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第七話 鳥籠の牢
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「エルヴィーラ。あなたにお見せしたいものがあります」
その数日後。
ルートヴィッヒは彼女をエスコートし、地下へと下りていく。彼女は螺旋状の階段の内側を歩きながら、足元を飛び跳ねる光の玉らに微笑みを浮かべた。
「この子たち、今日はやけにご機嫌ですね。わたしも何を見せていただけるか楽しみです」
「お気に召すと良いのですが」
「あなたから頂いたものの中で、一つでもわたしの気に入らなかったものがあるでしょうか?」
エルヴィーラの部屋には豪奢なドレスや希少な宝石が所狭しと並べられ、図書館には彼女の好きな恋愛小説の蔵書が増えた。彼女が「食べたい」と口にしたものは、例外なくその晩の食卓に並べられる。一度など、幼いころ親しんだ故郷の歌を聴きたいと言ったら、奏者や歌い手ごと魔界に転移されてきた。
だが、エルヴィーラが本当に欲しいものは、決して手に入らない。
――わたしは、あなたの心が欲しいの。
彼女は、ルートヴィッヒの手に触れる自分の指先に力を入れる。
エルヴィーラは『番を愛する気持ち』ごと彼を愛すると、心を決めたつもりでいた。だが、彼の顔を見るたび愛しさ以上に寂しさが胸を占める。
彼女は純白のドレスに醜い感情をそっと包み隠して、微笑みを浮かべた。
魔王は、彼女の顔を覗き込む。ルビーの瞳は、どことなく緊張しているように見えた。
「あなたの真なる望みが叶いますように」
「わたしの望み、ですか?」
ルートヴィッヒの心を得ること以外に、何の望みがあるというのだろう? 彼の言うことがたまに分からなくなる。
「はい。――さあ、この扉です」
答えをくれない彼が開けると、むわっとするような血ときつい松脂の匂いが漂ってきた。広い部屋の四隅に松明が置かれ、鳥かごのような小さな牢が四つ、向かい合わせに吊るされていた。それ以外は何もない、看守もいない。いつの間にか、光の玉たちは姿を消していた。
向かって左の鳥かごに閉じ込められた若い女二人が、エルヴィーラをみて驚きの声を上げる。手前の町人風の女は黒い髪を散切にされ、その顔はひどく憔悴していた。
「エルヴィーラ様!? あなたなんですか? ……お願いです、ここから出すようにその人に言ってください!」
エルヴィーラは、返事が出来なかった。まさか、ルートヴィッヒの見せたいものがこれらとは予想だにしていない。女が鉄格子に縋りついて、エルヴィーラに向かってすすり泣きを始めた。
「エルヴィーラ様、すごく綺麗になりましたね。小神殿にいた頃……いいえ、それ以上に綺麗、まるで女王陛下のようです。お願いだからここから出してください。わたしたちは、無二の親友だったでしょう?」
親友だからこそ、盗んでいけなかった。この女は何故それが分からないのか。エルヴィーラは自分でも驚くような冷たい心持ちでいた。
そのとき、奥の鳥かごに閉じ込められていた貴族女がかな切り声をあげる。
「おまえが、あの聖女ですって……? おまえ、おまえのせいでわたしはこんな目にあわされて……っ! 裏切者のあばずれ、絶対許さないわ!」
彼女は、手足の爪を剥がされて床に座り込んでいた。顔は煤と涙にまみれ、シニヨンの髪型は乱れ切っている。そんななか豪奢な黄色いドレスだけが浮いて、滑稽さを浮き彫りにしていた。
「あのときお前を殺しておくのだったわ。そこの魔族、聞きなさいよ! この女は、わたしの夫を誘惑したあばずれなのよ! 地獄に落ちて当然なのよ!」
