸しを大皿から掬い上げた。その姿に白藤と香染の視線が交錯する。当然、お互いに無言だが二人の胸の内を占めるのは同じく何度も感じた安堵だった。
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