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第十七章
802:スパイに非ず
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「マッチ・ラボ」に向けて何者かの足音が近づいてくる。
足音に続いて、階段の方から小柄な女性の姿が現れた。
エリックが思わず足音の方に目をやった。
しまった、と彼は己の迂闊さを呪った。
何者かに今までの話を聞かれた、と考えたのである。
視界に入った女性はどこかで見かけたような気がするが、それが何者であるかエリックにはわからなかった。
一方、足音の女性はエリックの視線が自分の方を向いた瞬間、小さく飛び上がった。
そして、踵を返して降りてきた階段を駆け上がっていった。
「追いかけましょうか?」
エリックがオイゲンにそう尋ねたのは、二つの理由があった。
一つは、この女性を通じて、ECN社や「マッチ・ラボ」の動向が外部に漏れることを懸念ししたため。
もう一つは、オイゲンがエリックと行動を共にしていることが外部に漏れることを懸念したためであった。
「モトムラ君、彼女なら問題ないよ。あまり人前に姿を見せたことがなかったから、モトムラ君も知らなかったのかな」
オイゲンは追う必要はない、と手を振った。
その上で女性が彼のもと秘書で現在の妻であるメイであると付け加え、彼女が駆けて行った階段を上っていった。
その姿を見てエリックはメイが建物の二階から下りてきたことを思い出した。
この建物の中にいる者ならこちらの動向を知られても問題ない。
エリックは自らの早とちりに「やっちゃったな」とぼやいたのだった。
「それにしてもあの子、あんな人見知りでよくECN社の社長秘書が務まったわね」
オイゲンの姿が見えなくなったのを確認してから、ウィリマがつぶやいた。
「ECN社は割と職務の範囲がしっかり決められているから、彼女も必要最低限の人以外に顔を合わせないよう配慮されていたのだと思うけど」
そう答えてから、エリックは過去に何度かメイの姿を見たことがあったことを思い出した。
ほどなくしてオイゲンが戻ってきて、工具の所在についてシシガに尋ねた。
オイゲンは目的の工具を探し出し、再び階段の上に向かい、今度は先ほどより短い時間で戻ってきた。
どうやらメイは工具を探しに下へ降りてきたらしいが、エリックの姿に驚いて上に戻ってしまったらしい。
「あの子、結構アタシの好みなんだけど、なかなか話しかけてくれないのよね。最近は声をかけたら少しは答えてくれるようになったのだけど。イナさんとは普通に会話できるみたいだけど、何かコツとかあるの?」
ウィリマが戻ってきたオイゲンに尋ねた。
「コツ、ですか……僕もよくわかっていないのです。気をつけていることといえば、上手にはいえませんが、彼女が『在る』ことを否定しないと言いますか……」
オイゲンの答えにウィリマは首を捻ったものの、それ以上質問することはなかった。
部屋の皆の視線がウィリマに集まったが、ウィリマは何かを思い出そうとするかのように考え込んでいた。
しばらくして、不意にウィリマが立ち上がった。
「そういえば、お母さんには『他の大人の言うことは聞かなくていい』と言われたことがあったっけ……」
「それで、ウィリマはどうしたんだい?」
そう尋ねたのはシシガであった。
「そんなの何か危ないことがあるな、って思ってその日は一日家を出なかったわよ。家の中にいれば他の大人に顔を合わせないで済むからね」
ウィリマの答えに、それは考えましたね、とモミガワが感心してみせた。
「まあ、アタシはまだ学校に行く前だったし、昼間は会社の託児所に預けられていたからあの日まで『囲いの外の人』に会うことはなかったけどね」
結局、ウィリマからこれ以上の情報を得ることはできなかった。
二時間ほど他愛のない話と食事をした後、オイゲンとエリックは「マッチ・ラボ」を後にした。
そして、すぐ近くのHBS社の事務所へと移動した。
モミガワとウィリマの話で気になった部分を整理し、今後の調査の進め方を決めるためだ。
「イナ社長。やはり、ウィリマのお母さんの言動は引っかかります。社長の持っている情報で、何か関係しそうなものはないでしょうか?」
事務所へ戻るや否や、エリックがオイゲンに畳み掛けるように問いかけた。
「モトムラ君、『判定者とその支援者』が集めた資料の中に事件当日の火災の広がり方、そして死者、生存者がそれぞれどこで発見されたかを示したものがある。さすがに事件の被害者であるサソさんにはとても見せられるものではなかったので、黙っていたのだけどね」
そう答えながらオイゲンは携帯端末に資料を表示させた。
まず火災であるが、「ミクモ工芸」を囲む壁の周辺から包囲の網を狭めていくかのように内側へと広がっていた。
壁があるとはいえ、当日の天候などから考えても、火の広がり方は明らかに異常であった。
何らかの人為的な操作がなされない限り、このように壁の内側の人々を追い詰めていくかのように火が燃え広がるというのは考えにくかった。
あくまでも「判定者とその支援者」の記録であるが、ウィリマとシトリは水路だった窪みを使って炎をやり過ごし、近所を縄張りとしている猫たちが出入りするために壁に開けられた穴から外へ脱出したようであった。
