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第一部
8. 魔女、国王さまの秘宝にご挨拶申し上げる①
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新しい領主が決まるまで、領主館は一時的に国王預かりとなった。罷免された元領主はほとほと人望がなかったので、解放された面々は機嫌よく仕事をしている。
侍女たちの最初の仕事は、人柱にされかけた女を徹底的に洗うことだった。幸い怪我はなく、手首と足首に赤い縄の跡が残る程度。泥水にまみれたボロの下は、驚くほど白く滑らかな肌で、もつれた赤毛も櫛を通せば通すほど鮮やかになった。
身綺麗になった薬師は、もはや自分を偽ることを諦め、背筋を伸ばして侍女たちに感謝を伝えた。見た目こそ二十代頭のラウラだが、その深緑の瞳に見据えられると、侍女たちは心の奥底まで覗きこまれるような、不思議な錯覚にとらわれるのだ。
国王自身が下した最初の命令はラウラを丁重に扱い、十分な休養と食事をとらせることだった。自分たちは、領主のうっぷん晴らしに付き合って身寄りのない女を見殺しにするつもりでいたが、実際国王が間に合わずラウラが川に落ちていたら、村は今頃どうなっていただろうか。想像した者は背筋を凍らせた。
そんな村人の心情などいざ知らず、イルヴァは一番広い寝室にて、ほろほろと身のほぐれるサーモンクリームスープをぺろりと平らげたところだ。魔女の身体は見た目以上に丈夫なので、回復が早かった。
――まだ、あの時のことを怒っているの?
彼女が御領の森から姿を消してから、二十年が経っている。国王は若き日の雪辱を晴らそうと、わざわざ王都から遠く離れたこの辺鄙な場所にイルヴァを捜しに来たのか。まさか。少なくとも、彼女が知るウルリッヒ少年はそんな器の小さな人間ではなかった。
――じゃあ、どうして?
ふと、窓の外をうかがう。高台に建つ領主館からは、村の様子が一望できた。あの大雨が嘘のように止み、青空が広がっている。村の中央部に架かる橋の周りで、兵士の緑色の制服と近衛兵の青い軍服が入り交ざっていた。その中央でジュストコールを着た設計師と思しき男と図面を広げて話をしているのが、国王ウルリッヒだ。
父親の死とともに王位を継いだのは今から八年前、彼が二十八歳のときだった。ベルトン王国は東の国境線を強大国バルドゥ帝国、北西部の国境線をアルバス公国と接しており、残りの国境線はすべて湾に面する海洋国だ。森と湖が美しい国だが、アルバス公国とは国境線をめぐって長年諍いが絶えず、またバルドゥ帝国はベルトン王国を属国化する機会を狙っている。舵取りは難しく、国境沿いは常に戦争の火種を抱えていた。
ウルリッヒが国王になってからまず成功させたのが、アルバスとの和平交渉だった。何年もかけて策を練りアルバスの中央部に味方を作り、両国共に和平に反対する者を少しずつ排していった。最後の仕上げとばかりに、戴冠したばかりのウルリッヒがアルバス大公を呼びつけ、一対一の話し合いを決行したのだ。
中世に取り残され、文明のはざまといわれたベルトン王国が、自国の発展に専念できるようになったのは彼の功績が大きい。
「寒いじゃないの」
考え事をしていると日が陰ってきて、イルヴァは無意識に両腕をこすった。悪態をついたのはボロの代わりに着せられたのはネグリジェ一枚だったからだ。仕方なく大きな寝台にもぐると、急に睡魔が襲ってくる。昨晩、兵士たちに家から引っ立てられ、牢屋のなかで一睡も出来なかったことを思い出した。
