どこまでも醜い私は、ある日黒髪の少年を手に入れた

布施鉱平

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終章

無風

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 いくつもの影が、木々の間を駆け抜ける。

 それも地上ではなく樹の上を、枝から枝へ飛び移りながらだ。

 体重を感じさせない身軽さで枝をしならせ、木の葉を舞い散らせながら影が飛ぶ。

 彼女たちは闇に潜み、闇に生きる者。


 その名も────『ヌンジャ』。


 言葉の意味はよく分からぬが、初代国王ファナカがそう命名した以上それは絶対である。

 ともかく、主を守ることを役割とする黒騎士たちと違い、ヌンジャは諜報と暗殺に特化した存在だ。

 事実、これまで誰に知られることもなく、ヌンジャはアイーシャの敵を追い詰め、静かに、そして確実に、その命を奪ってきた。

 ────だがそれが、今は逆転している。

「────────っ!」

 また一つ、叫び声が聞こえた。

 これで七人目だ。

 森に潜み、機を見てはぐれ者たちマーヴェリックスを奇襲する予定だったヌンジャ部隊は、突然の襲撃により散開し、逃走せざるを得ない状況にあった。

 相手が何者かは分からない。

 なぜなら、その姿も、気配も、音も匂いも、何一つ感じ取ることが出来なかったからだ。

 ……いや、誰であるのか、予想はついている。

 はぐれ者たちマーヴェリックスの射手、『無風かぜなし』と呼ばれるエルフ。

 弓を手に持てば百発百中、さらに卓越した追跡技能と隠形術から、標的とされたものは撃たれてなお、その存在を認識できないとすら言われている、恐るべき狩人。

 その噂は、紛れもない事実であったのだ。

「──────っ!!」

 仲間の叫びがまた、森のどこからか響いてくる。

 これで八人目。

 ヌンジャの一部隊を率いているヘルガは、久しく感じることのなかった恐怖に、冷たい汗を滲ませた。

 相手を認識することすら出来ずに追い詰められている、というのもあるが、一番の要因は仲間の叫び声だろう。

 ヌンジャは通常、例え拷問を受けたところで、叫び声ひとつ漏らすことはない。
 そういう訓練を受けている。

 そのヌンジャが、遠く離れていても聞こえるような悲鳴を上げているのだ。

 尋常のことではない。

 一体なにをされれば、優秀な仲間たちがあのような声で叫ぶのか。

 同じ訓練を受け、また自らも拷問に精通しているヘルガにすら、全く想像が出来なかった。

「────っ!!!」

 九人目。

 だんだん、声が近くなっている。

 そして、率いている部隊の中で残っているのはすでに、ヘルガ一人となっていた。

 ヘルガは意を決し、樹上から飛び降りると、そのまま木を背にして剣を構えた。

 自分が狩人に追われる獲物でしかないと、正しく理解したからだ。

 このまま逃げ続けても、仲間たちと同じ末路を辿るだけ。
 それならばいっそ、迎え撃った方がまだ勝機はあると判断したのだ。

 木を背にしているため、背後を気にする必要は無い。

 感覚を研ぎ澄ませ、前方と上下左右に注意を向けながら、その時を待つ。

 動きはない。

 見えるのは植物と大地と日の光。

 音はない。

 聞こえるのは鳥の声、虫の、木の葉のざわめき。

 匂いはない。

 感じるのはただ、森の匂いだけ。


 ……だがその痛みは、なんの前触れもなく、なんの予兆もなく、唐突にヘルガの身体を貫いた。


「アッ──────!」

 魂切るような悲鳴を上げ、ヘルガはその場に膝を付くと、倒れ込みそうになる身体を両手で支えた。

 何が起きたのか、全く理解できなかった。

 攻撃を受ける直前まで、確かになにも感じなかったのだ。


「……風なくば、音なく、匂いなし」


 頭の上から声が聞こえ、視線を上げれば、そこには一人の少女が立っていた。

 感情を思わせぬ姿でこちらを見下ろすその少女こそ、はぐれ者たちマーヴェリックスの狩人、エルフのルナ。

(……そうか、これほどまでに)

