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第三章

精霊界のお金? 事情

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「所長、お茶菓子いりますか?」
 私は機嫌を損ねたというより半分拗ねているアイリスに声をかけた。
 私の後ろの席ではアイリスが拗ねる原因となった? フランシスがノートパソコンと格闘している。
 相談員の給料とアイリス及び「ケルークス」の魔力管理を行うツールを作っているのだ。

「……存在界の甘いのが欲しい……」
 いじけ声でアイリスが私に懇願してきた。頼むから私に捨てられた子犬のような目を向けるのはやめてほしい。
 一応上司なのだし、アイリスが拗ねる原因を作ったのは私ではない。

「ユーリ、存在界の甘いお菓子って今何があるんだい?」
「……今日はチョコクッキーだけなのだけど……」
 ユーリまでもが物欲しそうな目でこちらを見ている。
 存在界の菓子は安くないが、今日は余裕があるからいいか。

「じゃあ、それ中皿でふたつ。一つは厨房に持っていって」
「はーい」
 ユーリが軽やかなステップで厨房へと引き上げていく。
 二皿で四八ドロップか。まあ、今日の財布の事情なら大したことはない。
 実は「ケルークス」ではとんでもなく高いメニューなのだが。

「……すまない。半分出す」
 私の耳元で小声でフランシスが言った。
 さすがに少しは責任を感じているのかもしれない。

「俺にここで働く以外に稼ぐ手段があればよかったのだが……」
 フランシスのいう通り、他に稼ぐ手段があればアイリスが干からびるような事態にはならないと思う。
 だが精霊界は魔力による取引が一般的ではない、というより他者に何かをしてもらったり、物をもらったりする際に対価を支払う習慣そのものがない。
 魔力による取引も「ケルークス」や「海の家」といったごく一部の相談所関連の施設のみだ。

「存在界は何かを手に入れるとき常に対価が発生するから面倒よね……」
 多少は機嫌が良くなったのか、アイリスが会話に割り込んできた。
 私もちょろいと思うが、アイリスも大概だと思う。

「ケルークス」で購入できるもののうち、精霊界で作られているものについてはそれほど高くないはずだ。
 飲食など一時間も相談員の仕事 (という名の待機)をすれば、二回分くらいの代金になる。

 ただし、存在界のものはそれなり以上に高い。
 チョコクッキーのような甘いものは一番高価なグループだ。
 中皿だと八枚になるが、その値段は私の感覚で「都会のいい店でコースじゃないランチを楽しんだくらい」だ。お安くはない。
 中味は日本のスーパーなら箱で売っているような代物だが。

 一方、お茶類やコーヒー類はそれほどでもなく、精霊界の一般的な酒、グラネトエールよりも少し安い六ドロップ前後だ。それでも存在界の相場よりは高いはず。

 本やゲーム機、ソフトは実売価格の三倍から四倍といったくらいだ。
 高価だがフランシス以外が頻繁に購入するものではないので特に問題ない。
 私も比較的多い方だが、本は月に数冊、ゲームは年に二、三本だ。

 正直なところ「ケルークス」以外で魔力を使った支払をすることがほとんどないので、帳簿上の魔力の残高は徐々に積み上がっていっている。
 相談員の給料の設定が高すぎるのだとは思うが、私やユーリはともかく、他の相談員はこれでも高くないと言い張る。
 結果、給料は今の額に落ち着いている。

「精霊は色々頼んでも快く引き受けてくれる方が多いですよね。人間と比べるとモノやサービスをあまり必要としていない気もしますけど」
「そうねぇ……いろいろモノがあっても邪魔だし、精霊は慌ただしいの嫌いだしね。余裕がないのが嫌いだから、余裕がない精霊を見過ごせないんじゃないかしら?」
 私の疑問に対するアイリスの答えはわかったようなわからないようなものであるが、何となくわかった気にはなる。

 「揺らいで」いる精霊は別だが、精霊は自分が困ったり慌ただしくするのも嫌いだが、別の精霊が同じようになるのを見るのも嫌だ、ということなのだろう。
 そのためか、何かをしたときに対価をもらうという習慣が根付きにくいのだと思う。

