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第二部

22.魔女、国王さまのお心を占拠する②

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 再会した後のイルヴァは、一口に言って『可愛い人』だった。男を糧に生きているはずの魔女が二十年間、まだひよっこだったウルリッヒに操を立て、危うく命を失いかけた。これ以上の愛の証があろうか。 

 祖母のように物知りで、母のように献身的。寝台の上では手慣れた娼婦のように大胆でエロティックなのに、妻帯者の相手はいや、他人に最中の声を聴かれるのもいや、と変なところでお堅い。

 扉のまえで事に及んだとき、嫉妬心に駆られたウルリッヒは、若い近衛兵たちに嬌声を聞かせるつもりでいたが、イルヴァの泣き顔にほだされてしまった。
 理解したつもりでいて、まったく理解できてない。イルヴァはそんな女性で、いつまでもウルリッヒの興味を引き続けるのだ。

 ファンニが言うように、世継ぎ問題は影をくらませることなく、絶えずそこに存在していた。ウルリッヒの死後、後継者を指名していたとしても、おそらくバルドゥ帝国の皇帝・べアンハート二世が継承権を主張して、戦争を仕掛けてくるのは目に見えていた。国は焦土となり、民は搾取され、やがてベルトン王国の名は過去のものになってしまう。もちろん、そうならないように最善の策は講じる。

 それでも、ウルリッヒはイルヴァへの愛を貫きたかった。父に顧みられず、アヘンに溺れた母の死に影響を受けているか、自分では分からない。イルヴァは母のように弱くない。ただ、なにかと自分から離れたがる彼女に対し、ウルリッヒは決して逃げる口実を与えてはいけないのだ。
 

 
 その日の晩、国王ウルリッヒは意外な招待を受けた。
 いつの間にか、執務室の机に置かれた招待状。マーブル模様の厚紙のうえに、ウルリッヒの名前が金箔で彩色されていた。手の込んだ作業に、開けずとも送り主の心当たりがつく。魔女が戻ってきたのは嬉しいが、 改まって招待を受けるとなると、内容が気になった。

 しんとした中庭には誰もいなかったが、ところどころに光の玉が浮かんで、道を照らしていた。魔女の気遣いとみえ、夜というのに暖かい。澄んだ風に吹かれて、花々の香りが鼻孔をくすぐる。庭にこんな楽しみ方があるなんて知らなかった。また一つ、イルヴァに教えられるのだ。

 少し歩くと、噴水の前に魔女の姿がある。彼女はまっすぐ立っていた。驚くべきことに、深緑の絹のガウンをまとい、美しいデコルテや、細い手首の出る袖口は、ふんだんのレースで飾られている。赤い髪は流行りのシフォン巻きにしてあった。魔女らしい腰を締めない緩やかな衣服も流しただけの髪もそこにはない。そして、彼が見てきたどんな貴婦人よりも、美しく気高かった。

「来てくれてありがとう」
「いつものすがたも美しいが、今日は格別だ」

 ウルリッヒが心のままを明かすと、緊張したような顔が和らぐ。

「ヘイニたちが準備してくれたの。あなたの言葉を伝えれば、きっと喜ぶわ」

 彼が貴婦人に仕えるべく左腕を差し出すと、素直に腕を絡めてきた。

「不思議だな。衣服を変えるだけで、俺たちの間にある距離が、縮まったような気がする」

 冷えた夜の空は澄み切り、星々を美しく輝かせていた。何気ない景色も、愛しい人と共有すれば特別なものになる。イルヴァは最後に見せた涙もなく、凪いだ湖面のように穏やかだった。それが嬉しくもあり、怖くもある。この招待は、何を意味しているのか。

 彼女に導かれるまま、明るい散策路を抜けて東屋に着くと、そこは白いレースのテーブルクロスやあざやかな花々でセッティングされていた。ゴブレットにホットワインを給され、一日の疲れが癒される。
  向かいの席についた彼女は、まだワインに口につけず、思いつめるような顔でこちらを見ている。日頃、口達者な魔女とは思えないほどの、沈黙だ。ウルリッヒは何を話されるのかわからず、辛抱強く待った。
 やがて、イルヴァは心が決まったのか、静かに朱唇を開く。

「二十年前、どうしてあなたの前から姿を消したのか、そのわけを話すわ」

 ウルリッヒは、何を言われたのか一瞬分からなかった。何故なら、自分の生きているうちに、長命で自由気ままな魔女の口から、真実が語られるはずがないと思っていたのだ。彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
 
「あなたに出会ったわたしがいずれおちいるであろう、馬鹿な選択を防ぐためよ」
「馬鹿な選択?」

 イルヴァは、少しだけ笑った。泣いているような、笑顔だった。

「魔女をやめて、人間になることよ」
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