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終章

epilogue

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 五月のリンドホルムは、一年で一番、美しい季節だ。
 カッスルに隣接する荒野ムアはヒースやハリエニシダが咲き、青い空に雲雀が啼き騒ぎ、白い雲がのんびりと流れる。

 数年ぶりに、わたしはリジーの馬に乗せてもらい、荒野を駆けまわった。
 何も変わらないように見えるけれど、地図で言えば確実に、荒野は狭くなっているらしい。

「工場が立ったりしているからな。ここは一応、リンドホルム伯爵の地所だけど、もう少し外れると持ち主が変わるから。土地の開発も大事だけど、一度失くした自然は戻らないから、無秩序な開発は抑えないと」

 リンドホルム伯領は実質的にアルバート殿下の管理下に入った。持続的に開発して領民の生活を向上させながら、豊かな自然環境も維持していく。わたしはリジーのプランにお任せ状態だけど、できる仕事はしたいと考えていた。

「……タイプ打ちは任せてください」
「うーん、まあなんだ、第三王子の私設秘書ってことにしておく」

 背後から抱き込まれた状態で、わたしはブルンと震える馬のたてがみをそっと撫でる。殿下が肩口から、耳元で囁いた。

「一番大事な仕事は子供を産むことなんだけどな」
「だってえ。ヤパーネ旅行は身軽で行きたいから……」

 国王エドワード殿下の退位はこの八月と決まった。だが、ブリジット妃殿下が現在妊娠中なので、リジーが王太子になるかどうかは、その出産待ちである。きっと王室や政府の本音では、わたしにもとっとと子供を産んで欲しいのだろうが、暢気に東洋へ新婚旅行に行きたい、などと言う、わたしの意向を尊重してくれた。リジーも苦笑しながらそれを認めてくれている。
 
「ま、ハネムーン・ベイビーも悪くないさ!」

 リジーは軽く笑うと、馬の腹を蹴って、軽快にヒースの斜面を駆け下りた。



 
 

 リンドホルム城では庭師を増やし、寂れた庭園の修復を行った。ついでに、リジーは広すぎる庭の一部を果樹園、菜園にして、まずは城内での自給自足と、将来的には小作人に貸すか、あるいは商業作物としての収益を得ることを目指すという。邸内もかなりの手を入れ、最新の設備を備えた快適な屋敷に変わった。

 有刺鉄線もきれいに撤去され、噴水のある散歩道プロムナードは昔の姿を取り戻しつつある。噴水は修理されて水を噴き上げ、花壇には色とりどりの花が植えられた。この季節はチューリップを中心に植えて、枯れた木を取り去り、新たに花の咲く樹木が植えられた。レンガの壁を覆っていた枯れた蔦を取り払い、代わりに緑のアイビーを這わせて、寂れていた庭の雰囲気は一掃された。わたしとリジーは手を繋いで、いつもの薔薇園ローズ・ガーデンに向かう。

 今、修復中の薔薇園は、木のドアは開け放たれ、石工や噴水の修理のために職人が出入りしているが、いずれ大まかな修理を終えれば、限られた人間だけの庭にするつもりでいる。
 
 わたしたちが薔薇園を覗けば、ちょうど噴水修理をしていたジュリアンが顔を上げ、蝶を追いかけていたユールがわたしたちに気づいて、「ワン!」と鳴いた。少し大きくなったユールは、「きゃん、きゃん」という甲高い鳴き声を卒業しつつある。

「どうお? 具合は」
「ええ、だいぶいいですよ?」

 ジュリアンは本来ならば執事見習いだから、こんな庭仕事はしないはずだが、何しろ城内は修理修理で人手が足りない。リンドホルムと王都と、半々くらいでしか過ごせないから、できる限りの修理は今のうちに済ませておきたいのだ。……というわけで、ジュリアンまで庭師の真似事をさせられている。
 その向こうで、黙々と薔薇の苗を植えているのは、新たに雇った庭師のポール・ギュンターだ。彼は、例のシャルローの生き残りの一人で、あの戦いの後遺症で聴力を失ってしまい、あまりいい仕事に就けないでいた。リジーの支援で庭師の修行をして、今回、特に雇い入れられたのだった。