あいにく、エルヴィーラはそのセリフに何も感じない。ルートヴィッヒも一顧だにしなかった。エルヴィーラは最後まで二人に言葉を掛けず、右側の鳥かごに視線をやる。
手前の牢には、軍服姿の若い男性が横向きに転がされている。激しく抵抗したのか、手や顔は傷だらけだ。飾りの多いジャケットに対してズボンは履いていない。下半身をむき出しのまま、尻から大量の血を流していた。血のほかに白濁した液体が飛び散り、ひどい悪臭をもたらしていた。捕虜となった男がどんな扱いを受けたか、尋ねるまでもない。
満身創痍の男は、来客に気が付くと乾いた声を発する。
「エルヴィーラ……? エルヴィーラなのか……?」
口を開く手間すらかけたくなくて、返事の代わりに凝視する。
「エルヴィーラ、悪かった。……俺に仕返しするつもりで、こんな仕打ちをしたのか……? 悪かった、俺を許してくれ、……おまえを愛していたんだ」
弱弱しい嘆願は、かつてエルヴィーラを蹂躙した横暴さ強欲さとは似ても似つかないものだった。今更謝るなら、最初からやらなければいいのに。一時は愛した男の落ちぶれた姿にあきれ果て、ため息も出なかった。
彼女は冷たい表情のまま、その隣の鳥かごに視線を移す。奥の太った中年の男性は両腕を斬り落とされ、両肩からはおびただしい量の血を流していた。止血も去れず放置されている。ぐったりと格子にもたれ、生死まで分からなかった。
ルートヴィッヒはエルヴィーラの隣に立つと、その肩を抱く。
「あなたの就寝中に髪を切って、その金で婿を買った侍女。あなたの治癒力を得る口実に、何度も狼藉を働いた王太子。夫のあなたへの執着をみて嫉妬に狂い、あなたの爪を剥がした王太子妃。あなたを二年監禁し、両腕を斬り落とした国王。ちょろちょろ逃げ回るせいで王都を木っ端みじんにしてしまいましたが、ようやくこの四人を捕まえることが出来ました」
その誇らしげな声音は、まるで、主人に褒めてほしい大型犬のようだ。エルヴィーラはあまりの愛しさにその右手を握り、白い甲をよしよしと撫でた。ルートヴィッヒは低いところにある彼女の金の頭に、自分の頬をこすり付ける。その顔は見なくても満面の笑みを湛えていることだろう。イチャイチャし始めた二人を囲んで、鳥かごの中の囚人たちが訴えた。
「お助け下さい、エルヴィーラ様! もう二度とあなたを裏切りません!」
「早く、わたしたちをここから出しなさい!」
「解放してくれれば、魔族に忠誠を誓う……頼む、エルヴィーラ」
エルヴィーラはルートヴィッヒとその番のことで頭がいっぱいになり、正直彼らのことは久しく考えていなかった。しかし、受けた痛みを忘れたわけではない。恨みつらみも薄れたわけではない。
――わたしはずっと、これが見たかったのだわ。
ルートヴィッヒの言葉を借りるなら、因果応報をこの目で見届けられなかったことが自分の唯一の未練だったのだ。受けた屈辱をそのまま返す。どれほどの愛に満たされようとも、この身に起きた痛みや苦しみをなかったものには出来ない。相手に同等の痛みと苦しみを与えることでしか果たせぬものがあるのだ。
彼女はルートヴィッヒを振り返った。
「こんなに狭いところに閉じ込められて可哀そうです、ルーイ。彼らにこれ以上の苦しみを与えないであげてください」
「あなたがそう望むなら、仕方ありません。わたしはもう少し、痛めつけたかったのですが」
ルートヴィッヒが笑顔を浮かべたまま、軽く手を払う。その瞬間、四つの鳥かごのうえに一気に重しが落ち、鉄格子がひん曲がって潰され、ぐちゃっと肉と骨がすり潰される音が聞こえた。おそらく、断末魔を上げる暇もなかっただろう。
「あら」
