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第二部

21.魔女、国王さまのお心を占拠する①

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 魔女が城を出たと知らされてから、一週間がたった。報告に訪れたヘイニの責めるような眼差しが、今もウルリッヒの心にトゲのように刺さっている。

 本来、森で自由気ままに暮らす魔女が、人間の貴族社会に溶け込めるはずはなかった。服従の指輪をはずしたのも、ウルリッヒがこれ以上イルヴァを鎖で繋ぐ行為に、耐えられなかったからだ。彼女には、あるがままの姿でいてほしい。
 だが、魔女のいない日常の、なんと味気ないことか。予想していた以上に、喪失は大きかった。書類の束に目を通すも、内容はほとんど頭に入ってこない。我知らず、ため息がこぼれた。

「陛下、コーヒーでもお持ちしましょう」

 いたわりを見せる家令に、すまないとだけ口にする。窓の外に目をやると、どんよりとした灰色の雲から、今にも初雪が降りだしそうだった。

 イルヴァは実に長い間、ウルリッヒの理想でありつづけた。
 初めはうんと年上の、ミステリアスで蠱惑的な女性だった。彼が教わったのは、セックスだけでない。他人への気遣い、愛情の表し方、とにかく刺激的な一夜だったのだ。
 だが、初めての恋にのぼせあがったウルリッヒにとって、魔女の失踪は裏切り以外の何物でもなかった。一時期は恨んでもいたし、忘れるために多くの女性と浮名を流した。未亡人に高級娼婦、ときにはご令嬢とのプラトニック。だが、いざ話が結婚に及ぶと、思い描くのはイルヴァしかいないのだ。

 三十歳を過ぎたとき、ウルリッヒは、ついに初恋の魔女を捜すことを決めた。突然の失跡の理由をただし、彼女を連れ帰って、妻に迎える。魔女が子どもを産まないことは知っていたので、後継の話が持ちあがらないよう、前もって従妹の息子を次の国王に指名した。

 知己であり良き相談相手である、レーヴァント伯爵とともに手掛かりを探し、気が付けば六年がたっていた。魔女の存在を信じていない人間もいる、このご時世。だが、救いの手は思わぬところから差し出された。

『これは国家機密なんですが……。陛下が魔女をお探しと聞いて、特別にお教えします。みかえり? いえいえ、いいんです。アルヴィ、いえ、うちの宰相は、がっぽりいっとけというのですが、僕には、とてもとても恐れ多くて、そんなこと……っ! あ、すみません、戻しますね。
 我が国の特別相談役に、ある大魔女が名を連ねています。話はつけておいたので、一度お訪ねになってはどうでしょう。ぼくの二百年ほどまえの先祖の……あ、愛人なんです。実を言うと、彼女の助言で、ぼくたちは陛下の国と和平条約を結ぶことを決めました。……アルヴィのこと、本当に気にしないでくださいね』

 アルバス公国の少年大公が、明かしてくれた秘密。本人はともかくとして、背後にいる腹黒宰相に何を要求されるものかわかったものではないが、六年の捜索を無駄にしたくない。今はありがたく受け取って、その足で大魔女の居城に向かった。



 二百年前、大魔女アクセリアは当時の大公から、この城を遺贈された。二階建ての白亜の壁の上にグレーの尖塔が幾つも並ぶ、洒脱な城だ。自然豊かな丘の上に建ち、人々の足である河川を見下ろしている。
 百余年前、まだ少女のイルヴァがこの城で薬草の知識を得、魔法を習得し、あるいは初めての『晩餐』にあずかったかもしれないと思うと、ウルリッヒの心はざわめいた。
 城内の壁や家具は赤と黒を基調としており、当世風のパステルカラーの内装に慣れた者に、強烈な印象を与える。城の主は、見目の良い若い従者を三人従え、上座で脚を組んでいた。

「イルヴァ? 知ってる、わたしの不出来な弟子さ。あの子の居場所を知りたいだって? ――なんだい。久しぶりの上玉が転がり込んできたと思えば、そんなことかい。帰った、帰った。あんたに喋ることなんかないよ」

 出迎えたアクセリアの対応は、そっけないものだ。長くうねる金髪に、猫のように気まぐれに瞬くアクアマリンの瞳。スリットの入ったドレスから、まばゆいばかりの脚線美がこぼれ、配下の将校たちは言うに思わず、ウルリッヒさえも見入ってしまった。

「伝説の魔女・アクセリア殿を見込んで、そこを何とか頼む」

 煽情的な美しさを誇るアクセリアは、ブルーのフロックコート姿のウルリッヒを頭の上から足の先まで念入りに観察し、長い煙管きせるから煙の帯を吐いてみせる。

「いいよ、交換条件だ。あんたの精りょ」
「それは断る。師匠と寝ては、イルヴァに合わせる顔がない」

 みなまで言わせないウルリッヒをアクセリアは、あざけるように見返した。

「あんた、それでも王様かい? 目的のために手段を選ばないのが、為政者だろう」
「イルヴァのまえでは、ただの男でいたい。充分な謝礼はする」

 彼女は鼻で笑うと、一人目の従者に水瓶を運ばせ、そこに杖をかざす。円形の水鏡にここではない風景が映しだされる。濁流に今にも飲み込まれそうな橋のうえ、手足を縛られて立つ女の姿があった。
 既視感に、ウルリッヒは水鏡をのぞき込む。

「イルヴァ!?」
「落ち着きな。これは未来視さ。あたしは、あの子みたいにドジは踏まないよ」
「ドジ? イルヴァが、どうしたっていうんだ?」
「魔力が枯渇しているね。常日頃からバカな子だと思っていたけれど、ついにやらかしたか」
「説明してくれ」

 アクセリアは、ワインレッドのネイルを施した爪で、チョコレートを摘まんだ。弟子の危機は、彼女を動揺させるまでもないらしい。

「男日照りだよ。妻子持ちは嫌だのゲスは嫌だの、選り好みするからさ。魔法の使えない魔女なんて、終わりさ」
「イルヴァは、しばらく男と寝ていないということか。なぜ?」
「んなこと、あたしの知ったこっちゃないね」

 熱くなるウルリッヒに反し、レーヴァント伯爵が冷静な顔で水鏡をのぞく。

「陛下。これはバントロ領のグンナル橋です。馬を替えながらいけば、ここから一日半で到着します」
「お前が報告してきた、補修しても何度も落ちるという、例の橋か」
「おそらく、領主はこの女性を人柱にして、領内の不満を抑えつけるつもりでしょう。あの男らしい浅はかな考えです」
「それにしても、どんくさい娘だね。二日後の正午だ。さっさと出発しな」
「かたじけない、魔女アクセリア」

 ウルリッヒが感謝の意に膝をつくと、レーヴァント伯爵をはじめ、近衛兵たちがそれにならった。屈強な男たちにひざまずかれ、満足顔の大魔女は、手に着いたチョコレートを二人目の従者に拭かせる。

「はんっ、端からわかっていたことだよ。あの子の母親もその母親も、いつもそう。あの家系はちっとも使えないんだ。せめてもの償いに、さっさと新しい魔女をよこしなって、あの子に伝えておくれよ」

 アクセリアはウルリッヒにはわからないことを吐き捨てると、三人目の従者からゴブレットを受け取った。そして、それを壁に向かって掲げる。そこには王冠をつけ、いかめしい顔をした老人の肖像画が掛けられていた。それが、二百年前のアルバス大公なのは間違いない。
 見上げるアクセリアの横顔がやけに優しくて、その光景はウルリッヒにとっての、自分とイルヴァの理想の未来像となった。
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