あやめ祭り～再び逢うことが叶うなら～

第二章

52．もう一人の没落貴族（１）

　溪蓀シースンは、固く閉じていた瞳を恐る恐る開いた。華蝶ファディエの白い首筋には、長細い刃が当てられている。彼女は懐剣を振り上げたまま、固まっていた。

「あら、近くで見ても良い男。ついてないのが残念だわ」

　丁ディン内侍は、華蝶ファディエの負け惜しみには取り合わなかった。左手で女の手首をいともたやすくひねりあげると、懐剣がカタンッとすべり落ちた。

「……痛っ！　繊細に扱いなさいよ！　宦官なのに、凄い力ね」
「探したぞ。この数日どこにいた？」

　その声は溪蓀シースンがついぞ聞いたことのない、冷淡さに満ちている。きっと、それが彼の本来の姿なのだろう。この若さで皇帝の護衛官を勤め上げ、後宮の兵士を取りまとめているのだから。
　華蝶ファディエは、せめてもの反抗に嘲笑する。

「内侍様の手下の部屋に間借りしていたと言ったら、逃してもらえるかしら？　ちょん切るまえに女を覚えた宦官は、快楽には人一倍弱いのよ。覚えておきなさいよ」

　丁ディン内侍は舌打ちして、思いあたる節のある部下を口の中でののしった。この十日間、どこを探しても見つからないわけだ。彼がおとがいを上げると、それを合図に霧のなかから宦官兵たちが姿を現した。彼らは素早く華蝶ファディエの身体を石畳に押し付け、後ろ手に縛り上げる。

「痛いわよっ！　骨が折れるじゃない！」
「しっかり押さえておけ」

　丁ディン内侍は冷たい石畳に座り込む溪蓀シースンの肩を支えて、縁台に座らせた。彼女はそのとき、自分の身体が震えていることに初めて気がつく。目の前で膝を着く丁ディン内侍の顔は、ひどく曇っていた。

「黄ホワン恵嬪けいひん様。どうして、華蝶ファディエに立ち向かわれたのですか？　自白がとれたらすぐ御身の安全を図ると打合せしたではないですか」
「同じ女性なら、わたしでも勝てるかと……」

　小さな声で言い訳をすると、丁ディン内侍は大きな溜息をもらした。

「この女は、姚ヤオ家でそれなりに訓練を受けています。心得のないあなたが敵う相手ではありません。無謀にもほどがあります」
「……すみません」
「まったく、あなたは」

　きつい言葉の割に、秀麗な顔は安堵で満ちていた。ふたりは皇帝の護衛官と側室の立場にあったが、心の距離はとても近い。丁ディン内侍は一変して厳しい表情を作り、華蝶ファディエを見下ろした。
　
「謝シエ皇后がすべてを明らかにされた。最初は、お前が崔瞳絹ツァイトンジュアンを殺害したのは自分のせいだと、心を痛めておいでだった。しかし、勇ヨン安嬪様に毒を盛る計画に皇后殿下が了承しないことで、やすやすと王ワン貴妃様に乗り換えたお前の行動を知り、眼が覚めたそうだ。謝シエ皇后は今回の責任を取って、出家を望まれている。昨日、皇太后殿下と勇ヨン安嬪様とお三人の話し合いの末、公務のすべてを勇ヨン安嬪様に託されることで決着がついた」

　石畳に頬を押し付けられた華蝶ファディエは、悔しげに唇を噛み締めた。

「あんの小娘、いい思いさせてやったのに！」
「不貞な輩が後宮をかき回すな。女とはいえ、陛下のも・の・に手を付けるなど言語道断だ」
「はんっ、なによ！　謝シェ皇后も王ワン貴妃も、陛下に放置されたのをわたしが慰めてあげたのよ。こっちは感謝して欲しいぐらいよ！」

　溪蓀シースンはそれを聞いて、正直怖くなった。華蝶ファディエの言うことが本当なら、彼女は閨の指導を通して謝シェ皇后と王ワン貴妃を手玉に取ったことになる。ずっと皇帝一人に向いていた妃たちの関心を一攫さらえにする華蝶ファディエの閨事とはどんなものだろうか。想像がつかない。どちらにしろ、華蝶ファディエは自分の欲を優先させて、謝シェ皇后の寵愛を失ったのだ。
　丁ディン内侍も、華蝶ファディエの訴えを一顧だにしなかった。

「どうあがこうと、お前の罪は確定している。黄ホワン恵嬪様は、長福宮の件以降姿をくらませたお前をおびき出すために、わざと弱ったふりをされていたのだ」
「……そう。じゃあ、わたしはまんまと、この女にたばかられたわけね」

　全ての事態を把握した華蝶ファディエ。しかし、落胆し我が身を嘆くどころか次の瞬間、不気味な笑みを浮かべたではないか。それを見た面々は、胸にもやが湧くような不安な気持ちになった。笑いの意味がまったく分からなかった。
　華蝶ファディエは不自由な姿勢で、溪蓀シースンにひたりと視線を据える。

「あんたが一生李浩海リーハオハイの顔を拝めないと分かれば、わたしに悔いはないわ。わたしは若く美しいまま死んでいける。それに比べて、あんたは誰からも必要とされず、無意味にここで一生を終えるのよ。それじゃあ、ただ息をするだけで死んだも同然よ。壁の向こうの男を思い浮かべて、ゆっくり醜く老いていくがいいわ」

――生きていても死んでいても同じ？

　溪蓀シースンは言われた内容を反芻して、固まってしまった。

「あ、わたしは……」

　反論しようとして、言葉に詰まる。圧倒的に有利な立場にいるのに、華蝶ファディエを諫めることも出来ない。今まで心に浮かんではかき消して、あえて考えようとしなかった事実を突き付けられ、溪蓀シースンの目の前は真っ暗になった。