気が付けば、エルヴィーラの純白のドレスまで囚人たちの血が飛び散っていた。見守っていると、紅い染みはまるで意思があるかのように白地に広がりつづけ、最後には真紅を通り越して黒に染めた。
「あら? 背中になにかあるわ」
彼女の呟きに合わせて、ルートヴィッヒが壁に手をかざすと等身大の鏡が忽然と現れた。かつての聖女は、自分の外見の変化に驚いて固唾をのむ。
「これが、わたし……? ……悪くないわ。この翼軽いのに、すごくチャーミング」
彼女の背中には、蝙蝠のような黒い翼が生えていた。金の髪はそのまま、瞳は赤く染まり雪のような白い肌を際立てるように、黒いドレスが艶めいていた。
ルートヴィッヒの目許が朱を帯び、歓喜の表情に包まれる。
「ついに本来の肉体を得ましたね、わたしの『運命の番の君』」
「番とは、わたしのことですか? 他にいるのではなく?」
「いいえ。三百年前もあなただったし、これから先もあなた以外現れないでしょう」
エルヴィーラはその言葉がなかなか消化できず、固まったままでいた。
「信じられない。どうして初めに言ってくれなかったのですか?」
おかげで自分を羨ましがって、眠れぬ夜を過ごしてしまった。嫉んで恨んで、苦しんだ時間を返して欲しい。
ルートヴィッヒは紅蓮の瞳を切なげに伏せる。
「異種族への変形は、生まれ変わりと同じです。あなたは人であるときの恨みを晴らせず未練を残して、魔族として覚醒出来ない状態でした。わたしは余計な情報で混乱させ、覚醒を妨げるのを避けたかったのです。本当は最初に逢ったとき、『番の君よ』とあなたを抱き締めたかった」
エルヴィーラは唯一と望んだものが既に自分だけのモノであったと知り、ルートヴィッヒに抱き着いた。
「『番の君』よ。わたしを救ってくれてありがとうございます。あなたに助けられて、本当に良かった」
「間に合わなかったら、間違いなく人間界を滅ぼしていたことでしょう。あなたを見つけられずにいたこの二十年は、途方もなく長かった」
魔王も、腕の中の番をいとおし気に抱き締める。エルヴィーラはふふっと笑った。
「いけない人ですね。おかげで、わかりました。今世のわたしは『あなたのため』に生まれて来たことを」
「わたしもそうでした。あなたの前世の番になるため、生まれて来たのですから。人間の姿のあなたは可憐で可愛らしかったが、今のあなたの美しさはまさに女王に相応しい。すぐに婚礼用衣装を作りましょう」
二人は満足するまでキスを交わして、再び抱き合った。エルヴィーラは幸福の絶頂にあり、彼と育む愛こそがこれから始まる永遠のように長い人生を虹色に彩ると確信していた。
しばらくして、エルヴィーラが血と肉の飛び散る石壁を見回して言う。
「ここは血の匂いが強いですね。夜の庭の香りを楽しみにいきましょう」
二人は手をつないで、牢を出た。エルヴィーラは無敵の身体を手に入れて、早くも以前とは違う体の軽さを感じる。この世に彼女が行けない場所は存在しないだろう、この翼がある限り。
ふと、ルートヴィッヒが覗き込んできた。その可愛らしい顔ときたら。エルヴィーラに前世の先代魔女王の記憶が戻ることはないが、愛しき番に感じる感情は決して変わらない。
「せっかくですし、空中遊泳はどうでしょう?」
魔王の提案にエルヴィーラはしばらく考えてから、軽く頭を振った。
「いい案だけど、それは昼間にやりましょう。楽しむには、魔界の夜空は明るさが足りません」
「では、人間界と同じように空に月を浮かべましょうか? 今世のあなたは月がお好きなようですし」
エルヴィーラは、ルートヴィッヒの頬へ愛おし気に手を伸ばす。