「ケルークス」の場合、厨房機器を動かすのに魔力が必要だからという名目で代金を徴収している。
 これは客となる精霊にとって受け入れやすいもののようだ。

「その性質が悪いとは思わないが、存在界のモノを入手する際には障害でしかないのが困ったところだな……」
 フランシスが頭を抱えた。存在界のモノが入ってこないのは彼にとって死活問題だ。
「精霊界のモノを存在界に持ち出しても売るのが難しいしな……」
 何かいいアイデアがあれば、とは思うのだが、現在精霊が存在界のモノを入手するにはカネで買えるものを買うしかない。
 そこら辺に転がっている石ころなどであれば、拾って持って帰ってきても問題ないだろうが……

 精霊界からモノを持ち出して存在界で売ることができれば良いのだが、これがかなり難しいのだ。
 まず、存在界のものを精霊界のものに変換する魔法と比較すると、その逆は難易度が高い。
 魂霊を人間に戻せないのも同じ理屈だ。

 また、精霊界のモノを魔法で存在界で存在できるモノに変換すると、寿命が極端に短くなる。
 売るまで保管しておくことが難しいくらいの寿命になるモノも少なくない。
 特に植物が材料のものは変換すると寿命は数時間以内になるらしい。

「こっちからモノを持ち出して売るのは、存在界にとってもあまりいい結果を生まないと思う。精霊たちに向こうに行かせて仕事をさせた方がマシ」
 アイリスがいつにない鋭い口調でそう言い切った。
 そう言い切るということは、過去に何かあったのかもしれない。

「精霊の感覚はまだわからないところがありますけど、存在界で仕事をするのって精霊に合っているのですか? 少なくとも私の出身地の仕事はあまり精霊に合ってない気がしますけど……」
 精霊は素直でのんびりした気質の者が多いように思うので、存在界で仕事をするとなるとどうしても気にかかる。
 私は精霊界では短気な部類に入ると思うのだが、存在界ではよく言えばのんびりした、悪い言い方ではどんくさいタイプだった。

「積極的に勧めてはいないけど存在界に興味あるのもいるし、妖精になるのって魔法の練習には一番いいのよね」
 アイリスがやれやれと両手を広げた。
 精霊が存在界で存在するために自らを妖精に変える魔法は、かなり高度なものらしく、魔法の練習に最適なのだそうだ。
 そのあたりの感覚は私にはわからない。

「移住者が増えてきたら、今までより多く存在界の品物が必要になるかも知れません。精霊界で作れるものは作れるようにすればいいですけど」
「だったらアーベルにはやってもらわないと。カレーを作った前科もあるのだし」
「カレー粉の開発はできていないですけど」
 何だか藪を突いて蛇を出してしまったらしい。私はモノづくりをしていたわけではないので、そういうのは苦手なのだが……

「……正直アーベルに存在界の品物を作らせるのはどうかと思う。どちらかというとアーベルや俺は、クリエイターのファン向きだぞ」
 フランシスが助け船を出してくれた。多少イラッとする言い草だが、本人に悪気はないはずだ。

「私にはクリエイター向きとかファン向きってのはよくわからないけど、もともとはフランシスの問題なのだから何とかしなさいよね」
「確かにアイリスの言うとおりだからな。考えておく……」
 フランシスにしては歯切れが悪いが、落ち着くべきところに落ち着いたとは思う。

 良し悪しは別にして、精霊界に来てからお金に関して考える機会がほとんどなかったので良い経験になった。
 精霊界で過ごしているとお金など気にしなくても幸せに過ごしていけるので困ることなどないのだ。
 私も多少はこちらに染まってきているようだが、存在界のゲームや本が気になるという点でまだまだなのだろう。

 精霊は劇的な変化を好まないし、あまり色々持ち込みすぎて存在界みたいになられても困る。
 まだまだ私のような移住者はごく少数派だから、そこまでの影響力はないと思うけど……

 私は店内を見回した。
 訪れている客の大半が、何らかの存在界のモノを注文している。
 初期の精霊であるアイリスまでもが幸せそうな顔をして、頬が膨れるまでチョコクッキーを頬張っている姿を見ると「そこまでの影響力がない」というのが疑わしくなってきた。

 今後、相談を受ける際は存在界でできることが精霊界でもできる、ということをあまり強調しすぎないように気を付けよう。
 危ないのは私とフランシスだろうから、後でフランシスにも忠告しておくとするか。
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