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第二章

カレー・ライスと聖節市場

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 アデレーンからリーデンまでは丸二日。その後、見かけるたびにハーケン書記官が睨んでくることには、内心閉口したけれど、口を利く機会もなく、時間は平穏に過ぎていく。殿下も、一度抱けばひとまず気は済んだのか、翌日は無体なことも要求せず、添い寝だけで満足しているようだ。

 翌日の昼食は、ランデル風カレー・アンド・ライス。辛い物が苦手な人のために、オムレツも用意されていたけれど、わたしも殿下もカレーを選択した。

「子供のころ、カレーは苦手じゃなかったか?」
「昔は。だって、カッスルの料理長のカレーは、本当に辛かったんですもの。彼、セロンガ帰りだったんですの。本場の味はもっと辛いって。お父様が、彼の辛いカレーがお気に入りで」
「ああ、確かに。初めて食べた時はびっくりした。懐かしい。その料理長がまだいるなら、また食べたいな」

 カレーは東洋の植民地、セロンガの料理を、ランデル風にアレンジしたものだ。軍の食堂では定番のランチで、辛味を抑えてマイルドに味付けされたものは、異国風な情緒もあるし、何より昼食にはちょうどいい手軽さで人気だった。

 ターメリックで黄色く染まったライスを、カレーソースと混ぜながらスプーンで掬っていると、例の、真珠養殖の東洋人、コーキチが食堂車に入ってきた。……昼食時、食堂車は混んでいて、空席はない。東洋人で小柄な彼は、給仕に軽んじられているのか、なかなか案内してもらえない。と、殿下が振り向いて、コーキチに手を挙げた。

「コーキチじゃないか。今から昼飯か? ……よかったら、ここに座れ」
「……え、よろしいのですか?」

 コーキチは遠慮したが、殿下は給仕に命じてコーキチの席を自分の隣に準備させる。

「今日はライスですか!」

 コーキチの黒い瞳が輝く。

「私の国では、主食はパンではなく、ライスなんです。こちらの食事は美味しいですが、どうしてもライスが食べたくて……」

 ライスは東洋でよく食べる食材とは聞いていたけれど、コーキチの国でもライスが主食と聞き、ちょっと興味を惹かれた。

「あなたの国でも、こんな風に召し上がるの?」

 わたしが問いかければ、コーキチはソースのかかっていない、白いままのライスをわざと掬って見せる。

「私たちはこの白米ライスだけで食べるのが普通です。……これは長粒米セロンガ種ですね。私たちの国でよく食べるのは、短粒米ヤパーネ種です。もっと粘り気があって、スプーンではなく、二本の棒で食べます」
「二本の棒? なんだそりゃ」
「我々はその二本の棒で、何でも摘んで食べますね。肉はあまり食べません。私は海に近い場所で育ったので、毎日、新鮮な生の魚を食べました」
「生の魚?」

 魚を生で食べるなんて、想像もつかない。

「美味いのか、それ?」

 殿下の声が心なしか震えている。

「新鮮な海の魚は、生が一番ですよ。魚の料理法はたぶん、わが国が世界一でしょう。ウナギなんて、こちらのゼリー寄せですか? 全くとんでもないですよ! 我が国ではあんな食べ方はしません! 開いて蒸してから焼いて、特製のソースを絡めるのです! それをこの白米ライスと食べる! 西の大陸の文明は素晴らしいですが、ウナギの食べ方だけは許せません!」

 ドン! と拳でテーブルを叩いて力説する様子は、普段の穏やかさが嘘のようだ。……ウナギのゼリー寄せがそんなに気に入らなかったのか。そもそもあれは労働者階級の食物で、嫌なら食べなければいいのに。

 そこからコーキチは、かの国の魚料理がいかに洗練されているのか、滔々と語り始め、わたしと殿下は気づけば食い入るように耳を傾けていた。

 さまざまな獲れたての、海の魚。コーキチに言わせれば、淡水魚は臭いが強くて断然、海水魚の方が美味しいらしい。貝に蟹、そして彼らの故郷の特産である、巨大なロブスター。真珠が採れるだけじゃなくて、そんな海の幸まで採れるなんて、神に祝福された土地に違いない。

 わたしがそう言えば、コーキチは誇らしげに頷いた。

「ええ、わたしの故郷には我が国で一番重要な神殿があります。太陽の女神を祀っていて、二十年に一度、すべての社殿を作り変えて、二千年以上伝えてきたのです」
「二十年に一度作り変えるだってぇ?」
「作り変えるというのは正確ではありませんでした。そっくり、二千年前のやり方で、新しく作るのです。神に相応しい、もっとも大きな柱にすべき巨木を、遠くの山から切り出して運びます」

 わたしと殿下は顔を見合わせる。

「リジー……わたし、生の魚は勇気がないけれど、巨大ロブスターは食べてみたい。あと、ゼリー寄せじゃないウナギも」
「歓迎しますよ! 我が国には温泉もたくさんあって……野外の風情を楽しみながらの岩風呂や、海に面した洞窟温泉なども……」

