酔仙楼詩話

吉野川泥舟

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第十話

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 慣れた手つきで扉をくぐる翔鷹に手を牽かれ、子柳は促されるまま楼内に入りました。

 中は目がくらむくらいに真っ赤で、至るところに桃色の燭台が揺らめいています。やがて胸元がぱっくりと開いた衣裳に身を包んだ女性が二人、子柳と翔鷹の前にかしずきました。

 上から見下ろす子柳の目には、彼女たちの谷間がくっきりと映っています。子柳はくらくらと目眩を覚えました。彼にとって、うら若い女性の柔肌を目の当たりにしたのはこれが始めてだったのです。

 燈火の中で妖しく揺れる白い肌、つやを帯びた黒い髪。

 赤色、桃色、白に黒。今にも色彩の洪水に飲み込まれてしまいそうです。

 鼻を優しく撫でる白粉の香り。頭の奥まで蕩けそうに感じました。

 思わず生唾をゴクリとやってしまいます。

 そんな子柳の耳に、玉を手のひらで転がすかのような声が聞こえました。

「これは翔鷹さま。いつもご贔屓にありがとうございます。昨晩も玉鳳を可愛がって下さったばかりなのに、こうして来て頂けるとは、玉鳳はほんとうに果報者です。あの子も今や遅しと首を長くして、翔鷹さまのご光臨をお待ちしているに違いありません」

 甘く絡みつくかのような、澄んだ声音。それは翔鷹に向けられたものでした。

「はは、可愛いヤツよ。今夜も存分に楽しみたいのだが、実はな、初心者を連れてきた。ちょうどいい感じの、気立ての良くできた子を見繕ってやってくれないか」

「それはありがとうございます。今空いておりますのは三名ですが、どの子がよろしいか選んで頂ければ。玉鸞、連れてきておくれ」

 横に控えていた娘がすっと立ち上がります。わずかに揺れた空気が、仄かな芳香を子柳の鼻腔に届けました。ついぼんやりとその後ろ姿を見送ってしまいます。

 その娘はしずしずと奥へ引き取ると、間もなく三人の女性を連れて帰ってきました。そして翔鷹と子柳の前に再び跪きます。見下ろす子柳の眼には、燭に照らされた三人の白いうなじが艶やかな光を帯びて映っていました。

「この三名になります。左から蓮の花、蓮の実、そして蓮の葉でございます」

「そうだな。なにせ子柳どのは未経験なんだ。やはりここは百戦錬磨の蓮の花がいいだろう」

「さすがは将軍どの。そのご慧眼、誠に感服仕りました。何のためらいもなく一騎当千、万夫不当の花を選ばれるとは、まさに『兵は神速を尊ぶ』の言葉通り。これにて天下太平にございます」

 くつくつ、と忍び笑いがこぼれます。

 子柳は早鐘を打つ心臓を持て余しながら、おどけた調子のやりとりを聞いていましたが、一番右に控えた女性から目を離すことができませんでした。

 ほっそりとした体つき、控えめに差された頬紅、小さな唇。何より恥ずかしそうに俯くその仕草が、子柳の心をがっちりとつかんでいたのです。

「うん? どうしたんだい子柳どの。ああ、その子は蓮の葉で、まだ新人なんだ。客を取ったこともない。だから」

 子柳は翔鷹の言葉などまるで耳に入らないかのよう。蓮の葉と呼ばれた女性から目を逸らすことができません。

 蓮の葉は頬にぱっと紅葉を散らすと、もじもじしながら顔を背けました。うなじから鎖骨にかけて、ほんのりと桃色に染まっています。

「なるほど、子柳どのはそういう趣味か。はは、ならいいじゃないか。よし、その子とうんと楽しむといい。気にするな、今夜の花代は僕が出しておくから、気兼ねなくね」

 そうして二人はめいめい別室へ移りました。

 子柳が誘われた部屋はこぢんまりとしたものでした。ここでも薄桃色の燈火が控えめに揺らめいています。子柳の目に映る蓮の葉のうなじは真っ赤に染まっておりましたが、赤い燭台の照り返しなのか、それとも彼女自身の血潮なのか、子柳には判断が付きません。

 蓮の葉は寝台に座るよう子柳を促すと、黙ったままくるりと背中を向けました。子柳は思わず目を背けてしまいます。彼女の上衣は肩甲骨の辺りまで剥き出しになっていました。あまりの眩しさに、子柳はまるで正視することができなかったのです。

 子柳の耳に、かすかな衣擦れの音が響いてきました。そして、ぱさり、ぱさり、と乾いた音が床の方から聞こえます。子柳は心臓が口から飛び出るかと思いました。

 頑なに目を閉じる子柳の隣が微かに軋んだ音を立てました。子柳は自分のすぐそばに人の体温を感じました。柔らかなぬくもりが波打つようにして、少しずつ自分の肌を覆い、そして心の中までしみ込んでくるように感じていたのです。その抗いがたい誘惑に、魅力に、子柳の心の防波堤は今にも決壊しそうになっておりました。

 子柳は緊張のあまり、手足がガクガクと震え出しました。しかし同時に、書物で読んだ「雲雨の交わり」を想像してもいたのです。やがて子柳の震えを抑えるかのようにして、小さな手のひらが優しく、彼の手の甲に添えられたのです。

 子柳は思わず閉じていた目を開きました。添えられた彼女の手も、微かに震えていたのです。子柳の瞳に、燈火に濡れる蓮の葉のぎこちない笑顔が飛び込んできました。彼女の双眸はまるで夜空のようにきらめいて、手を伸ばしてもまるで届きそうにありませんでした。
 
 そして二人は無言のまま、そっと互いの目を閉じたのです。

 詩に曰く、
 春の鳥は微かに鳴いて 柳の枝でかくれんぼ
 心まで蕩けたあなたは あたしの家で一休み
 燈火は赤々と揺らめいて 重なる影を映し出し
 二筋の煙は絡まり合って 遙か天まで駆け上る
 
 子柳は体の芯から蕩かされるような体験をし、明け方近くになってから、ふらつく足取りで翔鷹と一緒に宿へ帰ったのですが、この話はここまでと致します。

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