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第一部

7. 魔女、領主さまに人柱にされる

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 吹き付ける雨風のなか、村人たちが目を凝らすと、アーチ形の木橋のうえで後ろ手に縛られた女の姿があった。身を覆うのは粗末な麻の衣服だけ、傷だらけの裸足をさらし、乱れた赤毛に縁どられた顔色は蒼白だ。
 橋の両端を兵士が囲み、何人も近づけぬようにしてあった。その傍らで豪奢なジュストコールを着た小太りの男が、続々と集まる村人たちに視線を送る。村人が全員そろったと思しきころ、その男は仰々しく天に向かって両手を上げた。

「バントロの領主アルットゥリ・カッヒオが、この地に棲みついた邪な魔女を御身に捧げる! 主よ、受け入れ給え! この地を浄め、荒ぶる川を鎮め給え!」

 雨風に負けじと声を張り上げるものの、領主のだみ声は観衆の耳にはくぐもって聞こえた。村人たちはただ、暗雲が垂れこむような不快な気持ちに包まれる。
 原因不明の火災や、洪水により何度も壊れるグンナル橋。補修に駆り出される村人たちは、眉をひそめて噂する。――これは天災ではなく、人災だ。誰かが意図的にやったこと。
 アルットゥリは太い腰回りに両手をつくと、頬の肉に押されて小さくなった眼で女を見やった。

「魔女ラウラよ、穢れた女。よく聞くがいい。これは神のご意志、裁きを受けよ!」 

 魔女は老婆の姿で森の奥深くに住み、子どもの生き血をすする。訪ねればすべての願いを叶えるが、代償ははかりしれない。だが、魔女狩りが盛んだったのは、二百年も前のこと。今はユニコーンやドラゴンと同じ伝説上の生き物に過ぎない。

――そんなものを待ちだして己の罪を隠そうなどと、愚かな。

 村人たちが見守るなか、くだんの女が声を上げた。こちらは若く張りがあり、良く通る。

「あんたの誘いを断ったからって、この仕打ちは何なのよ!? こんのエロ領主っ! 放しなさいよ、こんなことしていいと思ってるの!」

 女の叫びに、村人たちはさもありなんとした表情を見せた。領主は自堕落な好色家だ。どうせ、意のままにならない女を人柱にして憂さを晴らし、同時に村人たちに湧き上がる己への疑念を払拭しようというのだろう。
 一方、それがはっきりしていながら、この不幸な女を助けるものは一人としていなかった。

 十年前、一夜の宿を乞うたのをきっかけに村に住むことになった、ラウラという女。その整った目鼻立ちゆえに村人の伴侶になることを期待されたのに、結局誰にも嫁ごうとはしなかった。
 薬草を煎じるのが得意で、村人や家畜の身体を診ることで生計を得ている。深くかぶり物をして人目を避けていたが、彼女が十年前と変わらぬ容貌を保ち続けていることはたびたび人の噂にのぼっていた。たしかに魔女かもしれない、という噂があったのだ。

 この謎めいた美女を好色な領主が目を付けぬわけがなかった。ラウラは取り付く島もない態度で一蹴し、ものの見事に不興を買ったのだ。噂通り、この女が本当に魔女なら縄はひとりでに解け、無礼な領主には裁きの鉄槌が落とされるだろう。だが、ラウラは魔女ではなかった。そのことが、ますます領主を喜ばせている。
 
「はんっ、この思い上がり女め。わしに逆らうとどうなるか、濁流のなかで思い知るといい。さあ、この女を川に放り込め! 必ずや、水害はおさまろうぞ!」

 ラウラは兵士たちに取り押さえられると、抵抗もむなしく欄干の外に立たされた。兵士たちがそれ以上手を下そうとしないのは村人同様、この行為の無意味さを知っているからだ。
 彼女は必死に身を縮める。眼下では、泥の混ざった茶色い水に倒木がいとも簡単に押し流され、飲み込まれていく。ここに自分が落ちたら、間違いなく死ぬだろう。