そのまま寝入ったのだろうか、頬を撫でられる感触に目を覚ます。すると、湯あみを済ませた国王がガウン姿で立っていた。窓の外はすっかり日が沈み、彼の背後には三日月が見える。イルヴァは、男こそが月を従えているかのように錯覚した。
二十年前の天使さながらの少年から想像できない、大きな大人の男だ。
「逃げなかったのは、感心だな」
バリトンボイスは硬質の響きを持ちながらも、イルヴァの心の柔らかい部分にスッとなじんできた。それを否定したくて、彼女は内心毒づく。
――逃げたかったわよ、ただ逃げられないだけで。
「二十年前は、どうして逃げた? あれから一週間後に行ったが、すでにもぬけの殻だったぞ」
四半世紀近い久闊を埋めるでもなく、彼の言葉は最初から詰問調だった。イルヴァの寝顔を見て、次第に昔の屈辱が蘇ってきたのかもしれない。頭に血がのぼっているなら、好都合だった。
「逃げたわけじゃないわ。坊やが貴族の子どもだとは分かったけれど、まさか王太子様とは思いもよらなかったのよ。あのまま森に暮らしていたら、坊やの愛妾にしてもらえたかしら? でもね、魔女は誰にも縛られず、自由に生きていくものなの。面倒はごめんよ」
「あのとき、俺はイルヴァに本気だった。あなたの言葉は嘘だったのか」
「そうよ、単なるピロートーク。ウルリッヒくんだって使うでしょ?」
苦悩に眉根を寄せる彼に心が痛まないわけではないが、それ以上に逃げた理由を追及されたくない。イルヴァは寝台から降りて、ウルリッヒの前に立った。二十年前は自分より小さかったのに、今は見上げるほど大きい。彼女は意を決して、ネグリジェの胸元を強調するようにすり寄った。
「話はこれまでよ。わたしにこんな格好をさせるのは、陛下の無聊をお慰めするため?」
「……そのつもりはなかったが、誰かが余計な気をまわしたようだな」
「優秀な部下をお持ちね。おかげで、あなたのこれまでが手に取るようにわかったわ」
「言われるほど、誰彼構わずじゃない」
ウルリッヒは一瞬傷ついたような表情を浮かべたものの、言い寄られるに慣れているのか、すぐに気安い視線を送ってくる。イルヴァはしめたとばかりに、品を作った。
「だったら、始めましょう。さあ、国王陛下、椅子に座ってくださる?」
侍女たちの最初の仕事は、人柱にされかけた女を徹底的に洗うことだった。幸い怪我はなく、手首と足首に赤い縄の跡が残る程度。泥水にまみれたボロの下は、驚くほど白く滑らかな肌で、もつれた赤毛も櫛を通せば通すほど鮮やかになった。
身綺麗になった薬師は、もはや自分を偽ることを諦め、背筋を伸ばして侍女たちに感謝を伝えた。見た目こそ二十代頭のラウラだが、その深緑の瞳に見据えられると、侍女たちは心の奥底まで覗きこまれるような、不思議な錯覚にとらわれるのだ。
国王自身が下した最初の命令はラウラを丁重に扱い、十分な休養と食事をとらせることだった。自分たちは、領主のうっぷん晴らしに付き合って身寄りのない女を見殺しにするつもりでいたが、実際国王が間に合わずラウラが川に落ちていたら、村は今頃どうなっていただろうか。想像した者は背筋を凍らせた。
そんな村人の心情などいざ知らず、イルヴァは一番広い寝室にて、ほろほろと身のほぐれるサーモンクリームスープをぺろりと平らげたところだ。魔女の身体は見た目以上に丈夫なので、回復が早かった。
――まだ、あの時のことを怒っているの?
彼女が御領の森から姿を消してから、二十年が経っている。国王は若き日の雪辱を晴らそうと、わざわざ王都から遠く離れたこの辺鄙な場所にイルヴァを捜しに来たのか。まさか。少なくとも、彼女が知るウルリッヒ少年はそんな器の小さな人間ではなかった。
――じゃあ、どうして?