「好きです、でも。わたしの『月』はここにあるから、わざわざ空に浮かべる必要はないんです」
愛しい人に『月』と呼ばれた意味を理解し、魔王は嬉しそうに目許を染めた。
その数日後。
ルートヴィッヒは彼女をエスコートし、地下へと下りていく。彼女は螺旋状の階段の内側を歩きながら、足元を飛び跳ねる光の玉らに微笑みを浮かべた。
「この子たち、今日はやけにご機嫌ですね。わたしも何を見せていただけるか楽しみです」
「お気に召すと良いのですが」
「あなたから頂いたものの中で、一つでもわたしの気に入らなかったものがあるでしょうか?」
エルヴィーラの部屋には豪奢なドレスや希少な宝石が所狭しと並べられ、図書館には彼女の好きな恋愛小説の蔵書が増えた。彼女が「食べたい」と口にしたものは、例外なくその晩の食卓に並べられる。一度など、幼いころ親しんだ故郷の歌を聴きたいと言ったら、奏者や歌い手ごと魔界に転移されてきた。
だが、エルヴィーラが本当に欲しいものは、決して手に入らない。
――わたしは、あなたの心が欲しいの。
彼女は、ルートヴィッヒの手に触れる自分の指先に力を入れる。
エルヴィーラは『番を愛する気持ち』ごと彼を愛すると、心を決めたつもりでいた。だが、彼の顔を見るたび愛しさ以上に寂しさが胸を占める。
彼女は純白のドレスに醜い感情をそっと包み隠して、微笑みを浮かべた。
魔王は、彼女の顔を覗き込む。ルビーの瞳は、どことなく緊張しているように見えた。
「あなたの真なる望みが叶いますように」
「わたしの望み、ですか?」
ルートヴィッヒの心を得ること以外に、何の望みがあるというのだろう? 彼の言うことがたまに分からなくなる。
「はい。――さあ、この扉です」
答えをくれない彼が開けると、むわっとするような血ときつい松脂の匂いが漂ってきた。広い部屋の四隅に松明が置かれ、鳥かごのような小さな牢が四つ、向かい合わせに吊るされていた。それ以外は何もない、看守もいない。いつの間にか、光の玉たちは姿を消していた。
向かって左の鳥かごに閉じ込められた若い女二人が、エルヴィーラをみて驚きの声を上げる。手前の町人風の女は黒い髪を散切にされ、その顔はひどく憔悴していた。
「エルヴィーラ様!? あなたなんですか? ……お願いです、ここから出すようにその人に言ってください!」
エルヴィーラは、返事が出来なかった。まさか、ルートヴィッヒの見せたいものがこれらとは予想だにしていない。女が鉄格子に縋りついて、エルヴィーラに向かってすすり泣きを始めた。
「エルヴィーラ様、すごく綺麗になりましたね。小神殿にいた頃……いいえ、それ以上に綺麗、まるで女王陛下のようです。お願いだからここから出してください。わたしたちは、無二の親友だったでしょう?」
親友だからこそ、盗んでいけなかった。この女は何故それが分からないのか。エルヴィーラは自分でも驚くような冷たい心持ちでいた。
そのとき、奥の鳥かごに閉じ込められていた貴族女がかな切り声をあげる。
「おまえが、あの聖女ですって……? おまえ、おまえのせいでわたしはこんな目にあわされて……っ! 裏切者のあばずれ、絶対許さないわ!」
彼女は、手足の爪を剥がされて床に座り込んでいた。顔は煤と涙にまみれ、シニヨンの髪型は乱れ切っている。そんななか豪奢な黄色いドレスだけが浮いて、滑稽さを浮き彫りにしていた。
「あのときお前を殺しておくのだったわ。そこの魔族、聞きなさいよ! この女は、わたしの夫を誘惑したあばずれなのよ! 地獄に落ちて当然なのよ!」
あいにく、エルヴィーラはそのセリフに何も感じない。ルートヴィッヒも一顧だにしなかった。エルヴィーラは最後まで二人に言葉を掛けず、右側の鳥かごに視線をやる。