――全部、ウルリッヒぼうやのせいよ。死んだら化けてでてやるわ。

 ラウラが死を覚悟した、そのときだった。ぬかるんだ地面を蹴散らす蹄の音。振り返る人々の視線に、激しい雨の向こう、軍服姿の一群が騎馬で駆けてくる。その数、三十騎ほど。
 雨除けのコートが翻り、ベルトン国軍独特の紺青色の生地が見えた。

「人柱の儀式を、中止しろ! 勅命であるぞ!!」

 騎馬はいななきを上げ、あたかもバントロ領の兵士たちを蹴散らすように泥をはねた。橋の手前で順にぴたりと馬を止める姿は、よく訓練されており壮観だ。そろいの三角帽をかぶり、紺青色の上衣、その下にはベージュ地の軍服をまとっている。みな、精悍な顔つきをし、死線を超えた猛者らしい鋭い瞳をしていた。
 村人や兵士たちは、突然現れた騎馬隊を前にあっけにとられていた。

――こんな辺鄙な場所に、中央の精鋭部隊が何の用できたのか。

 誰もがそう思う。
 やがて、ひときわ大きなあし毛の馬から、背の高い軍人が降りてきた。年は三十代後半で、勇壮な足取りだ。紺青色の上衣こそほかの者と同様だが、筋骨隆々とした厚い左胸には王家ゆかりの星形勲章が付いている。羽毛状飾りの縁取りのある三角帽の下の金髪がまるで獅子の鬣のような広がりを見せていた。よく日に焼けた顔はがっちりとした顎のラインを描きながらも鼻筋が通り秀麗だった。だが、何より男を印象付けるのは、矢のように領主を見下ろす切れ長の碧眼。
 人々は雨から身を守ることも忘れ、その立ち姿に見とれた。

「こ、国王陛下!? なにゆえ、王都から遠く離れた、この地まで……っ」

 国王は、領主の問いには答えなかった。続いて下馬した線の細い副官が声を張り上げる。

「バントロ領主アルットゥリ・カッヒオ、横領の罪で逮捕する」

 それは、儀式の中止を命令した声と同じものだった。

「レーヴァント伯爵閣下! 何を根拠にそんなことを……っ、わたしは二心なく、この地を治めてまいりました。この儀式は何より領民の安全を願うわたしの心の表れです!」
「たびたび橋が落ちるのは、設計より少ない木材で仕上げるからだ。国庫から給付された金を着服したな! バントロ領の兵士たち、こやつを捕らえて、牢獄に放り込め!!」
「それには事情があって……っ!」

 バントロ領主はその場に座り込む。かつて指揮下にあった兵士たちは反旗を翻した。

「ひぃ……っ、お情けを! 陛下! 伯爵閣下!」
 
 縄をかけられると、引きずられてその場を後にする。悪徳領主のあっけない幕引きだった。

「さて」

 国王はそこで、初めて言葉を発した。彼の前には、哀れな女が横たわっている。人柱にされるところを辛くも救出され、国王の近衛兵に抱えられてきた。手足の拘束は解かれていたものの、雨風に打たれて精も根も尽き果てたのであろうか、御前で無礼にも崩れ落ちて地面に頬をつけている。

「探したぞ、魔女」

 雨音の叩きつける中、その声は女の耳にだけ届いた。ラウラは頭を上げようとはしなかった。ぼろきれのような衣服の下、ただ億劫そうに言葉を吐く。

「アルットゥリ・カッヒオも国王陛下も、……こんな哀れな女のどこが、魔女に見えましょうか? 陛下は人違いをなさっておいでです」
「下手な芝居はよせ。そうやって俺から顔を隠すのが、何よりの証拠だ」

 国王は自身に泥が付くのも構わず、ずぶ濡れの肩を抱き起こす。大きな手で赤毛をかき分け、エメラルドの双眸を露わにした。途端、それまでの硬い表情が嘘のように、口角は上がり目じりが下がる。

「やっと、捕まえた」

 ウルリッヒは、細いおとがいを指先でとらえると囁いた。そう、まるで睦言のように。

「二十年前、あの森から姿を消した理由をじっくり聞かせてもらおうか。魔女イルヴァ」
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