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第65話 仮面舞踏会と、計算高い「商人の姫」
しおりを挟むその夜、ヴェネル共和国の総督府(ドゥカーレ宮殿)は、光の洪水に包まれていた。
建国記念式典のメインイベント、仮面舞踏会だ。
招待客は全員、顔の一部を隠す「マスケラ(仮面)」をつけることが義務付けられている。
これは「商談の場において、身分や年齢による偏見をなくす」という、この国独自の流儀だそうだ。
「……似合いますな、若様」
控え室で、セバスが俺の襟元を直した。
俺がつけているのは、漆黒のドミノマスク。
燕尾服も、ヴェネルの流行を取り入れたスリムなデザインだ。
「仮面をつけていても、中身が子供なのは変わらないさ。……だが、今夜は『ただの子供』でいるつもりはない」
俺は鏡(先日作った試作品だ)に映る自分に、不敵に微笑みかけた。
***
大広間に足を踏み入れると、そこは別世界だった。
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射し、色とりどりのドレスと仮面が舞っている。
生演奏のワルツが響く中、貴族や豪商たちが優雅に踊り、耳元で密談を交わしている。
「ようこそ、我が盟友(パートナー)」
人混みを割って現れたのは、鷲(ワシ)の仮面をつけたシルヴィオ議員だ。
彼は上機嫌で、俺の肩を抱いた。
「紹介しよう。あそこに座っておられるのが、我が国の最高指導者……ロレンツォ総督だ」
広場の奥、一段高い玉座のような椅子に、一人の老人が座っていた。
黄金の獅子の仮面。
杖をつき、一見するとただの老人だが、その隙間から覗く瞳は、深海の捕食者のように鋭い。
俺はシルヴィオに連れられ、御前へと進んだ。
「お初にお目にかかります、総督閣下。エルガレア商会、リックです」
俺が優雅に一礼すると、ロレンツォ総督は仮面の奥で目を細めた。
「……噂の麒麟児か。シルヴィオを手玉に取り、ガラス島に風穴を開けたと聞いたぞ」
「過分なお言葉です。私はただ、互いの利益になる提案をしたまでです」
「フン。貴族にしておくには惜しい商才だ」
ロレンツォは杖で床を突いた。
「だが、商いとは計算だけではない。……『遊び心』と『駆け引き』も必要だ。カテリーナ!」
総督が呼ぶと、彼の背後から一人の少女が進み出た。
年齢は俺と同じ、13歳くらいか。
燃えるような赤髪をハーフアップにし、猫を模した可愛らしくも小悪魔的な仮面をつけている。
ドレスは深紅。まるで動く宝石のような少女だ。
「孫娘のカテリーナだ。……リック殿、一曲相手をしてやってくれんか?」
これは、ただのダンスの誘いではない。
ヴェネルのトップからの「値踏み」だ。
「……喜んで、麗しきお嬢さん」
俺は恭しく手を差し出した。
カテリーナは、仮面の奥で冷ややかに俺を見つめ、そっと手を乗せた。
「お手並み拝見ね、北の『神童』様」
***
ワルツの調べと共に、俺たちは踊り出した。
カテリーナのステップは完璧だ。軽やかで、かつ主導権を握ろうとする強さがある。
「単刀直入に聞くわ」
ターンをした瞬間、カテリーナが囁いた。
甘い声ではない。氷のように冷静な声だ。
「あなたの国の『砂糖』の生産原価(コスト)はいくら?」
「……いきなりだな。ダンスの話題にしては無粋じゃないか?」
「無駄話は嫌いなの。答えて。市場価格の半値? それとも3分の1?」
彼女は俺の足を踏まないギリギリのラインで、鋭く詰め寄ってくる。
「……3分の1以下だ」
「嘘よ。輸送費と人件費を考えればありえない。……まさか、奴隷を使ってるの?」
「まさか。我が領地はホワイト企業だ。秘密は『技術革新』だよ」
俺がステップを踏み返すと、カテリーナは「ふうん」と鼻を鳴らした。
「じゃあ、次の質問。ヴェネル通貨(ダカット)とエルガレア手形の交換レート、来月はどう動くと予想する?」
「円高……じゃなくて、ダカット安になるだろうね。君の国が東方との香辛料貿易で失敗した噂、聞いているよ」
カテリーナの足がピタリと止まりかけた。
仮面の奥の瞳が大きく見開かれる。
「……なんでそれを? まだ公表されていない極秘情報よ」
「商売の基本さ。風の匂いと、港の荷動きを見れば分かる」
嘘だ。
実は入港した際、東方の船が予定より少ないことに気づき、セバスに港の酒場で情報を集めさせておいたのだ。
曲が終わる頃、カテリーナの態度は一変していた。
冷ややかな視線は消え、代わりに獲物を見つけた狩人のような、熱っぽい瞳が俺に向けられていた。
「……合格よ」
最後のポーズを決めながら、彼女は俺の耳元で囁いた。
「お爺様(総督)は貴族がお嫌いだけど、あなたは特別みたい。……ねえ、あとで私の部屋に来て」
「……はい?」
「変な意味じゃないわよ! 『数式』の勝負をしたいの! あなた、連立方程式は解ける?」
俺は苦笑した。
どうやらこの国の「姫」は、ドレスや宝石よりも、数字と商売が大好きな「商人の申し子」らしい。
こうして、俺はヴェネルでの強力な(そして少々面倒な)コネクションを手に入れた。
だが、この華やかな夜の裏で、エルガレアを狙う黒い影が動き出していたことを、俺はまだ知らなかった。
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