 温泉と言えばバールは古代から続く湯治場として有名だが、もちろん屋内だし、野外の岩風呂や海辺の洞窟温泉なんて、想像もできない。

「外国の方には、山の保養地が開かれて、西洋こちら風のホテルなどもあるようです。革命で殺されてしまった北の大国の皇帝が、皇太子時代に滞在されたはずです」

 生の魚にすっかり腰が引けていた殿下も、少し興味を持ったらしい。

「なるほど、生の魚ばかりでは耐えられまいと思ったが、西洋風のホテルや料理もあると言うならば……」

 コーキチはニコニコと頷き、言った。

「我が国にいらっしゃるなら、是非、声をおかけください。真珠養殖の現場をご案内しますよ!」


 ――いつか、東の国に殿下と行ってみたい。そんな未来の夢を、わたしが見てもいいのだろうか。






「わたくしたちはリーデンで乗り換えよ。お別れは残念だわ」
「また春になったら王都に戻るわ。南のバールに行くかもしれないけど」

 老姉妹に連絡先を聞かれ、迷ったけれど、王都の殿下のアパートメントの住所を知らせた。……春以降、わたしがそこに住んでいるかはわからないけれど、転送くらいはしてくれると思うから。

「あの……」

 交換した、二人の住所を握り締め、わたしは意を決して二人に伝えた。

「わたし、殿下のことが好きです。……この先、どうなろうとも、後悔だけはしないようにします。あの世で、祖母にはきっと叱られてしまうけれど」
 
 ミス・エミリー・アランは水色の瞳を見開くと、わたしを抱き締めて言った。

「ああ、素敵よ、エルシー。そうね、恋愛で後悔はすべきじゃないわ。愛しているなら特にね」

 ミセス・リーガルは姉よりも実際的な人物だった。

「全くその通りね。後悔はするんじゃなくて、させるのよ。万一、別れる時には慰謝料を山ほどふんだくっておやんなさい。腕のいい弁護士を紹介するわよ?」 

 列車は静かにリーデンの駅に着き、老姉妹は南に向かう列車に乗り換えるために、降りていった。





 リーデンはルーセン国内の駅としては最後の、そして最大の乗り換え駅で、乗員の交代や資材の搬入、車内の清掃が行われる。何より、南北の路線と交差するため、乗り継ぎの関係でなんと八時間も停車するという。

 ずっと列車内に閉じ込められて退屈していたわたしたちは、少しだけ駅を出てリーデンの街中を散策することにした。

 十一月も末になり、ちょうどその日曜から、待降節アドヴェントの時期に入って、聖誕節のための市場マーケットが開かれていた。

「リーデンはルーセン国内でも、文化はアルティニアやシュルフト系なんです。シュルフト語を話す人々も多いし。ルーセンでは珍しい、聖節市場ヴァイナハツ・マルクトで、俺も来たかったんすよねー」

 ちゃっかり旅行案内書ガイドブックを用意しているロベルトさんの案内で、わたしは華やいだ異国の街を殿下と歩いた。

「山が近いせいか、王都より寒いですね」

 南の、温暖な地方出身の、ジェラルド・ブルック中尉が寒そうにコートの襟を立てる。

「聖誕節までには戻れるんですよね?」

 ブルック中尉の問いに、ロベルトさんが頷く。

「ビルツホルンの滞在は実質、五日予定っすよ。往復、二週間と考えるとバカバカしいですけど。ギリギリ、休暇前には、帰国できる予定っす」

 そんな話をする彼らの横で、わたしは素朴な、木彫りのツリー飾りオーナメントを見つける。

「これ、可愛い……」
「ああ、ここらの特産品みたいだな」

 わたしと殿下が手に取って見ていると、ジョナサン・カーティス大尉も横から手を出す。

「女性はこういうのが好きなんですか?」
「……女性っていうか……季節のものだし、可愛いですよね?」

 わたしの問いに、殿下が不審そうに眉を顰める。

「堅物のジョナサンが、女心を気にするとは……さては……」
「僕にも婚約者くらいいますから! 今度の聖節の休暇に、王都に出てくるらしくて、せめて何か土産をと思ったのですが、四年ぶりに逢うので、何をあげたら喜ぶのか想像もつかず……」

 わたしと殿下が思わず顔を見合わせる。

「……まあ、それは大変! わたしと同じくらいの年齢の方かしら」
「偶然ですが、そうです。十九になるはずです」
「まじで! そんな話、初めて聞いた!」

 横から素早く回り込んだロベルトさんが叫ぶ。カーティス大尉が気まずそうに目を逸らし、早口で言う。

「その、戦地に行く前に、親が勝手に……その時まだ十五歳で、まともに口をきいたこともないんです。手紙のやり取りも制限されていたし。どうしたらいいのか……」
「こんなんじゃなくて、もっと奮発した、宝石やドレスの方がいいんじゃないのか?」

 殿下が言うけれど、わたしが言った。

「旅先のお土産は特別です。旅先でも思い出してくれたってことだから」
「そう……ですかね?」 

 結局、カーティス大尉はわたしの選んだくるみ割り人形を買った。

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