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226・酸素残量
しおりを挟む沈むシェリーを追いかけ、再び冷たい湖底に向かった俺は、上からの水流が緩やかになった辺りでどんよりと不気味に浮かぶ魔獣人と向き合う。
対峙した魔獣人からは、先刻までの獰猛さをまるで感じられ無い。幽鬼の様にボンヤリと漂いながら虚ろな目で此方を見ている。
ーーその姿は酷いものだ。
硬い水面に正面から突っ込んだ衝撃で、顔面はひしゃげて牙は折れ、胸元の毛皮は折れた肋骨に内部から押され歪に盛り上がっている。どう見ても重傷、魔獣人がいくらタフでも、もう長くは保たないだろう。
そんな満身創痍でいつ死んでもおかしくない状況にも関わらず、魔獣人はしっかりとシェリーをその腕に抱えていた。
(もう死に掛けだろうに……執着力はヒグマ並みだな)
一戦交えるには酸素の残量が心とも無いが、それはあちらも同じ筈。それにーー、
(どっちみち、もう上までは保たないんだ……それなら残った酸素、全部使うつもりでやってやる!)
俺が考えた計画は、先ずシェリーを取り返し限界まで浮上。その後は封印していた筋肉魔法「トルネード」を使いシェリーを水面に向かって投げ飛ばす。
水中だとかなりの抵抗を受けるだろうが、そこはドルフィンキックのスピードを組み合わせて…………それでもシェリーが水面まで辿り着ける確率は1割も無いだろう。
そして上手く水面まで出れたとしても、意識を失っているシェリーが自己呼吸出来るかどうか……こればかりは、獣人である肉体的アドバンテージに賭けるしか無い。
乱暴で、負け確定のギャンブルじみた最低な方法だが、今の俺にはこれくらいしか思い浮かばない。
(よし、もう考えるのは止めだ。こっからは脳じゃ無く、筋肉に酸素を使う!)
突っ込んで、ぶんどって、泳いでぶん投げるーーやる事はこれだけだ。
そう腹を括った俺が魔獣人へと向かって泳ぎ出そうとしたその時、ーーブワッ!っと、周囲の水が一斉に動き始めたのを肌に感じた。
(風を……起こしたのか?)
ーー水中で風、その発想は無かった!
風とは、つまり空気の流動である。もし風魔法が周囲の空気を動かす様な物では無く、風そのものを新たに生み出す魔法ならばーー、
(ま、まさか……出来るの!? 酸素の生成!!)
水の中の空気は泡になり上へと登る筈だ。上手くいけば、その酸素を吸ってもう一度あの難所に臨む事が出来るかもしれない。
(一呼吸で良いんだ! 頼むぞッ!!)
祈る様な眼差しで魔獣人の動向を見守っていると、魔獣人の長毛が荒波の中で揺らめく海藻みたいに踊り出した!
(ーーおぉ!)
全身の毛が逆立ち、膨れ上がった魔獣人はまるで違う生き物みたいだ。丸い毛玉の様なその姿は何処と無く住宅情報に詳しそうなキャラに見える。尤も、アレは全身緑色だったけど……。
そして、その毛玉の中の虚な目がカッと見開く!ーー益々それっぽい!
ーーゴワッ!
魔獣人を中心に四方八方へと水流が放たれる!
ーー風では無い、水流だ。空気の泡が混じっている事も無い……ただの水である。
真正面から顔面へと打ち付ける水流に髪を靡かせながら、俺は水中である事を忘れて思わず叫んだ。
「ゴボッバッーファッ!!」(風じゃないんかーいっ!!)
残念ながら水中では酸素を含んだ風がワッと出る様な事は無く、ただ新たなる水流が生み出されるだけの様だ。いくら魔法といえど、それなりのルールがあると言う事なんだろうーー期待させやがって!
勿論、魔獣人は酸素狙いで風を出した訳では無いのかもしれない。そんな知恵がある筈が無いし、単純に不遇な場面に陥った場合に風を出すのが身体に染み付いているだけで、謂わば条件反射みたいな物だったんだろう。
ーー僅かな希望は打ち砕かれた。それどころか思わずツッコミを入れちゃった所為で、残り少ない酸素を吐き出してしまう始末だ。
(やってくれたな! 余計な体力を使かっちゃったじゃないか!)
俺が勝手に期待していただけなので魔獣人が悪い訳では無いのだが、それでもこの憤りをぶつけずにはいられない。
シェリーを奪いに行くついでに一発殴ってやろうと、魔獣人に向かって泳ぎ出す。がーー、
(なん……だ? 押し戻される!?)
身体に当たる水流の勢いが強くなっている!
魔獣人がコントロールしているのか、どうやら彼方此方へと出鱈目に流れていた水流が次第に一つの方向へと指向性を持って流れ出したようだ。
幾つもの水流が一つになり力強く俺の方へ…………いや、滝の水圧に逆らう様に上へと勢い良く流れ始める。
(まだこんな力を出せるのか!)
今日一日で一体どれ程の魔力を使っているのだろう? 個体差は有るのだろうが、どうやら俺が考えているよりもずっと魔獣人には魔力量がある様だ。
(う、うおぉ? 駄目だ、まだシェリーが……)
高まる水流の圧力、この場に留まり続けるのが難しくなってきた。このままでは再びシェリーとの距離が離されてしまうと、打ち付ける水流に目を細めながら必死に水を掻く。
そんな俺の胸元に、急にドンッと何かがぶつかってきた……シェリーだ!
(おっとっと)
身体を擦り抜ける様に流されるシェリーを慌てて抱き抱えると、一体どう言う事かと魔獣人の方に目を向けた。
ーー魔獣人は岩壁に縫い付けられた様に張り付いていた。
作用反作用の法則で、強い水流を生み出せば出す程に発生源である魔獣人の身体は同等の力で逆方向へと流される。
滝に負けぬ程の水流を風魔法で生み出した結果、魔獣人の身体は岩壁へ叩き付けられ、今もその尋常では無い圧が掛かり続けているのだ。
ーービキッ ビキッ!
あまりの圧に、遂には魔獣人の背後の岩壁がヒビ割れ、小さな破片が湖底へゆっくりと沈んで行くのが見える。
しかし、それでも魔獣人《マレフィクス》は風魔法を止めようとはしない。それどころか、水流の勢いは更に増していった。
(……混乱してるのか?)
脳に酸素が足りなくなっての所業だろうか? リミッターが外れた様に魔法を出し続ける魔獣人ーー今はこの力を利用させて貰おう!
上手い事、上からと下からの水流同士がぶつかり合っているお陰で先程よりも泳ぐ時の抵抗が少ない。
今なら全力でドルフィンキックを使えばあの難所を抜けれそうだ。
しかし、無酸素で泳ぎ続けた所為で、俺の身体も限界を迎えようとしている。
(なんの、限界からが勝負だ!)
筋トレでいつも限界以上の力を出す事を想定している俺にとって、限界とは超えるものである。限界まで追い込んでからの更なる一発が筋肉を強くするのだ。
ふと下に目を向けると、苦しみに喘いでいるのか、此方を見上げながら僅かに口を動かす魔獣人が見えた。
ーー俺はその口の動きに何だか既視感を感じながらも、空気を求めて我武者羅に水を蹴り続けた。
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