 ギュンターが苗を植えている一角は四阿ガゼボと、壁についている噴水の間、ここに小さな祠のような大理石のモニュメントを置き、ローズの墓にした。あまりに墓らしくしてもと、周囲に薔薇を植え、それとなく人が踏まないようにした。壁に埋め込んだ碑文には、『ローゼリンデ・ベルクマン、アルバート・レジナルドの母』と刻まれている。 

「そろそろ蛇口をひねってみますね! そっち、元栓お願いします!」
「ああ、いいぞ? 三、二、一、……開栓!」 

 リジーが壁付けの噴水の下にある、元栓を捻る。しばらくして、ブシュッというすさまじい音とともに、水道の栓が飛んで、ものすごい水柱が立ち、水がまき散らかされる。

「あ、あれぇえええ!」
「ワン、ワン、ワン!」
「うわ、全然だめじゃないか、バカ、うわー水びたし!」 
「殿下、栓、栓止めてくださいって、うわー!」
「え? 栓? 栓ってこれかって、ああっ栓が取れた!」
「ワン、ワン、ワン、ワン、ワン!」

 使っていなくて古く錆付いた水道の栓はぽっきり折れてしまい、水が噴き上がって止めることもできない。気づいた石工と、ポール・ギュンターが慌てて駆けつけ、水栓を金具で締めてようやく、水が止まる。全員、ずぶ濡れだ。

「あーやっぱり、素人仕事じゃむりだなあ」
「いや、ジュリアン、任せてください!って言ったのお前だろ!」

 男同士の責任の醜いなすりつけ合いが始まり、わたしは水びたしになったユールと一緒に、邸にタオルを貰いに駆け戻った。ついでに、ジョンソンに、職人の分を含めたお茶の仕度を申し付け、すぐに薔薇園に取って返す。

 結局、薔薇園が夕暮れの金色の光に包まれる前には皆、今日の仕事を終えて邸に戻り、ジョンソンからお茶をご馳走になっているはずだ。ただわたしとリジーと、そしてユールだけが、修復半ばの薔薇園の、四阿のベンチに座って庭を眺めている。

 噴水そのものの修理は失敗したが、大理石の像やツルバラのアーチは、元通りになっている。壁付けのもう一つの噴水も、そして石畳の小道も昔の姿を取り戻し、周囲を取り囲む壁を覆う薔薇は、盛りの季節を迎えていた。

「……もう少しだな」
「ええそうね。枯れてしまった薔薇の代わりに植えたものは、今年は無理だけど」
「噴水にこんなに手間取るとはな」
「もともと古かったもの。水道管が傷んでいたのね。それはプロの修理屋を呼ばないと」

 そんな話から、リジーが胸ポケットの紙巻煙草シガレットを取り出し、口に咥えながら、ふと言う。

「そうそう、王都にいるロベルトから連絡があってな。……グレンジャーが戻ってきたらしいぞ?」
「グレンジャー?……誰でしたっけ?」
「ステファニーと逃げた奴だ」
「ええ? じゃあ、ステファニー嬢も?」

 リジーが聞いた話では、ステファニー嬢とアイザック・グレンジャー卿は、ハンプトンの港から新大陸の東海岸に向けて出港したそうだが、どうも出航直後からギクシャクし始めていたらしい。そのうち、ステファニー嬢は豪華客船に乗っていた、新大陸の富豪と仲良くなり、グレンジャー卿とはますます険悪になっていったという。

「新大陸についた直後、グレンジャーだって慣れない土地であたふたするだろう? そこを助けてくれた新大陸の富豪に、ステファニーはすっかり惚れ込んで、あっさりグレンジャーを振ったらしい」
「まさか!」

