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5:彼らは何をする人ぞ
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「木口さん。着替えはこれをお使いください」
「えっと……」
培楽に向けてスウエットの上下を差し出したのは、主任と呼ばれている長身の女性だった。
培楽は成人女性としては平均的な身長だが、主任はそれより頭半分以上背が高い。
「それから、あちらにシャワーがあるそうです。空きましたらお使いください。代理から明日は一〇時に先ほどの広間に集合と指示がありました。それまでは身体をしっかり休めてください」
「はい……」
培楽たちがとある農家に逃げ込んでから一時間ほどが経過していた。
この家の主はコーチの父親で「社長」と呼ばれている五十代後半か六十代の男性だった。
培楽たちは廃トンネルを改造した野菜貯蔵庫を通り抜け、ここへ逃げ込んできた。追手の姿は無い。
培楽がスマホを確認すると、時刻は五月一九日の深夜〇時半過ぎを示していた。
カフェから連れ出されたのが昨日の一九時過ぎだから、五時間ちょっとの間にパトカーに連れ込まれ、襲撃され、二度の逃亡を行ったことになる。
二六年ちょっとの培楽の人生の中で、これほどのトラブルがたて続けに訪れたことはない。
これまで起きた出来事が強烈すぎて、もはや培楽は驚く気力すら失っていた。
更に、ここへ到着した後に「代理」から聞かされた話が強烈だった。
※※
「ちょっといいですか?」
社長の家に逃げ込んで落ち着いた後、培楽は代理を呼び止めた。
彼らが何者なのか、一体何をしようとしているのか、知りたいことは山ほどある。
質問の相手に代理を選んだのは、最上位者と思われること、そして一番話が通じそうだから、という理由だ。
「培楽さん、何でしょう?」
相変わらず代理なる人物は培楽のことを下の名前で呼ぶ。
よく見ると日本人以外の血が混じっているような顔立ちだ。日本語は流暢だが、外国の人かもしれないな、と培楽は考えた。
「一体あなた達は何者なのですか? 何の目的で警察から逃げ回っているのですか? いえ、その……警察が追いかけてきているのはどうしてかなー、って」
質問の後半、培楽の声のトーンが急に上がったのは、ケージがギロリと彼女を睨みつけたからだった。
「ケージさん、大丈夫です。そして培楽さん、すみません。少し時間をください。どこまでお話ししていいか整理します……」
そう答えて代理が考え込むそぶりを見せた。
(よく見るとずいぶん若い……高校生か大学生くらいだよね、彼。ルカ先輩がいたらアタックしそうだし、レイナだったらずっと見ていたいって言いそうな感じ……)
考え込んでいる代理を見て、培楽はふとそのようなことを考えだした。
ルカ先輩というのは職場の先輩で、レイナというのは学生時代から付き合いのある友人だ。
代理は整った中性的な顔立ちをしている。色白で、見る者が見れば薄幸の美少年、または男装の麗人と思うだろう。
身長は成人男性なら小柄な部類だ。
残念ながら? 培楽のストライクゾーンには入っていないので、彼女は冷静に代理の姿を観察することができた。
彼女の好みは年上の料理好きの男性なのだ。
(こんなに若い人が一番偉いって、いったいどういう組織なのかしら……?)
