一輪の花

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ナハン

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 イチナは昼間、村の診療所の手伝いをしている。文字が読めるというだけで、給金が上がったと喜んでいた。

「カフウさん」
「ん?」
「今日、医局で研修があるので帰るの遅れます」
研修か、俺と会ったときには、診療所の掃除なんかがメインだと言っていたのに、やっぱり、彼女はすごいな。
「あー、そっか、頑張って!」
「夜ご飯も向こうで済ましてきます」
「りょーかい」



 その晩、ナハンが3ヶ月に一度の帰省をしていることを聞いていたので、酌を交わすことになった。
「新婚かぁ」
「良いだろう?」
「楽しそうで何よりだ」
「そっちは、仕事、どうなの?」
魚の塩焼きをつまみに米酒のすすむナハンに聞いた。
「武官の仕事に追われてる。今まで、こっちで、のほほんとやっていたツケかな」
武官と言えば、兵士のように思われるが、このクニの武官はいわゆる、検察のような感じで、警務が捕まえ、武官が証拠を収集・精査、司法官が有罪か無罪かと量刑を定める。王宮専属の武官は専ら政治と金の調査。
「なんか、大変そうだな」
「まあ、でも、嫌いな仕事じゃないし、給金が良いから耐えられるものってのもあるだろう?」
「そういえば、給金が上がったって言ってたな」
ナハンの給料は、農民のおよそ5倍。そりゃ、大変であっても頑張りがいというものがあるだろう。
「あ~、ルクエ、まだ店にいるかな?」
「イチナ情報だと、まだバリバリの現役らしいよ。身請けの話も断りまくってるんだって」
「なんで?」
「自分より碁が強い人と結婚したいからだって」
「そりゃ、遠巻きに誰とも結婚しないって言ってるみたいなものだな」
「俺は全然、碁に詳しくないけど、そんな凄いんだ」
「あぁ、良い意味として、化け物だな。世が世なら、碁の実力だけで王宮へ上がることもできただろうな」
ナハンだって、相当の実力者である。武官同士で休憩時間にやる碁では、右に出るものがいないそうだ。
「ちなみに聞くけど、ナハンさんが勝ったことは?」
「無い」
即答だったな。
「ルクエさんに途中上がりの推薦とか出さないの?噂程度でしか聞いたことはないけど、才があるものを一般人から探すんだろう?」
「それで入る人はごく一部だ。まあ、言わば、表向きの条件。大半は、貧しさを憐れみ、情けをかけた人が推薦を送るんだ」
「そうなんだ」
「それに、王宮での役だって、推薦を送った人の位によるんだぜ。俺はまだまだペーペーだし、ルクエさんを推薦したところでってな」
途中上がり なかなかに難しいところのある制度だ。

「そういえば、俺の母、どうなりそう?有罪は確定的?」
ナハンは少し申し訳なさそうな素振りを見せた。
「そのことか、俺の方にも話が回るようにはしているんだが、実のところ、有罪にはならないっていう可能性が高くて」
「は?なんで?」
「証拠が出ないんだ」
「だって、イチナさんは、あの生姜湯のせいで…」
強く拳を握った。
「俺だって、話を聞いたときは証拠もあるし、有罪だろうと見ていたけど、生姜湯の元を作ったであろうところから毒は無かったんだ。決定的な、証拠や証言が出ない限り有罪は難しい。自白でもすれば別だが、無罪を主張している」
「なんだよそれ!」
思わず声を荒らげてしまった。
「俺が証言する」
「ダメだ」
「どうして?」
「カフウが証言しても、あの人が無罪になって何の拘束も受けなければ、カフウも、それこそ、イチナさんだって危険な目に合うかもしれないんだ」
「それに、被害者の身内の証言は軽視される傾向がある」
「意味がわからない」
「過度な求刑をしたり、容疑者を嵌めるために手を組んでいることがあるからな。客観的な判断性が欠ける。それが、被害者の身内の証言を聞いているとき、武官らの念頭にある」
嘘だろ?だって、一番、苦しんでいるのは本人とその親しき人だろう?
「でも…実際に困っている人がいるんだ」
手で顔を覆って指に力をいれて、うつむいたカフウ。
しばらくの沈黙が流れた。

沈黙を破ったのは、ナハン。
「家柄とか、どうでも良いって、カフウは思うだろう?」
「なんだよ、急に」
「カフウの母は長官、それに王都の司法長官、実質の司法の3番目の地位の方とも親しい。身分だって、十分に高い。こう言っては、カフウは傷つくだろうが、被害者であるイチナさんの身分は、普通の人よりも下だ。身内に暴力沙汰を起こしている人もいる」
カフウは、ナハンの襟を掴んだ。ぐわんと揺さぶる。
「内心でそんなこと思ってたのかよ!」
「俺が説きたいのは、そうではない。罪を答には、身分が低いものから高いものへというのは、そもそも、ほとんど受け入れられないんだ。公平な判断が下るのは、身分が対等なときだ。カフウの母が、逆に暴言を吐かれたとでも言ってみろ、この地区の武官は直ぐに、どんな曖昧な証拠であったとしても確定的なものにして、司法官はカフウとイチナさんに罰を与えるだろう。俺のことは、どれだけ罵倒してくれても構わないが、盲目的な正義は、時に、自分の首を絞める」
馬鹿げている。なぜ、公平な判断が下されない。
「卑弥呼女王が即位し、旧王家の崩壊で身分制度は無くなった。それは、嘘だったのか?」
「嘘ではないが、根強く残っているんだ」
ナハンがそんなこと言うなんて、この世はよほど、濁り、淀んでいる。
「俺が証言したことでは、少しも揺るぎそうもないのか?」
「少しもと言われたら、言い切ることはできないが…」
言葉を濁したナハン。
俺がもっと、もっと、評価を受けるような、努力ができていれば、こんな風な無力を感を痛感することもなかっただろう。イチナを守ることができただろう。



「ただいまー」
明るいイチナの声。
「イチナ、おかえり」
カフウはいたって普通に、イチナを迎えた。
「あ、ナハンさん、お久しぶりです」
「すみません、お邪魔しています。じゃあ、カフウ、私はそろそろ帰る」
「え、もう少しゆっくりされても」
「いえいえ、仲の良いお二人を邪魔するわけには」
少し笑顔を見せながらそう言いながら、立ち上がったナハン。
「お邪魔しました」


外へ出たナハンを追うカフウ。
「ちょっと、待てよ!ナハン」
こちらを振り向くことなく止まったナハン。
「イチナさん、幸せそうだったな。イチナさんといるカフウも」

ナハンは暗い夜道をまた一人で歩き始めた。
カフウはそれを呼び止めることはできなかった。



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