酔仙楼詩話

吉野川泥舟

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第九話

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 今夜もいそいそと酔仙楼へ出かけようとする子柳でしたが、その背中に宿の主人が待ったをかけました。

「子柳どの、あなたも長安人士の噂に上るほどの才人、私のような者がお諫めするのもどうかと思いますが」

 主人は連日酔仙楼へ上がっては、夜遅くに帰ってくる子柳のことを心配するあまり、とうとう注意を促すことにしたのでした。

「言うまでもありませんが、貴方さまは楚興義さまから援助を受けて遊学する身。それをこう毎晩のように飲み歩いては、本分であるはずの学問もさび付いてしまいましょう。故郷の母上もきっと心配なさいます。文人たるもの、社交にお金がかかるのは当然のこと、遊び慣れた方が洗練されますし、どこでどんな繋がりができるかわかりません。そこは重々承知しておりますが、どうかもう少しご自重頂ければと」

 子柳、たちまち顔から火が出るかと思いました。裾をつかんでもじもじしてしまいます。主人の言うことはもっともであり、何の反論もできないのですが、酔仙楼三階の集いは何物にも代えがたい魅力がありました。ただで山海の珍味を味わえるのもありがたかったのですが、それ以上に、自分の詩作がめきめき上達することに子柳は言い得ぬ喜びを覚えていたのでした。

「まあまあ、ご主人。そう詰め寄るものではないよ。ほら、子柳どのも困っているではないか」

 子柳と主人がその声の方を向くと、そこには瀟洒な着流しに身を包んだ、年の頃は二十代後半に見える青年が立っていました。手にした扇を揺らめかせ、微笑みを湛えながら、

「確かに子柳どのはずいぶん遊びが過ぎるようだ。毎晩のように、あの酔仙楼で豪遊していると伺っている。しかしながら、ご主人にもすでにおわかりのように、我々は風流を愛する者、どこの宴席でどんな高貴な方と繋がりができるか分かりはしない。子柳どのはきっと酔仙楼で素晴らしい出会いがあったのだろう。だからここは目をつぶってやってはもらえないだろうか。もし身を持ち崩すようなことがあれば、この僕がきっちり諫めるから」

 この青年、姓を周、名を翻、字を翔鷹と申す四川出身の書生で、人付き合いのいい気さくな性格なのですが、軽薄なのが玉に瑕。田舎から出たばかりの子柳に遊びを指南したのも、この翔鷹なのでした。

 渡りに船と思った子柳、主人に頭を下げると急いで宿を出ようとします。黙って見送るしかない主人を尻目に、駆け出そうとしたその袖を、翔鷹ががっしりとつかみました。

「おっと、少し待ちたまえよ。せっかく援軍を出してあげたんだ、そのままってのはあまりにつれないだろう? 君、最近はめっきり付き合いが悪くなったじゃないか。長安に来たばかりの頃は、毎日のように僕の後ろをついて回っていたのに。酔仙楼で誰が待っているのか、そんな野暮な詮索はしない。僕だって、秘密にしたい繋がりはたくさんあるわけだしね。だからさ、君がもしさっきのことを恩に感じるなら、今夜くらいは僕に付き合っておくれよ。君にぴったりな、楽しい店を紹介したくてね」

 翔鷹はそう言うと、片目をつむって見せました。

 こう持ちかけられては、子柳も黙って振り払うことはできません。渋々の態ながら、翔鷹の言うままについて行くことに決めたのです。早く切り上げて、それから酔仙楼へ登ろうと思いなおしたのでした。そうすれば三人との約束に背くこともありません。

 翔鷹は扇で肩を叩きながら、慣れた様子で繁華街の雑踏をすいすいと縫うように進んでいきます。子柳がはぐれないように必死の思いでついて行くと、やがて真っ赤な燭に照らされた店舗がずらりと並ぶ通りにぶつかりました。そのうちの一件を選んだ翔鷹は、子柳の手をつかむやグイグイと引っ張って入り口に向かいます。

 掲げられた大きな額には、「瑶台月下楼」と書かれてありました。

「どうだい、この風流な名前。ぐっとくるだろう? この店にはね、この世のものとは思えないような仙女たちがわんさかいるんだ。なあに、緊張しなくてもいい。遊び方は僕が指南するし、君がこの道の初心者だってことも理解しているから、ぴったりな子を選んであげるよ」
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