【R18】没落令嬢の秘密の花園――秘書官エルスペス・アシュバートンの特別業務

無憂

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第三章

prologue3

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 リンドホルム城の、黄色く染まった楓並木の下を馬車が走り抜ける。窓の外を黄色い楓の葉が流れていく。

 ガラガラ……馬車の車輪の音が響く中、僕はただ、ボロボロと涙を流していた。止めようとしても止められない涙が、膝の上に滴り落ちる。
 
 エルシー……僕の、光。
 ここを離れたたら、もう二度と、彼女に会うことはできないだろう。

 ガタン、馬車の車輪が小石を噛んで、大きく揺れた拍子に、僕の隣の座席に置いてあった、スケッチブックが跳ね、床に滑り落ちた。
 僕が手を伸ばして拾い上げるより早く、対面に座っていたマックス・アシュバートンがそれを手に取る。

「あ――」

 ページがほどけて、中の素描が出てきた。――僕がスケッチした拙い絵。エルシーの――。

 僕は涙を拭うのを忘れて、おそるおそるマックスの顔を見る。マックスはじっと、僕の絵を――彼の、娘を見つめていた。

「……エルシーが、好きなのか?」
「……」

 僕は俯く。……その通りだけれど、頷く勇気がなかった。
 僕は十四歳で、エルシーは七歳。ほんの、幼女だ。……きっと僕はどこかがおかしい。汚れのない無垢なエルシーに恋する、変態だ。

「……エルシーはまだ、子供だ」
「……」
「それでも、エルシーが?」

 僕はさらに深く俯くしかなかった。

 マックスは僕の膝の上に、閉じたスケッチブックを返してから、言った。

「初恋は、叶わない。何故だと思う?」

 僕は上目遣いにマックスを見た。――エルシーと同じ、ブル―グレーの瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。

「弱いからだ。……恋を叶えるには、幼い時は弱すぎる。たとえば、大人になっても、弱い者は大切な者を守ることができず、奪われる。……私のように」

 僕は息を呑んだ。……マックスの言う「奪われた者」が、誰であるか悟ったから。

「強くなりなさい。力でも、金でも、何でもいい。奪われないためには、強くならなければ。そうでなければ、大事な娘をやることはできない」
「……おばあ様は、僕ではダメだって……」
「今の君ではね。この地上でも最弱クラスだ。そんな男に、誰が大事な娘を預けられる?」

 マックスのブル―グレーの瞳が、少しだけ細められる。
 マックスは身体が大きく、強くて――この彼ですら守れなかった愛しい人を、僕が守れる日が来るとはとても思えなかった。でも――。

 僕は膝の上のスケッチブックを抱き締める。
 
 いつか――僕が強くなれたら――その時は――。








 リンドホルムを追い出されてから、もう、いくつもの季節が巡った。たった一度の春、たった一度の夏、たった一度の秋。エルシーと過ごした一年にも満たない日々が、俺の心の支えだった。……時々、誰もいない場所でそっと開く、スケッチブックの中の拙いエルシーの素描。

 エプロン・ドレスをヒラヒラさせて、ブランコを漕ぐ姿。荒れ地ムアで見つけたウサギを見つめる横顔。ようやく咲いた、薔薇の香りを嗅ぐ、小さな笑顔。

 俺の下手くそな画力では、エルシーの愛らしさも、リンドホルム城の美しさも、半分も表現できていない。それでも。
 
 可愛い、可愛い、エルシー。スケッチブックに閉じこめた、思い出の中の、エルシー。七歳の幼い彼女。

 ――今はもう、それすらも失われた。





 ステファニーとの婚約は、ステファニーが五歳になる前に決められた。
 王妃は、自分の血を分けた姪たちの方を露骨に可愛がって、事あることに俺と比較し、俺を貶めた。
 幼い時はそのたびに傷ついた。王妃を実の母だと信じていたから。ステファニーの姉のアリスンは繊細で利発で、王妃の不自然な態度に気づいたらしく、できるだけ俺に近づかないようにしてくれた。でも、幼いステファニーにはそんなことは理解できない。
 王妃は俺の前で殊更にステファニーを可愛がった。――たぶん、差別され、特別に愛されることは気分がよかったのだろう。そうなると一層、ステファニーは俺に纏わりついて、正直、鬱陶しいといったらなかったが、邪険にすればステファニーは王妃に告げ口し、後できつい折檻を受ける羽目になる。

