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六、森可成【神業名:鶴丸紋】

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 森家の家紋、鶴丸紋。
「鶴は千年、亀は万年」ということわざにもある通り、鶴は長寿のシンボルとして扱われることが多い。
 森家では家紋の鶴に、長寿の他、二つの意味を込めていた。
 一つは美しさ。
 鶴は姿も鳴き声も、ため息が出るほど美しい。
 森家の武将は家紋に倣い、常に美しくあることを意識した。
 森可成は外見、所作の美しさはもちろん、武具の美しさにもこだわった。
「人間無骨」という銘入りの十文字槍。
 大釘の前立てがつけられた兜。
 可成は美しさを極めたその二つの武具で敵を圧倒した。
 もう一つは家門繁栄。
 可成は家族を何よりも優先して愛した。
 後に鬼武蔵と恐れられた猛将、森長可。
 信長に最も愛されたと言われる小姓、森蘭丸。
 共に可成の子である。
 森家は二代にわたり織田家を支え、家門繁栄を具現化していた。

 森可成は一五二三年に美濃で生まれた。
 当時の美濃は守護大名である土岐氏が治めていたが、油売り商人だった斎藤道三が権謀術数の限りを尽くし土岐氏を追放、美濃の国主になると、可成も斎藤家の武将として、斎藤道三の弟である長井道利に仕えた。
 長井道利の下で可成は父から受け継いだ十文字槍で武功を重ねた。
 一五四七年、可成二十四歳。
 織田信秀が斎藤家の稲葉山城に攻め込んだ。
 この時、信秀は元服したばかりの息子、織田信長を戦場に連れてきていた。
 信秀は城に着くなり城下町を焼き払った。
 可成は長井道利の足軽頭として稲葉山城の防御にあたっていたが、放火の知らせを聞くと、軍律を破り、隊列を抜け、城下町へ走った。
 城下町には可成の妻と一歳になったばかりの娘が住んでいた。
 自分の屋敷に着くと火の手こそ回っていなかったが、屋敷の中から娘の泣き声が聞こえてきた。
 妻と娘の名前を呼びながら屋敷の中に入ると、今まさに織田軍の兵士が娘を殺そうとしているところだった。
 妻は娘を殺させまいと抱きしめている。
 可成は十文字槍でその兵士の首をはねた。
 しかし、織田軍の兵士は続々と屋敷に突入してきた。
 娘の泣き声が呼び水になっているらしい。
 赤ん坊の泣き声の近くには大抵、女がいる。
 女に飢え、獣と化した兵士達が絶え間なく湧いてくる。
 可成は娘を抱きかかえると、妻の前に立ち、兵士達を薙ぎ払い続けた。
 が、可成の体力にも限界がある。
 十文字槍を振るう力も尽きかけ、敵の一刀に死を意識した時。
 可成の【神業:鶴丸紋】が覚醒した。
 シュッと風を切る音が聞こえ、敵兵の一人の首が宙に舞った。
 敵兵全員、宙に舞う首を目で追いながらも、何が起こったか理解できない。
 茫然と空中の首を眺めているうち、またシュッと風を切る音がし、違う敵兵の首が飛んだ。
 シュッと音がするたび、敵兵の首が飛ぶ。
 なぜ首が次々に飛ぶのかは全く理解できないが、このままここにいては死ぬ。
 敵兵達は本能的に危険を察し、可成の屋敷から逃げようとした。
 しかし、逃げ腰になった敵兵達の首も、風の音と共に宙に舞った。
 敵兵の首を斬っていたのは他の誰でもない可成だった。
 可成は自分でも信じられない速度で十文字槍をさばいていたのだ。
 風の音は十文字槍を振り下げる音だった。
 さきほどまで限界を感じていたはずの身体も疲れを一切感じていない。
 むしろ力が沸き上がってくるような感じだった。
 これが【神業】か。
 可成は森家に伝わる【神業】の存在を父親から聞いていた。
 可成の父親は【神業】を使えなかったため、そんな父親に【神業】の話を聞いても、胡散臭い話としか思えなかった。
 主君である長井道利や、その兄の斎藤道三からも【神業】の存在を聞かされ、ようやく【神業】の存在を認めるようになった。
 しかし、可成の周りには【神業】を使う人間はいなかった。