「……培楽さん、よろしいでしょうか?」
「……」
「培楽さん?」
「は、はいっ! どうぞ……」
不意に代理から声をかけられて驚いた培楽が飛び上がる。
「はい。お話しできる範囲で、になりますが、私たちについて説明します」
「お願いします……」
培楽がごくりと唾を飲み込んだ。
「私たちはある方と契約を結ぶために、その書面を届けに行くのです。申し訳ありませんが契約の内容は明かせません。守秘義務がありますので……」
「契約……?」
培楽は契約と聞いて、確かに、と納得しかけた。
カフェで代理、主任、先生の三人を見かけたとき、彼らはビジネス関係者だと思われる恰好をしていた。
契約の内容を明かせないというのもよくあることだ。培楽の会社でも、何らかの契約の内容を無関係の者に明かすことは禁止されている。
「ちょ、ちょっと待ってください! それならどうして警察が出て来るんですか? 私まで巻き添えでパトカーに連れ込まれたのですよ!」
「……それについては私たちの仲間と思われたようで……すみません。ですが、私や培楽さんをパトカーに連れ込んだのは警察だけではないのです」
「だけ、じゃない……??」
確かに代理は「警察だけではない」と口にした。
ということは警察以外の何者かが関与していることになる。
「はい、私たちが契約を結ぶことを阻止しようとしている方々がいるのです。詳しくは明かせませんが、日本だけではなく外国の政府内部にも私たちの契約を快く思っていない方々が大勢いるのです……」
「……はい?」
いきなり政府という言葉が出てきて培楽は混乱した。
培楽が想像した契約は、企業対企業か企業対個人で結ばれるそれである。
そのような契約に対して警察だけではなく政府、それも日本だけではなくどうして外国のそれまでもが含まれるのか?
「……培楽さんはご覧になられたでしょうか? パトカーの中に遠く離れたH県のナンバーのものがあったことに」
「そうなんですか?!」
パトカーに連れ込まれる際、培楽はまったく事態を理解できていなかった。
だが、目の前の代理はナンバーを冷静に観察していたのだ。
代理の話は荒唐無稽なものにしか思えないのだが、あながちすべて嘘とも思えないな、と培楽は感じるようになった。
少なくともパトカーに連れ込まれたのは事実であったし、その後の対応も警察にしては不審な点がいくつかあったからだった。
培楽は警察の捜査に関する知識を大して持っていなかった。
だが、冷静になって考えてみれば、現行犯でもないのに逮捕状を示すことなく連行されたこと自体おかしいのではないかと思えてきた。
(……確かに変なことは多かった。でも一体どうして……?)
考えれば考えるほどおかしな状況ではあるが、かといってこれからどうしたらよいか培楽には皆目見当もつかなかった。
「ええ。恐らくですが、彼らは私たちを阻止するのに手段を選ばないと思います。先ほど発砲してきたことを考えても……」
「発砲……?」
培楽が目を見開いた。代理が何を言っているのか理解できなかったからだ。
「ええと……日本では銃声を聞きなれていない方が多いのでしたね? ここに移動する途中でパァンパァンという音が何度か聞こえたと思いますが、あれが銃声です。命中したら無事では済まなかったでしょう……」
代理が指で銃を打つ真似をしてみせた。
「ええーっ?! ここは日本ですよ? 警察だって滅多に撃たないのに……」
培楽が思わず大きな声をあげた。
ケージとおっかさんが培楽の方をギロリを睨むが、その直後には二人とも培楽を憐れむとも、からかうともつかない不思議な視線を向けてきた。培楽の反応を面白がっているのかもしれない。
「はい、確かにここは日本です。ですが、相手は日本の法を超えた存在です。政府の中にも彼らの協力者が大勢いますので、大抵のことはもみ消せるはずです」