 ステファニーとエルシーは二歳しか違わない。髪もエルシーはステファニーよりくすんだ金髪で、目も灰色がかっているが、どちらも青い。

 でも、俺にとってステファニーはただ鬱陶しいだけで、エルシーは可愛くて天使のように見えた。
 同じような年頃で同じような外見で、同じくらい我儘だったのに、エルシーの我儘は何でも聞いてやりたかった。

 ステファニーをエルシーのように愛せれば、俺は幸せになれたかもしれないが、どう考えてもそれは無理だった。

 俺のすべてを支配しようとするステファニーは、ついに、俺のスケッチブックにも目を付けた。

『バーティは絵ばっかり描いていらっしゃるのね。わたしにも見せてくださいまし』

 ――エルシーをステファニーに見せるくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思った。俺が断れば、案の定、ステファニーは王妃に告げ口し、王妃が俺の部屋に来て言った。

『下手な絵を描いているそうね。スケッチブックをお見せなさいな』
『嫌です』

 ――たぶん、俺の、初めての反抗だった。王妃は青い目を見開き、笑った。

『いけない子ね、バーティ。あの、憎らしい女にそっくり』

 なおも白い手を伸ばしてくる王妃を振り切って、俺はスケッチブックを暖炉の火の中に投げ込んだ。炎の舌が、舐めるようにスケッチブックを蝕んでいく。

 俺の――エルシーが、燃えていく。最後の思い出も、何もかも――。

 俺はスケッチブックが燃えるのを見届けてから、王妃を見た。

『どうします? 次は俺も火の中に投げ込む? やれるもんなら――』

 その頃はもう、俺の方が王妃の背丈を抜いていて、力では敵わなくなっていたはずだ。俺は士官学校では拳闘ボクシング部に入って、身体も鍛えていた。――俺が、大人しく折檻を受けていたから、王妃は俺の成長に、その時まで気づかなかったのだろう。

 青い顔で王妃が一歩、二歩と下がる。俺は一歩前に出て、笑った。

『安心してください。アッサリ、暖炉に投げ込むような真似はしませんよ。そんな、アッサリ死ねるような真似はね――』
『……わたくしを、脅すの?』
『まさか。やるときは何も言わずにやりますよ』

 ――王妃が、ジョージのいる離宮に籠りがちになったのは、その、直後――。 

 




 その後も表向き、俺は自分を押し殺して過ごした。
 士官学校を出て、小遣いから少しずつ投資して、徐々に、資産を殖やした。

 力と、金と――。

 俺が独り立ちするのに必要な、強さを手に入れるために。



 それでも、王家のしがらみからは逃れられない。大戦が勃発し、多くの兵士や将官が死んだ。

 王族の誰かが戦場に立たねばならないくらい、国の損害は大きかった。
 俺以外に戦争に行ける奴がいないのだから、しょうがなかった。どこまでも便利遣いされる自分の存在に嫌気が差していたが、あるいはこれはチャンスかもしれないと思った。

 婚約者のステファニー。俺の未来を縛り付け、俺を操ろうとする王妃の傀儡。戦争の危険を理由に、俺は父上やレコンフィールド公爵を説得して、ステファニーとの婚約を白紙に戻すことに成功した。不思議と、一番抵抗するかと思った王妃は何も言わなかった。

 ――ようやく、俺から興味を失ったかと思っていたのに。あの女の狂気を俺は、読み違えていた。









 俺が本拠地を置いていたシャルロー村は、グリージャとの国境に近い、山間の長閑な村だった。
 村人は素朴で、酪農と葡萄の栽培、ほそぼそとワインを作っている、けして豊かでない村。俺が王子だというのは伏せていたが、村人はすれ違えば、気軽に帽子を取って挨拶してくれた。

「兵隊さん、栗を持っていくべ?」 
「ああ、焚火にくべればいいんだろう?」
「ヒビを入れてからだっぺ。弾けて怪我するべ」

 本部に届く郵便は、二週間に一度。俺の居場所を特定されないために、手紙のやり取りも制限がかかっている。部下とその家族に不自由をかけていることが、申し訳なかった。

 受け取って、秘書官のロベルトと仕分けする。――俺には父上からの定期連絡と、オーランド邸の執事のヴァルターの事務的な報告以外、来ない。あとは投資関係のものばかり。戦地に送られる手紙の量には、人望と比例関係があるとすれば、マックス・アシュバートンとジョナサン・カーティスは、周囲に愛されているのだろうな、と思う。俺の人望は最低クラス。……友人と呼べるのはロベルトくらいで、一緒に戦地にいるのだから、しょうがない。と、マックス・アシュバートンの元に来た封筒の、いかにも貴族の女性らしい、流麗な文字に目を留める。