手前の牢には、軍服姿の若い男性が横向きに転がされている。激しく抵抗したのか、手や顔は傷だらけだ。飾りの多いジャケットに対してズボンは履いていない。下半身をむき出しのまま、尻から大量の血を流していた。血のほかに白濁した液体が飛び散り、ひどい悪臭をもたらしていた。捕虜となった男がどんな扱いを受けたか、尋ねるまでもない。
満身創痍の男は、来客に気が付くと乾いた声を発する。
「エルヴィーラ……? エルヴィーラなのか……?」
口を開く手間すらかけたくなくて、返事の代わりに凝視する。
「エルヴィーラ、悪かった。……俺に仕返しするつもりで、こんな仕打ちをしたのか……? 悪かった、俺を許してくれ、……おまえを愛していたんだ」
弱弱しい嘆願は、かつてエルヴィーラを蹂躙した横暴さ強欲さとは似ても似つかないものだった。今更謝るなら、最初からやらなければいいのに。一時は愛した男の落ちぶれた姿にあきれ果て、ため息も出なかった。
彼女は冷たい表情のまま、その隣の鳥かごに視線を移す。奥の太った中年の男性は両腕を斬り落とされ、両肩からはおびただしい量の血を流していた。止血も去れず放置されている。ぐったりと格子にもたれ、生死まで分からなかった。
ルートヴィッヒはエルヴィーラの隣に立つと、その肩を抱く。
「あなたの就寝中に髪を切って、その金で婿を買った侍女。あなたの治癒力を得る口実に、何度も狼藉を働いた王太子。夫のあなたへの執着をみて嫉妬に狂い、あなたの爪を剥がした王太子妃。あなたを二年監禁し、両腕を斬り落とした国王。ちょろちょろ逃げ回るせいで王都を木っ端みじんにしてしまいましたが、ようやくこの四人を捕まえることが出来ました」
その誇らしげな声音は、まるで、主人に褒めてほしい大型犬のようだ。エルヴィーラはあまりの愛しさにその右手を握り、白い甲をよしよしと撫でた。ルートヴィッヒは低いところにある彼女の金の頭に、自分の頬をこすり付ける。その顔は見なくても満面の笑みを湛えていることだろう。イチャイチャし始めた二人を囲んで、鳥かごの中の囚人たちが訴えた。
「お助け下さい、エルヴィーラ様! もう二度とあなたを裏切りません!」
「早く、わたしたちをここから出しなさい!」
「解放してくれれば、魔族に忠誠を誓う……頼む、エルヴィーラ」
エルヴィーラはルートヴィッヒとその番のことで頭がいっぱいになり、正直彼らのことは久しく考えていなかった。しかし、受けた痛みを忘れたわけではない。恨みつらみも薄れたわけではない。
――わたしはずっと、これが見たかったのだわ。
ルートヴィッヒの言葉を借りるなら、因果応報をこの目で見届けられなかったことが自分の唯一の未練だったのだ。受けた屈辱をそのまま返す。どれほどの愛に満たされようとも、この身に起きた痛みや苦しみをなかったものには出来ない。相手に同等の痛みと苦しみを与えることでしか果たせぬものがあるのだ。
彼女はルートヴィッヒを振り返った。
「こんなに狭いところに閉じ込められて可哀そうです、ルーイ。彼らにこれ以上の苦しみを与えないであげてください」
「あなたがそう望むなら、仕方ありません。わたしはもう少し、痛めつけたかったのですが」
ルートヴィッヒが笑顔を浮かべたまま、軽く手を払う。その瞬間、四つの鳥かごのうえに一気に重しが落ち、鉄格子がひん曲がって潰され、ぐちゃっと肉と骨がすり潰される音が聞こえた。おそらく、断末魔を上げる暇もなかっただろう。
「あら」
気が付けば、エルヴィーラの純白のドレスまで囚人たちの血が飛び散っていた。見守っていると、紅い染みはまるで意思があるかのように白地に広がりつづけ、最後には真紅を通り越して黒に染めた。