「……」
培楽は言葉を失って口をパクパクさせていた。
話が途方もなさ過ぎて、正直なところどう反応してよいかも思いつかない。
荒唐無稽と片付けたいところだが実際にパトカーに連れ込まれたし、相手が発砲してきたという代理の言葉もあながち嘘ではないと思われる。
「すみません。恐らく私たちは明日の夕方か夜にここを発たねばなりません。その前に今後の方針について打ち合せますが、それまでに培楽さん、貴女がどうするか結論を出しておいてください」
そう言ってから代理は、培楽に奥の部屋に行って休むようにと告げた。
「はい……」
カフェに入って以降、あまりに色々なことがありすぎて培楽の頭は完全に混乱していた。
また、長時間足元の良くないところを走り続けたため、身体の節々が悲鳴をあげている。
これ以上、何かを考えるのは無理だ。
培楽はそう結論付けて、代理の言葉に従ったのだった。
※※
「この服は……」
培楽は主任に手渡された服を一つ一つ広げていく。
スウェットの上下にTシャツと靴下、それにストッキング、下着までそろっている。それとは別に布製のきんちゃく袋がある。
「私のサイズですので合わないかもしれませんが、よろしかったらお使いください。あとこちらの袋は脱いだ服をしまっておくためのものです」
下着をつまみ上げている培楽の様子を見かねたのか、主任が声をかけてきた。
「はあ……ありがとうございます」
悪気はないのだろう、と培楽は考え、素直に主任の好意に甘えることにする。
今着ている服はシミ抜きをしたとはいえ、謎のオレンジ色の液体で汚れていたし、走ったことで汗もかいている。
ここに逃げ込むまでは必死だったが、多少落ち着きを取り戻した今では肌に触れる感触がべたついていて気持ち悪くて仕方なかったのだ。
「先に失礼したよ。アンタも汗を流しておきな」
奥からおっかさんと呼ばれたスウェット姿の老女が姿を現した。
こちらは培楽より頭半分くらい背が低いが、腰はまっすぐでシャンとしている。
培楽はその姿を見て、自分の祖父母よりやや下くらいの年齢かな? などと考えていた。
「アンタ、主任もまだなのだからね。ボーッとしてないで先に汗を流してきな」
「あ、はい」
おっかさんに促されて、培楽は奥の方にある通路へと向かった。
通路の突き当りには扉があり、中に入ると洗面台と狭いシャワーブースがあった。残念ながら湯船はない。
「贅沢は言っていられないよね……」
培楽は汗で肌にべっとりと貼りついた服を脱ぎ、シャワーで汗を流し始めた。
(……あの代理って人、「日本の方は」って言っていたな。ということは外国の人なのかな……?)
シャワーを浴びながら、培楽は先ほどの代理との会話を思い出していた。
正直なところ、代理の説明を聞いた今でも何が起きているのか、培楽にはほとんど理解できていなかった。
(……あの人たちは契約を結ぶために誰かに会おうとしているけど、それを止めたいって人たちがいる。止めたいって人たちには警察や政治家もいるって話だったっけ……?)
二一世紀の日本でそんな陰謀のようなことがあり得るのだろうか? と培楽は訝しがったが、ふと代理の言葉を思い出す。
「彼らは私たちを阻止するのに手段を選ばないと思います。先ほど発砲してきたことを考えても……」
TVドラマや映画の類を除けば、培楽は過去に銃声を聞いたことがない。
追手から逃げている際、パァンという乾いた音は何度か耳にした。
代理が言うことが正しければ、あれが銃声だったのだろう。
もし、誰かに命中していたら……無事だったとは到底考えられない。
(どうして……どうして、こんなことになっているの? 私、何か悪いことしたの?)