 かの斎藤道三も【神業】は使えないと言った。
 道三ですら使えない【神業】を自分は使えるようになったのか。
 父から聞いていた森家に伝わる【神業:鶴丸紋】。
 それは風のような速さと鶴のような華麗さで槍を扱うことができる。
 泣き止んだ娘を妻に預け、屋敷の外にいる織田軍も【神業】で蹴散らそうと外に出ると、織田軍は城下町から退却を始めているところだった。
 案外早い退却だな。
 狙いは焼き働きのみか。
 そう思いながら、可成は退却する織田軍を見ていたが、そこに違和感を感じた。
 本来、退却とは勝ち目が見えないからするものだ。
 また、退却するからには敵に背を見せることになる。
 つまり、命がかかっている。
 しんがりを命じられた軍が死軍と言われているのもそれゆえだ。
 しかし、目の前で退却する織田軍には撤退時の必死さがまるで見えなかった。
 むしろ、わざと歩みを遅くし背を突くことを誘っているように見える。
 これは罠だ。
 エサに釣られて深追いした先に伏兵が待っているのではないか。
 可成は山賊との闘いで似たような経験をしたことがあった。
 ネズミを追った先には虎が待っていて、手痛い目にあった。
 城からは斎藤道三自らが率いる本隊約五百と、その後ろから長井道利率いる約三百が追い打ちをかけようと織田軍の尻を追っていた。
 道三の本隊を止めることは難しいだろうが、主君、道利なら聞き入れてくれるかもしれない。
 可成は道利の前に躍り出ると道利隊の進軍を止めた。
「可成貴様! どこに行っていた!?」
 道利は可成の姿を見るなり馬上から怒号を上げる。
「申し訳ございません! それより、殿」
「それよりとはなんだ、貴様の行いは軍律違反だぞ」
「これは罠です!」
「なに、罠? なにが罠なのだ」
「このまま織田軍を追撃することが、です!」
「何を言う、織田軍は退却しているではないか」
「この退却こそが罠なのです!」
 道利は可成の能力を認めていたため、可成の言っていることがあながち嘘だとも思えなかった。
「ぐぐ、ではどうすればよい? 既に兄上の本隊は織田軍を追っているぞ」
「私に殿の隊から百人をいただけますか」
「百人?!」
 可成が足軽頭としてまかされている兵士数は五十人だ。
「殿! 一刻を争います!」
 可成は睨みつけるような目で道利に迫った。
 可成の迫力に飲み込まれた道利は
「ぐぐ、わかった、但し全滅した際は先ほどの違反も合わせて重罪ぞ!」
 と可成に百人の兵隊を預けた。
 可成は道利に頭を下げると、その百人の兵隊に
「長蛇の陣にて私についてこい!」
 と号令を放ち、可成自身が蛇の頭となり、道三本隊の後を追った。
 長蛇の陣とはその名の通り、蛇のように隊列を細長くすることだ。
 残された道利は、可成の姿を目で追うことしかできなかった。
 あそこまで言われて深追いはできない。
 可成隊が道三隊に追いつくと道三隊の中から「伏兵! 伏兵!」という声が聞こえた。
 やはり、待ち伏せされていた。
 伏兵の規模はわからないが、今回の目的は道三隊を無事城下町へ帰すこと。
 伏兵を全滅させる必要はない。
 伏兵の動きさえ止められればそれでよい。
 混乱をきたし始めている道三隊を迂回し、可成隊は電光石火のスピードで織田軍の伏兵部隊に横から噛みついた。
 横槍を突かれた伏兵部隊は混乱し、この隙に道三隊は城下町へほぼ無傷で引き上げることができた。
 可成隊も伏兵部隊の軍中を蛇のようにスルスルとすり抜け、百人の兵隊から一人も死者を出すことなく城下町へ帰参した。
 道三は城下町に戻った可成に感謝し、道利も可成の軍律違反を許さざるをえなかった。
 可成にとっては【神業】が覚醒し、道三にも認められた忘れがたい日となった。
 そして、もうひとつ、この日は可成の運命をも変えた日だった。
 伏兵部隊と可成隊の激突の一部始終を、織田家本隊から織田信長が見ていた。
 信長は父、信秀の罠を見破った森可成の存在をこの日初めて知り、一目ぼれ。
 七年に渡りアプローチを続け、一五五四年に自分の家臣として招きいれることに成功する。
 