 ――おばあ様の文字? いや、もしかしたら、これは――。

 ちょうど執務室に入ってきたマックスに手紙の束を渡す。――父のたっての願いにより、マックスは俺の護衛として、そして実質的な部隊の指揮官として出征していた。自分の席で手紙を読んでいたマックスが、立ち上がって俺の前に来た。

 たまたま、ロベルトは席を外して、部屋には二人きりだった。

「家から手紙が来ました。……娘から」

 煙草を吸おうと口に咥えたまま、俺はマックスを見上げる。――エルシーの。では、やはり――。

「エルシーを、憶えていますか?」
「あ、当たり前だ! 忘れたことなんか、ない」

 口から煙草が落ちるのもかまわず俺が言えば、マックスは苦笑いして、俺に写真を差し出す。

「同封されていました。エルシーと、ビリーです。エルシーが十五で、ビリーが十三。寄宿学校に入るそうで――」

 震える手で、写真を受け取る。ピアノの前に座る少女と、その脇に立つ制服の少年。よく似た容姿の二人。
 俺がリンドホルムにいた時、ビリーはまだスカートを穿いていた。エルシーもほんの子供で――。

 ピアノの前に座るエルシーは、まだ幼さは残るものの、すっかり女性らしくなっていた。髪は長く、上半分を結って、肩から背中を覆って、レースのついたブラウスの胸が、柔らかな曲線を描いている。幼い時の面影の残る、人形のように整った容貌。ツンと澄ました猫のような――それでもわずかに綻んだ唇が、花びらのように清楚で――。

 エルシー――。

 スケッチブックを燃やしてから、エルシーはただ、脳裏に描く思い出の中だけの存在だった。年々、おぼろげになる記憶の中の彼女が、再び鮮やかな像を結び始める。

 エルシー。俺の、ただ一筋の光。俺の――。








「ビリーでは、リンドホルムを守ることはできない」

 写真のエルシーの姿を凝視していた俺の耳に、マックスの言葉が突き刺さる。

「え?」

 思わず顔を上げると、正面からマックスがじっと俺を見ていた。

「だから、私はビリーの後はエルシーの代襲相続を認めるように、国王陛下に請願書を提出し、認められています」

 何の話かよくわからず、俺はただ、呆けたようにマックスを見上げていた。
 ビリーは確かに身体が弱かったけれど、写真を見た限りは、多少ひ弱そうだが、普通に育っているようだが……。

「ですがこのご時世、女が代襲相続した場合、婿選びは非常に困難だ。領地の経営も。――将来、殿下が気にかけてくださるなら――」
「俺が、婿になるよ!……ビリーの問題が何かよくわからないが……俺なら……」

 マックスは眉を顰めて、じっと俺を見つめて何か考えていた。

「レコンフィールド公爵令嬢との婚約は?」
「あれは白紙に戻した。俺の帰りも待つなと言ってあるし……そのうち、適当な男と結婚するさ」
「……そうでしょうか?」

 マックスは首を傾げ、それから言った。

「……まだ、エルシーのことを? エルシーはずいぶん、子供だった。もう、リジーの記憶もあいまいになっているでしょう」
「それでも、俺は忘れてない!」

 俺は必死に頼み込んだ。俺の勘が告げていた。このチャンスを逃したらダメだと。――マックスから結婚の許しをもぎ取るんだ!

「マックス! 俺はけっこう、金もあるんだ。拳闘ボクシング部にも入って、腕っぷしだって……あんたの言うとおり、力をつけたんだ、だから――」

 マックスは一瞬、目を逸らしてじっと遠くを見て、それから視線を戻して言った。

「……まあ、娘に求婚する、許可は出しましょう。エルシーが、何て言うか知りませんが」

 俺の全身を歓びが突き抜ける。――何の根拠もないが、エルシーは俺との結婚を承知してくれると、俺はこの時確信していた。単純な俺は、もう、エルシーと結婚できる気分になっていた。

 戦争が終わったら、俺はマックスとリンドホルムに行って、エルシーに結婚を申し込む――。





 その、喜びが粉々に砕け散るのは、わずか一月後。
 突然の襲撃に平和だった村は地獄絵図となり、マックスは俺を庇って銃弾に倒れる。

 息絶えたマックスの胸のポケットから取り出したエルシーの写真は、穴が空き、血まみれになっていた。
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