もう一人の生存者であるカヤノは、壁近くの家に住んでいた。
こちらは地面の窪みに身を潜めて難を逃れたようであった。
足音に続いて、階段の方から小柄な女性の姿が現れた。
エリックが思わず足音の方に目をやった。
しまった、と彼は己の迂闊さを呪った。
何者かに今までの話を聞かれた、と考えたのである。
視界に入った女性はどこかで見かけたような気がするが、それが何者であるかエリックにはわからなかった。
一方、足音の女性はエリックの視線が自分の方を向いた瞬間、小さく飛び上がった。
そして、踵を返して降りてきた階段を駆け上がっていった。
「追いかけましょうか?」
エリックがオイゲンにそう尋ねたのは、二つの理由があった。
一つは、この女性を通じて、ECN社や「マッチ・ラボ」の動向が外部に漏れることを懸念ししたため。
もう一つは、オイゲンがエリックと行動を共にしていることが外部に漏れることを懸念したためであった。
「モトムラ君、彼女なら問題ないよ。あまり人前に姿を見せたことがなかったから、モトムラ君も知らなかったのかな」
オイゲンは追う必要はない、と手を振った。
その上で女性が彼のもと秘書で現在の妻であるメイであると付け加え、彼女が駆けて行った階段を上っていった。
その姿を見てエリックはメイが建物の二階から下りてきたことを思い出した。
この建物の中にいる者ならこちらの動向を知られても問題ない。
エリックは自らの早とちりに「やっちゃったな」とぼやいたのだった。
「それにしてもあの子、あんな人見知りでよくECN社の社長秘書が務まったわね」
オイゲンの姿が見えなくなったのを確認してから、ウィリマがつぶやいた。
「ECN社は割と職務の範囲がしっかり決められているから、彼女も必要最低限の人以外に顔を合わせないよう配慮されていたのだと思うけど」
そう答えてから、エリックは過去に何度かメイの姿を見たことがあったことを思い出した。
ほどなくしてオイゲンが戻ってきて、工具の所在についてシシガに尋ねた。
オイゲンは目的の工具を探し出し、再び階段の上に向かい、今度は先ほどより短い時間で戻ってきた。
どうやらメイは工具を探しに下へ降りてきたらしいが、エリックの姿に驚いて上に戻ってしまったらしい。
「あの子、結構アタシの好みなんだけど、なかなか話しかけてくれないのよね。最近は声をかけたら少しは答えてくれるようになったのだけど。イナさんとは普通に会話できるみたいだけど、何かコツとかあるの?」
ウィリマが戻ってきたオイゲンに尋ねた。
「コツ、ですか……僕もよくわかっていないのです。気をつけていることといえば、上手にはいえませんが、彼女が『在る』ことを否定しないと言いますか……」
オイゲンの答えにウィリマは首を捻ったものの、それ以上質問することはなかった。
部屋の皆の視線がウィリマに集まったが、ウィリマは何かを思い出そうとするかのように考え込んでいた。
しばらくして、不意にウィリマが立ち上がった。
「そういえば、お母さんには『他の大人の言うことは聞かなくていい』と言われたことがあったっけ……」
「それで、ウィリマはどうしたんだい?」
そう尋ねたのはシシガであった。
「そんなの何か危ないことがあるな、って思ってその日は一日家を出なかったわよ。家の中にいれば他の大人に顔を合わせないで済むからね」
ウィリマの答えに、それは考えましたね、とモミガワが感心してみせた。
「まあ、アタシはまだ学校に行く前だったし、昼間は会社の託児所に預けられていたからあの日まで『囲いの外の人』に会うことはなかったけどね」
結局、ウィリマからこれ以上の情報を得ることはできなかった。
二時間ほど他愛のない話と食事をした後、オイゲンとエリックは「マッチ・ラボ」を後にした。
そして、すぐ近くのHBS社の事務所へと移動した。
モミガワとウィリマの話で気になった部分を整理し、今後の調査の進め方を決めるためだ。
「イナ社長。やはり、ウィリマのお母さんの言動は引っかかります。社長の持っている情報で、何か関係しそうなものはないでしょうか?」
事務所へ戻るや否や、エリックがオイゲンに畳み掛けるように問いかけた。
「モトムラ君、『判定者とその支援者』が集めた資料の中に事件当日の火災の広がり方、そして死者、生存者がそれぞれどこで発見されたかを示したものがある。さすがに事件の被害者であるサソさんにはとても見せられるものではなかったので、黙っていたのだけどね」
そう答えながらオイゲンは携帯端末に資料を表示させた。
まず火災であるが、「ミクモ工芸」を囲む壁の周辺から包囲の網を狭めていくかのように内側へと広がっていた。
壁があるとはいえ、当日の天候などから考えても、火の広がり方は明らかに異常であった。
何らかの人為的な操作がなされない限り、このように壁の内側の人々を追い詰めていくかのように火が燃え広がるというのは考えにくかった。
あくまでも「判定者とその支援者」の記録であるが、ウィリマとシトリは水路だった窪みを使って炎をやり過ごし、近所を縄張りとしている猫たちが出入りするために壁に開けられた穴から外へ脱出したようであった。
もう一人の生存者であるカヤノは、壁近くの家に住んでいた。
こちらは地面の窪みに身を潜めて難を逃れたようであった。
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