 話は桶狭間の戦いに戻る。
 千秋季忠と熱田勢二百(その中に前田利家)に佐々政次をつけ、鳴海城へ奇襲攻撃を仕向けた後、信長は善照寺砦に集まった兵二千八百を二千と八百に分ける。
 そして二千の兵が持っていた旗、指物を全て八百の兵に渡すと、八百の兵を善照寺砦に残し、自分は旗、指物を外した二千の兵と共に中島砦へ移動すると全軍に発した。
 この発言に、林秀貞ら古くから織田家に仕える家老衆が猛反対した。
「殿! 今、中島砦に向かうことは自殺行為です!」
 中島砦は善照寺砦と丸根砦・鷲津砦を結ぶ砦で、丸根砦・鷲津砦が落とされてしまった今、中島砦に進むことは今川軍の手中に自ら潜り込むようなものであり、背後の鳴海城から兵を出されれば挟み撃ちに合う。
 しかも、善照寺砦から中島砦への移動は丸根砦・鷲津砦から一望でき、アリ地獄に落ちていくようなものだった。
 しかし、信長は家老衆を無視し、二千の兵を率いて中島砦へ出立した。
 林秀貞ら家老衆は、殿についていっては命がいくらあっても足りん、と、八百の兵と共に善照寺砦に残る。
信長が中島砦に強行した理由。
 それは丸根砦・鷲津砦に攻められることはないという確固とした理由があったからだ。
 中島砦と丸根砦・鷲津砦の間には、降り続いた長雨で広大な沼ができていた。
 信長はこの沼の存在を佐々成政の【神業】で確認していた。

「恒興! なんで八百もの兵を善照寺に残したんだ?」
 中島砦に向かう途中、森可成が池田恒興に問いかけると
「さあ、なぜでしょう?」
 と笑った。
「おまえがわからなけりゃ、誰もわからねえな!」
 可成も笑う。
 
 五月十九日、正午ごろ、信長軍、中島砦へ到着。
「殿、丸根砦も鷲津砦も手を出してきませんでしたね」
 恒興の言葉に信長は鼻を鳴らして「当然だ」と返す。
「殿! 善照寺砦より早馬です!」
 森可成が伝令兵を連れてくる。
 伝令兵は信長の前にひざまずく。
「申せ」
「はっ、鳴海城を攻めた佐々政次様、千秋季忠様、熱田勢二百、全滅との由」
 信長はその伝令を聞き、一時言葉を失った。
「そうか」
 その伝令を可成の後ろから佐々成政も聞いていた。
 成政もまた、言葉を失っていた。
 兄上が死んだ。
 信長の無謀な命令で。
「ご苦労」
 信長は伝令兵にそう声をかけると、伝令兵は頭を下げ、場を去った。
 佐々政次と千秋季忠、そして前田利家を失ったのは大きいが、その分、この戦いに勝てる確率が高まった。
「成政」
「は」
 成政は内心を悟られないように返事をする。
「兄を死なせ、おまえには申し訳ないことをした」
「いえ」
 成政にとって決して許されることではなかったが表情にも言葉にも出せない。
「しかし兄の死は、決して無駄にはしない」
 成政は言葉が出ない。
 どう無駄にしないというのだろう。
「義元を探せるか」
 信長の指令も聞こえなかった。
「成政!」
 信長の恫喝に我に返る。
「は」
「俺の読みが正しければ、今川軍は進路を鳴海城に変えているはずだ」
「は」
 兄の死を悼む暇もあたえてくれない。
 所詮、自分は信長の駒なのだ。
 その駒もいつ捨てられるかわからない。
 しかし、今はまだ捨てられるわけにはいかない。
 織田信長に復讐するまでは。
 【佐々家神業、目結紋】
 成政は【神業】を使い、上空から今川義元の姿を探した。
「いました」
 義元本隊の軍勢はすぐに見つかった。
 大高城へ向かう大高道と、鳴海城へ向かう東海道の中間あたりにいた。
 信長の言う通り、進路を変えたのだろう。
 さすがの推察力だ。
 それだけの推察力を持っていながらなぜ、兄、政次の死を読めなかった。
「どこだ」
「桶狭間山です」
「桶狭間」
 桶狭間山、桶狭間の南にある小高い丘。
 信長はしめたといような笑みを浮かべる。
「成政、ご苦労」
 信長の言葉に成政は【目結紋】を閉じると、何もかもがどうでもよくなり、可成に身体を預けた。