培楽は今の状況を呪ってみたものの、それで事態が好転することはまずあり得ないだろう。
「ひゃっ!」
不意にシャワーの湯が冷たくなり、培楽は我に返った。
湯の温度を調整するレバーを無意識のうちに低温側に動かしてしまったらしい。
(……主任さんがまだだったよね? そろそろ出ないと)
培楽は慌ててシャワーを止め、シャワーブースから飛び出したのだった。
部屋に戻ると、三組の布団が敷かれており、その一つではおっかさんが寝息を立てていた。
「木口さん、今日は遅いですからお休みになってください」
主任が礼儀正しく布団の一つを指し示した。
「はい……」
培楽が素直に従ったのは、疲労と混乱でこれ以上意識を保っていられなくなったからだった。
「すみません、お先に失礼します」
培楽は主任が示した布団に潜り込んだ。
直後、培楽の意識が途切れた。疲労が緊張に勝利した結果だった。
「えっと……」
培楽に向けてスウエットの上下を差し出したのは、主任と呼ばれている長身の女性だった。
培楽は成人女性としては平均的な身長だが、主任はそれより頭半分以上背が高い。
「それから、あちらにシャワーがあるそうです。空きましたらお使いください。代理から明日は一〇時に先ほどの広間に集合と指示がありました。それまでは身体をしっかり休めてください」
「はい……」
培楽たちがとある農家に逃げ込んでから一時間ほどが経過していた。
この家の主はコーチの父親で「社長」と呼ばれている五十代後半か六十代の男性だった。
培楽たちは廃トンネルを改造した野菜貯蔵庫を通り抜け、ここへ逃げ込んできた。追手の姿は無い。
培楽がスマホを確認すると、時刻は五月一九日の深夜〇時半過ぎを示していた。
カフェから連れ出されたのが昨日の一九時過ぎだから、五時間ちょっとの間にパトカーに連れ込まれ、襲撃され、二度の逃亡を行ったことになる。
二六年ちょっとの培楽の人生の中で、これほどのトラブルがたて続けに訪れたことはない。
これまで起きた出来事が強烈すぎて、もはや培楽は驚く気力すら失っていた。
更に、ここへ到着した後に「代理」から聞かされた話が強烈だった。
※※
「ちょっといいですか?」
社長の家に逃げ込んで落ち着いた後、培楽は代理を呼び止めた。
彼らが何者なのか、一体何をしようとしているのか、知りたいことは山ほどある。
質問の相手に代理を選んだのは、最上位者と思われること、そして一番話が通じそうだから、という理由だ。
「培楽さん、何でしょう?」
相変わらず代理なる人物は培楽のことを下の名前で呼ぶ。
よく見ると日本人以外の血が混じっているような顔立ちだ。日本語は流暢だが、外国の人かもしれないな、と培楽は考えた。
「一体あなた達は何者なのですか? 何の目的で警察から逃げ回っているのですか? いえ、その……警察が追いかけてきているのはどうしてかなー、って」
質問の後半、培楽の声のトーンが急に上がったのは、ケージがギロリと彼女を睨みつけたからだった。
「ケージさん、大丈夫です。そして培楽さん、すみません。少し時間をください。どこまでお話ししていいか整理します……」
そう答えて代理が考え込むそぶりを見せた。
(よく見るとずいぶん若い……高校生か大学生くらいだよね、彼。ルカ先輩がいたらアタックしそうだし、レイナだったらずっと見ていたいって言いそうな感じ……)
考え込んでいる代理を見て、培楽はふとそのようなことを考えだした。
ルカ先輩というのは職場の先輩で、レイナというのは学生時代から付き合いのある友人だ。
代理は整った中性的な顔立ちをしている。色白で、見る者が見れば薄幸の美少年、または男装の麗人と思うだろう。
身長は成人男性なら小柄な部類だ。
残念ながら? 培楽のストライクゾーンには入っていないので、彼女は冷静に代理の姿を観察することができた。
彼女の好みは年上の料理好きの男性なのだ。
(こんなに若い人が一番偉いって、いったいどういう組織なのかしら……?)