「あら? 背中になにかあるわ」
彼女の呟きに合わせて、ルートヴィッヒが壁に手をかざすと等身大の鏡が忽然と現れた。かつての聖女は、自分の外見の変化に驚いて固唾をのむ。
「これが、わたし……? ……悪くないわ。この翼軽いのに、すごくチャーミング」
彼女の背中には、蝙蝠のような黒い翼が生えていた。金の髪はそのまま、瞳は赤く染まり雪のような白い肌を際立てるように、黒いドレスが艶めいていた。
ルートヴィッヒの目許が朱を帯び、歓喜の表情に包まれる。
「ついに本来の肉体を得ましたね、わたしの『運命の番の君』」
「番とは、わたしのことですか? 他にいるのではなく?」
「いいえ。三百年前もあなただったし、これから先もあなた以外現れないでしょう」
エルヴィーラはその言葉がなかなか消化できず、固まったままでいた。
「信じられない。どうして初めに言ってくれなかったのですか?」
おかげで自分を羨ましがって、眠れぬ夜を過ごしてしまった。嫉んで恨んで、苦しんだ時間を返して欲しい。
ルートヴィッヒは紅蓮の瞳を切なげに伏せる。
「異種族への変形は、生まれ変わりと同じです。あなたは人であるときの恨みを晴らせず未練を残して、魔族として覚醒出来ない状態でした。わたしは余計な情報で混乱させ、覚醒を妨げるのを避けたかったのです。本当は最初に逢ったとき、『番の君よ』とあなたを抱き締めたかった」
エルヴィーラは唯一と望んだものが既に自分だけのモノであったと知り、ルートヴィッヒに抱き着いた。
「『番の君』よ。わたしを救ってくれてありがとうございます。あなたに助けられて、本当に良かった」
「間に合わなかったら、間違いなく人間界を滅ぼしていたことでしょう。あなたを見つけられずにいたこの二十年は、途方もなく長かった」
魔王も、腕の中の番をいとおし気に抱き締める。エルヴィーラはふふっと笑った。
「いけない人ですね。おかげで、わかりました。今世のわたしは『あなたのため』に生まれて来たことを」
「わたしもそうでした。あなたの前世の番になるため、生まれて来たのですから。人間の姿のあなたは可憐で可愛らしかったが、今のあなたの美しさはまさに女王に相応しい。すぐに婚礼用衣装を作りましょう」
二人は満足するまでキスを交わして、再び抱き合った。エルヴィーラは幸福の絶頂にあり、彼と育む愛こそがこれから始まる永遠のように長い人生を虹色に彩ると確信していた。
しばらくして、エルヴィーラが血と肉の飛び散る石壁を見回して言う。
「ここは血の匂いが強いですね。夜の庭の香りを楽しみにいきましょう」
二人は手をつないで、牢を出た。エルヴィーラは無敵の身体を手に入れて、早くも以前とは違う体の軽さを感じる。この世に彼女が行けない場所は存在しないだろう、この翼がある限り。
ふと、ルートヴィッヒが覗き込んできた。その可愛らしい顔ときたら。エルヴィーラに前世の先代魔女王の記憶が戻ることはないが、愛しき番に感じる感情は決して変わらない。
「せっかくですし、空中遊泳はどうでしょう?」
魔王の提案にエルヴィーラはしばらく考えてから、軽く頭を振った。
「いい案だけど、それは昼間にやりましょう。楽しむには、魔界の夜空は明るさが足りません」
「では、人間界と同じように空に月を浮かべましょうか? 今世のあなたは月がお好きなようですし」
エルヴィーラは、ルートヴィッヒの頬へ愛おし気に手を伸ばす。
「好きです、でも。わたしの『月』はここにあるから、わざわざ空に浮かべる必要はないんです」
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