ふと、窓の外をうかがう。高台に建つ領主館からは、村の様子が一望できた。あの大雨が嘘のように止み、青空が広がっている。村の中央部に架かる橋の周りで、兵士の緑色の制服と近衛兵の青い軍服が入り交ざっていた。その中央でジュストコールを着た設計師と思しき男と図面を広げて話をしているのが、国王ウルリッヒだ。
父親の死とともに王位を継いだのは今から八年前、彼が二十八歳のときだった。ベルトン王国は東の国境線を強大国バルドゥ帝国、北西部の国境線をアルバス公国と接しており、残りの国境線はすべて湾に面する海洋国だ。森と湖が美しい国だが、アルバス公国とは国境線をめぐって長年諍いが絶えず、またバルドゥ帝国はベルトン王国を属国化する機会を狙っている。舵取りは難しく、国境沿いは常に戦争の火種を抱えていた。
ウルリッヒが国王になってからまず成功させたのが、アルバスとの和平交渉だった。何年もかけて策を練りアルバスの中央部に味方を作り、両国共に和平に反対する者を少しずつ排していった。最後の仕上げとばかりに、戴冠したばかりのウルリッヒがアルバス大公を呼びつけ、一対一の話し合いを決行したのだ。
中世に取り残され、文明のはざまといわれたベルトン王国が、自国の発展に専念できるようになったのは彼の功績が大きい。
「寒いじゃないの」
考え事をしていると日が陰ってきて、イルヴァは無意識に両腕をこすった。悪態をついたのはボロの代わりに着せられたのはネグリジェ一枚だったからだ。仕方なく大きな寝台にもぐると、急に睡魔が襲ってくる。昨晩、兵士たちに家から引っ立てられ、牢屋のなかで一睡も出来なかったことを思い出した。
そのまま寝入ったのだろうか、頬を撫でられる感触に目を覚ます。すると、湯あみを済ませた国王がガウン姿で立っていた。窓の外はすっかり日が沈み、彼の背後には三日月が見える。イルヴァは、男こそが月を従えているかのように錯覚した。
二十年前の天使さながらの少年から想像できない、大きな大人の男だ。
「逃げなかったのは、感心だな」
バリトンボイスは硬質の響きを持ちながらも、イルヴァの心の柔らかい部分にスッとなじんできた。それを否定したくて、彼女は内心毒づく。
――逃げたかったわよ、ただ逃げられないだけで。
「二十年前は、どうして逃げた? あれから一週間後に行ったが、すでにもぬけの殻だったぞ」
四半世紀近い久闊を埋めるでもなく、彼の言葉は最初から詰問調だった。イルヴァの寝顔を見て、次第に昔の屈辱が蘇ってきたのかもしれない。頭に血がのぼっているなら、好都合だった。
「逃げたわけじゃないわ。坊やが貴族の子どもだとは分かったけれど、まさか王太子様とは思いもよらなかったのよ。あのまま森に暮らしていたら、坊やの愛妾にしてもらえたかしら? でもね、魔女は誰にも縛られず、自由に生きていくものなの。面倒はごめんよ」
「あのとき、俺はイルヴァに本気だった。あなたの言葉は嘘だったのか」
「そうよ、単なるピロートーク。ウルリッヒくんだって使うでしょ?」
苦悩に眉根を寄せる彼に心が痛まないわけではないが、それ以上に逃げた理由を追及されたくない。イルヴァは寝台から降りて、ウルリッヒの前に立った。二十年前は自分より小さかったのに、今は見上げるほど大きい。彼女は意を決して、ネグリジェの胸元を強調するようにすり寄った。
「話はこれまでよ。わたしにこんな格好をさせるのは、陛下の無聊をお慰めするため?」
「……そのつもりはなかったが、誰かが余計な気をまわしたようだな」
「優秀な部下をお持ちね。おかげで、あなたのこれまでが手に取るようにわかったわ」
「言われるほど、誰彼構わずじゃない」
ウルリッヒは一瞬傷ついたような表情を浮かべたものの、言い寄られるに慣れているのか、すぐに気安い視線を送ってくる。イルヴァはしめたとばかりに、品を作った。
「だったら、始めましょう。さあ、国王陛下、椅子に座ってくださる?」
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