「……培楽さん、よろしいでしょうか?」
「……」
「培楽さん?」
「は、はいっ! どうぞ……」
不意に代理から声をかけられて驚いた培楽が飛び上がる。
「はい。お話しできる範囲で、になりますが、私たちについて説明します」
「お願いします……」
培楽がごくりと唾を飲み込んだ。
「私たちはある方と契約を結ぶために、その書面を届けに行くのです。申し訳ありませんが契約の内容は明かせません。守秘義務がありますので……」
「契約……?」
培楽は契約と聞いて、確かに、と納得しかけた。
カフェで代理、主任、先生の三人を見かけたとき、彼らはビジネス関係者だと思われる恰好をしていた。
契約の内容を明かせないというのもよくあることだ。培楽の会社でも、何らかの契約の内容を無関係の者に明かすことは禁止されている。
「ちょ、ちょっと待ってください! それならどうして警察が出て来るんですか? 私まで巻き添えでパトカーに連れ込まれたのですよ!」
「……それについては私たちの仲間と思われたようで……すみません。ですが、私や培楽さんをパトカーに連れ込んだのは警察だけではないのです」
「だけ、じゃない……??」
確かに代理は「警察だけではない」と口にした。
ということは警察以外の何者かが関与していることになる。
「はい、私たちが契約を結ぶことを阻止しようとしている方々がいるのです。詳しくは明かせませんが、日本だけではなく外国の政府内部にも私たちの契約を快く思っていない方々が大勢いるのです……」
「……はい?」
いきなり政府という言葉が出てきて培楽は混乱した。
培楽が想像した契約は、企業対企業か企業対個人で結ばれるそれである。
そのような契約に対して警察だけではなく政府、それも日本だけではなくどうして外国のそれまでもが含まれるのか?
「……培楽さんはご覧になられたでしょうか? パトカーの中に遠く離れたH県のナンバーのものがあったことに」
「そうなんですか?!」
パトカーに連れ込まれる際、培楽はまったく事態を理解できていなかった。
だが、目の前の代理はナンバーを冷静に観察していたのだ。
代理の話は荒唐無稽なものにしか思えないのだが、あながちすべて嘘とも思えないな、と培楽は感じるようになった。
少なくともパトカーに連れ込まれたのは事実であったし、その後の対応も警察にしては不審な点がいくつかあったからだった。
培楽は警察の捜査に関する知識を大して持っていなかった。
だが、冷静になって考えてみれば、現行犯でもないのに逮捕状を示すことなく連行されたこと自体おかしいのではないかと思えてきた。
(……確かに変なことは多かった。でも一体どうして……?)
考えれば考えるほどおかしな状況ではあるが、かといってこれからどうしたらよいか培楽には皆目見当もつかなかった。
「ええ。恐らくですが、彼らは私たちを阻止するのに手段を選ばないと思います。先ほど発砲してきたことを考えても……」
「発砲……?」
培楽が目を見開いた。代理が何を言っているのか理解できなかったからだ。
「ええと……日本では銃声を聞きなれていない方が多いのでしたね? ここに移動する途中でパァンパァンという音が何度か聞こえたと思いますが、あれが銃声です。命中したら無事では済まなかったでしょう……」
代理が指で銃を打つ真似をしてみせた。
「ええーっ?! ここは日本ですよ? 警察だって滅多に撃たないのに……」
培楽が思わず大きな声をあげた。
ケージとおっかさんが培楽の方をギロリを睨むが、その直後には二人とも培楽を憐れむとも、からかうともつかない不思議な視線を向けてきた。培楽の反応を面白がっているのかもしれない。
「はい、確かにここは日本です。ですが、相手は日本の法を超えた存在です。政府の中にも彼らの協力者が大勢いますので、大抵のことはもみ消せるはずです」
「……」
培楽は言葉を失って口をパクパクさせていた。
話が途方もなさ過ぎて、正直なところどう反応してよいかも思いつかない。
荒唐無稽と片付けたいところだが実際にパトカーに連れ込まれたし、相手が発砲してきたという代理の言葉もあながち嘘ではないと思われる。
「すみません。恐らく私たちは明日の夕方か夜にここを発たねばなりません。その前に今後の方針について打ち合せますが、それまでに培楽さん、貴女がどうするか結論を出しておいてください」