「簗田」
「は」
 音もなく、足軽風の格好をした男が現れた。
 清州城、善照寺砦に続き、三度目の登場。
 簗田という名前、どこかで……
 とずっと気になっていた池田恒興だが、ようやく思い出した。
 簗田の素性を。
 簗田正綱。
 沓掛一帯を束ねている土豪で配下には草の者もいると聞く。
 いつの間に殿はこのような輩を配下としたのか、いや、このあたり一帯にも足繁く通っていた殿ならその際に出会っていても不思議ではない。
「今川に感づかれるなよ」
 信長は一言、簗田にそう言うと、簗田は姿を消した。
「恒興」
「はっ」
「【揚羽紋】だ」
「はっ」
 恒興は目を閉じ、手を合わせ、神経を集中させる。
 【池田家神業、揚羽紋】
 神業を使用する際、自分の神業名を唱える必要はない。
 しかし、自分の神業名を唱えることで、神業の力が上がる可能性があることが過去の歴史書から明らかになっていた。
 徐々に、恒興の息遣いが荒くなり、同時に大量の汗が恒興の顔面からあふれ出てくる。
 それでも恒興は神経の集中を止めない。
 やがて、西の空から入道雲のカタチをした黒い塊が雷鳴を轟かせながら近づいてきた。

「可成」
 信長は可成を呼ぶ。
「はっ!」
 可成は信長の前にひざまずく。
「俺についてこい」
 信長はそう言うと、乗馬し、二千の兵が見渡せる高台へと登った。
 可成は成政を近くの者に預けると、同じく乗馬し、信長の後を追った。
 高台の上から、信長は二千の兵達に向かって声を上げた。
「皆のもの、聞けい!」
 信長のよく通る高い声に、兵達は信長の方を一斉に見上げる。 
「我々織田軍はこれより今川義元本隊を討つ!」
 突然の信長の声に兵たちはざわめく。
 空を黒雲が覆い、ポツリ、ポツリとあたりに雨粒が落ち始める。
「案ずるな皆のもの! 今川義元討伐は能うる! 理由は三つ!」
 二千の兵は信長の声を聞こうと静まり返った。
「一つ、敵は桶狭間山にて酒と共に休憩中!」
 おお! と歓声があがる。
「一つ、豪雨と共に近づくため敵は気づかない!」
 おお! とさらに歓声。
 雨脚は次第に強まっていく。
「一つ、我々二千は一人一人が今川軍より圧倒的に強い!」
 ぐおお! という悲鳴にも近い歓声があがった。
 同時に何本かの雷が落ちる。
「いざ! 桶狭間!」
 信長はそう放つと自らが先頭となり高台を駆け降りた。
 そのすぐ後ろを可成と二千の兵が続く。
 豪雨と雷をまき散らす黒雲を引き連れ、織田軍は桶狭間に突撃した。
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