 まさに、格の違いを見せつけられた思いだった。

 自分たちがヌンジャと名乗るのを憚られるほど、目の前の存在は完成されていた。

 おそらく、初代国王が思い描く『ヌンジャ』という存在は、彼女のような者の事を言うのだろう。

「……無念」

 一矢報いることすら出来ず、ヘルガは頭から地面に突っ伏した。

 まるで土下座をするような体勢で意識を失った彼女の尻には、子供の腕ほどもある木の枝が、深々と突き刺さっていたのだった。







 ────自分の中にこんな激情が存在しているとは、ルナは思ってもいなかった。

 かつて好奇心から故郷の森を離れ、人間にしては長い時間を、ルナは外の世界で過ごした。

 そしてその中で、悪意や嫌悪の視線に晒され続け、次第に感情を失っていった。

 怒るのではなく、悲しむのではなく、ただ、諦めた。

 ルナの世界は色を失い、植物が枯れるように、小さくしぼんでいった。

 ……その世界に新しい芽が芽吹いたのは、少年と出会い、彼に抱かれた時だった。
 
 凪いでいた心に、風が吹いた。

 暖かな太陽の光が降り注ぎ、清らかな水が滾々こんこんと湧き出した。

 それは幸福であり、希望であった。

 世界は様々な色で満たされ、ルナはその感情が愛だという事を知った。



 その愛が、奪われた。



 少年を失った瞬間、ルナが感じたのは全てを凍り付かせるような絶望だった。

 心は冷え切り、身体はかじかみ、息をするのさえ辛いほどだった。

 だが、その凍り付いた心の底には、これまでに抱いてきたどのような感情とも違う、煮え滾るような熱い物が生まれていた。


 怒りだ。


 冷たい心の底で燃え続けた怒りの炎は、リディアに命じられた役目・・を終え、遅れて到着した森の中で、木々に紛れるようにリディアたちを狙う敵の姿を発見した瞬間、爆発した。

 
 ────ヌンジャ、許すまじ。


 ルナは一切の音を立てず、木の葉さえも揺らさずに黒装束の女たちの背後に降り立つと、近くに落ちていた木の枝を拾い、容赦なく一人のヌンジャの尻にぶっ刺した。

「アバーーーーッ!?」

 括約筋を引き裂かれる激痛に、ヌンジャが奇声を上げる。

 だが、他のヌンジャたちが振り向いたとき、すでにそこにルナの姿はない。

 風のごとく別のヌンジャの背後に移動していたルナは、もう一度同じ事を繰り返した。

「アナヤッ!?」

 今のルナに慈悲はなく、容赦もなかった。

 散開して逃げるヌンジャを、一人、また一人と仕留めていく。

 射手として世に知られるルナであるが、それは天才である彼女の一つの側面に過ぎない。
 
 ルナの本質は、気配の断絶と卓越した観察眼にあった。

 野生の動物ですら感知できないほど己の気配を周囲に溶け込ませ、獲物の動きと環境を同時に観察し、未来視にも等しい精度で一瞬先を予測する。

 故に、ルナの攻撃は百発百中なのだ。

 それが遠距離であるか、近距離であるかなど関係ない。

 ルナに狙われた獲物は、全て等しく、彼女に狩られる定めにあるのだ。


「アッ──────!」


 十人目のヌンジャに引導を渡し(死んでない)、小さく息を吐いたルナは、木々の切れ間から覗くわずかな空を見上げた。

 まだ、炎は消えていない。

 全ての敵を倒し、愛する少年を取り戻すまで、ルナの怒りが静まることはないだろう。

 視線を戻したルナは、残りのヌンジャを討伐すべく、移動を開始した。

(……もっと、太い枝でもいいかも)

 そんな、恐ろしいことを考えながら。
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