そう言ってから代理は、培楽に奥の部屋に行って休むようにと告げた。
「はい……」
カフェに入って以降、あまりに色々なことがありすぎて培楽の頭は完全に混乱していた。
また、長時間足元の良くないところを走り続けたため、身体の節々が悲鳴をあげている。
これ以上、何かを考えるのは無理だ。
培楽はそう結論付けて、代理の言葉に従ったのだった。
※※
「この服は……」
培楽は主任に手渡された服を一つ一つ広げていく。
スウェットの上下にTシャツと靴下、それにストッキング、下着までそろっている。それとは別に布製のきんちゃく袋がある。
「私のサイズですので合わないかもしれませんが、よろしかったらお使いください。あとこちらの袋は脱いだ服をしまっておくためのものです」
下着をつまみ上げている培楽の様子を見かねたのか、主任が声をかけてきた。
「はあ……ありがとうございます」
悪気はないのだろう、と培楽は考え、素直に主任の好意に甘えることにする。
今着ている服はシミ抜きをしたとはいえ、謎のオレンジ色の液体で汚れていたし、走ったことで汗もかいている。
ここに逃げ込むまでは必死だったが、多少落ち着きを取り戻した今では肌に触れる感触がべたついていて気持ち悪くて仕方なかったのだ。
「先に失礼したよ。アンタも汗を流しておきな」
奥からおっかさんと呼ばれたスウェット姿の老女が姿を現した。
こちらは培楽より頭半分くらい背が低いが、腰はまっすぐでシャンとしている。
培楽はその姿を見て、自分の祖父母よりやや下くらいの年齢かな? などと考えていた。
「アンタ、主任もまだなのだからね。ボーッとしてないで先に汗を流してきな」
「あ、はい」
おっかさんに促されて、培楽は奥の方にある通路へと向かった。
通路の突き当りには扉があり、中に入ると洗面台と狭いシャワーブースがあった。残念ながら湯船はない。
「贅沢は言っていられないよね……」
培楽は汗で肌にべっとりと貼りついた服を脱ぎ、シャワーで汗を流し始めた。
(……あの代理って人、「日本の方は」って言っていたな。ということは外国の人なのかな……?)
シャワーを浴びながら、培楽は先ほどの代理との会話を思い出していた。
正直なところ、代理の説明を聞いた今でも何が起きているのか、培楽にはほとんど理解できていなかった。
(……あの人たちは契約を結ぶために誰かに会おうとしているけど、それを止めたいって人たちがいる。止めたいって人たちには警察や政治家もいるって話だったっけ……?)
二一世紀の日本でそんな陰謀のようなことがあり得るのだろうか? と培楽は訝しがったが、ふと代理の言葉を思い出す。
「彼らは私たちを阻止するのに手段を選ばないと思います。先ほど発砲してきたことを考えても……」
TVドラマや映画の類を除けば、培楽は過去に銃声を聞いたことがない。
追手から逃げている際、パァンという乾いた音は何度か耳にした。
代理が言うことが正しければ、あれが銃声だったのだろう。
もし、誰かに命中していたら……無事だったとは到底考えられない。
(どうして……どうして、こんなことになっているの? 私、何か悪いことしたの?)
培楽は今の状況を呪ってみたものの、それで事態が好転することはまずあり得ないだろう。
「ひゃっ!」
不意にシャワーの湯が冷たくなり、培楽は我に返った。
湯の温度を調整するレバーを無意識のうちに低温側に動かしてしまったらしい。
(……主任さんがまだだったよね? そろそろ出ないと)
培楽は慌ててシャワーを止め、シャワーブースから飛び出したのだった。
部屋に戻ると、三組の布団が敷かれており、その一つではおっかさんが寝息を立てていた。
「木口さん、今日は遅いですからお休みになってください」
主任が礼儀正しく布団の一つを指し示した。
「はい……」
培楽が素直に従ったのは、疲労と混乱でこれ以上意識を保っていられなくなったからだった。
「すみません、お先に失礼します」
培楽は主任が示した布団に潜り込んだ。
直後、培楽の意識が途切れた。疲労が緊張に勝利した結果だった。
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