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第二章

少年と虎

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「……今の声は、なんだ?」
「今のは……猫科の大型獣が求愛の時に出す鳴き声だと思うわ」
「……バカ虎」

 アレックス自身は自らの発した音の正体を知らなかったが、残念なことにミゼルは知っていた。
 三人の微妙な視線がアレックスに集まるが、当の本人はそれに気づいた様子もなく、ふらふらとした足取りでリディア達のもとに向かって歩いてくる。

 …………いや、少年に向かっていると言ったほうが正しいだろう。

 リディアは表情を引き締めると、肩ごしにチラッと振り返り、背後に庇っていた少年を見た。
 少年と仲間を引き合わせる際に、リディアがもっとも不安を抱いていたのがアレックスだったのだ。

 アレックスが少年に危害を加えるかもしれない、などと思っているわけではない。
 気性の荒いアレックスだが、理不尽な暴力を振るったことなど一度もなかった。

 激しい怒りを内に秘めながらも必死にそれと戦い続け、抑えきれなくなりそうになれば黙って仲間との距離を置く。
 アレックスとはそういう女なのだ。

 だから、心配なのはむしろ少年の反応だった。

 獣人族は基本的に、人間の支配する地域では差別の対象となっている種族だ。
 獣人に対して一切の人権を持たせず、奴隷として扱う国も少なくはない。

 少年が獣人を見下すような人間ではないと信じているが、人とは育った環境で常識を学ぶものだ。
 もし少年が、当たり前のように獣人が奴隷として扱われるのを見て育っていたら、アレックスのことをひとりの人間として…………として見ることができない可能性がある。

 ましてやアレックスは先祖返りだ。
 ときには魔物と間違われるくらいに、異質な外見を持っているのである。

 恐怖、忌避、嫌悪…………天使のような少年からそんな感情を向けられたら、アレックスはかつてないほど深く傷つくことになるだろう。

 そして、今度こそ耐えられなくなってしまうかもしれない。

 リディアはほんの一瞬の間にそれだけのことを考えると、ミゼルとルナに目配せをした。
 視線を送られた二人も、リディアの意を察して無言で頷く。

 もし感情を爆発させたアレックスが本気で暴れ出したら、三人がかりでも余裕を持って抑えることは難しい。
 リディアたちも全力で────それこそ殺すつもりでかからなければ、アレックスを止めることはできないだろう。

 剣の柄を強く握り締め、感情を押し殺すように細く息を吐き出すと、リディアはアレックスと少年の間を隔てていた自らの体を横にずらした。

 全ては、少年にかかっていた。




 ◇


 リディアが横にずれた瞬間、アレックスの目に小さくて可愛い生き物の姿が飛び込んできた。

 黒く縮れた髪、クリクリとした小さな目、短い手足、ぷにっとした顔と胴体…………全てが奇跡的なまでに可愛らしい。

「…………くるるるるっ」

 また、喉の奥が勝手に妙な音を出した。

 なぜこんな音が出るのか、アレックスには分からない。
 だが、この音が喉の奥から響くたび、肌にゾワゾワとした痺れのようなものが走り、アレックスの体に生えている獣の毛が逆立った。

 そして同時に、悲しいような、切ないような、今まで感じたことのない気持ちが押し寄せてくる。

 胸を締め付けるその気持ちの名前も、アレックスには分からなかった。

「○×#&?」

 戸惑うアレックスに、少年が声をかけてきた。
 
 その声に含まれているのは、恐れでも、蔑みでも、嫌悪でもない。

 アレックスに対する気遣いだ。

 なぜ、と不思議に思うアレックスの頬を、温かい何かが伝っていく。

 手で触れてみると、指が濡れた。

 涙だ。

 生まれてから一度も泣いたことなどないアレックスの目から、止めどなく涙が溢れていた。

「□&△%#?」

 少年が近づいてきて、アレックスのもう片方の手に触れた。
 
 温かかった。
 
 温かくて、柔らかくて、小さな手だった。

 握り締めたら壊れてしまいそうで、アレックスはどうしたらいいのか分からなくなった。
 握り返すこともできず、かといって振り払うこともできずに固まるアレックスの手を、少年がきゅっと握ってくる。
 
 また切なさがこみ上げてきて、アレックスは耐え切れずに膝をついた。
 
 胸が痛くて、苦しくて、声を出すこともできなかった。

 アレックスの手を握っていた少年の手が離れても、うな垂れて涙をこぼすことしかできなかった。
 
 そんな情けない姿を晒したアレックスのことを────────















 ────────少年は、優しく抱きしめてくれた。















 心地よい匂いが、アレックスを包みこんだ。 

 家に入った瞬間にアレックスを陶然とさせた、あの匂いだ。

 アレックスは目をつぶり、すんすんと鼻を鳴らして少年の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

「…………みぃ」

 そして気づけば、甘えた声を出していた。

 ざわつく気配を背後から三つほど感じるが、そんなものはまるで気にならない。

「みぃ♡ みぃ♡ みぃ♡」

 子猫が甘えるように、アレックスは少年の体にぐりぐりと頭を擦りつけた。
 
 体の大きな獣人にそんなことをされれば、普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出してもおかしくはない。

 だが少年は、そんなアレックスの行動を受け止めてくれたばかりか、汗や砂や埃で汚れた髪を優しくかき分けると、獣の耳が生えている頭をゆっくりと撫でてくれた。

 撫でられた部分から生まれた幸せが、体中を駆け巡る。

 檻の中から始まるアレックスの記憶の中に、彼女の頭を撫でてくれた存在など一人もいなかった。
 甘えさせてくれる人も、甘やかしてくれる人もいなかった。

 アレックスの人生には、父親がいなかったのだ。

 …………だからアレックスは、自分よりもずっと小さい少年の中に父親を感じた。

 幼い我が子を川に流すような、情の薄い実の父親とは違う。
 温かくて、柔らかくて、どこまでも優しい、理想の父親だ。

「みぃ♡ みぃ♡ みぃ♡ みぃ♡」

(お父さん♡ お父さん♡ お父さん♡ お父さん♡…………)

 もっと撫でてほしい。

 もっと抱きしめてほしい。

 そんな願いを込めながら、アレックスは少年に甘え続けた。

 少年はそれに応え、黙ってアレックスの頭を撫で続けてくれた。

 アレックスの心に、安らぎが広がっていく。
 
 長年の怒りでささくれ立った心が、少年の父性によって癒されていく。

「みぃ♡ みぃ♡ みぃ…………みぅ……………………みゅ……………………すぅ…………」

 少年の体に頭を預けたまま、アレックスは静かに眠りに落ちていった。

 その表情はどこまでも穏やかで、まるで父の胸に抱かれた幼い少女のように、心から安心しきっているように見えた

 
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