 親友の婚約者を結婚式の当日に奪っておきながら、数日の船旅で破局とは……。リジーは煙草に火を点けて、紫煙を吐き出した。

「グレンジャーも駆け落ちまでして振られて帰るなんてできなくて、しばらくあっちで頑張ったらしいが、もともと苦労知らずのお坊ちゃんだからなあ。結局、ギルフォード侯爵の網に引っかかったらしい。……ちょうど、ステファニーの父親が死んだ直後で、グレンジャーは一度、帰国しようとステファニーに持ちかけたらしいが、けんもほろろだったそうだ。それで、グレンジャー一人で戻ってきた」

 ステファニー嬢には、王宮舞踏会での婚約破棄のこともあって、かなりまとまった金額をリジーから受け取っていた。ステファニー嬢一人なら、生活に困らない。……要するに、絆されて婚約者を捨てたグレンジャー卿は、新大陸で捨てられてしまったということだ。
 尾羽打ち枯らして帰ってきたグレンジャー卿を、なんと裏切られた婚約者、ミランダ嬢は、あっさりと許して受け入れたという。

「ほんとうですの? ちょっと信じられません」
「まあ、大概の反応はそうだな。ロベルトに言わせれば、『ランデル国で最も心の広い貴族令嬢・オブ・ジ・イヤー』は彼女に決まりだろうと」
「いつものことだけど、ロベルトさんの話は半分くらい、意味がわからないのよね」

 リジーは美味そうに煙草を吸いながら、笑った。

「女心は俺にもわからないが……王都で『ペール・ギュント』を見ただろう、出奔してやりたい放題した挙句、ボロボロになって戻ってきた男を、婚約者のソルヴェイグが受け入れる。……言うなれば、ミランダは現代のソルヴェイグだな」

 なるほど、とちょっとだけ想像がついて、わたしはそれでも複雑な気分だった。結婚式の当日に、他の女と逃げた男を許すなんて、わたしにはできそうもない。もっとも、ミランダ嬢は許しても、当たり前だが父親のシュタイナー伯爵はカンカンで、絶対許さないと息巻いているらしい。ただ、ミランダ嬢もあんな形で結婚が破談になっているし、新しい良縁を求めるのは難しく、ギルフォード侯爵家もまた、他に跡継ぎはいないので、ほとぼりが冷めれば元の鞘に収まるのではないか、というのが、大方の予想だそうだ。

 ……元の鞘に収まっても、世間の目は冷たいと思うけど。

「で、ステファニー嬢はお父様のお葬式にも出ず、お一人で新大陸あちらに?」
「ああ。知り合った富豪ってのが、向こうの銀行家らしいが、何でも活動写真シネマトグラフに出資するから、女優にならないか、とステファニーを誘って、まあ、その、口説いたらしい」
「……女優……」

 わたしは呆れてしまった。そんな口車に乗るなんて。

「じゃあ、グレンジャー卿を捨てて、その、富豪と結婚なさるの? で、女優業も?」
「いや、富豪はステファニーより二十も年上で、女房も子供もいるらしいぞ?」 
「そんな!」

 わたしは目を瞠る。ユールがわたしの膝元でハッハッと舌を出して、嬉しそうに尻尾を振っている。わたしはユールの首回りを撫でてやりながら、眉を顰めた。

「……あれだけ、人をのことを愛人だのなんだの罵っていたのに……」
「グレンジャーも、妻子のある男となんて、あまりに不道徳だと詰ったそうだが、その……」

 リジーが言いにくそうに言葉を濁し、わたしの耳元に口を近づけて小声で言った。

「どうやら、グレンジャーよりも、その富豪の方が、アッチの技術が上だったらしいんだ」
「アッチって?」
「だからさ……ステファニーはグレンジャーとの夜じゃあ満足できなかったみたいだ」
「!!!」

 仰天して口もきけないでいるわたしを、リジーは抱き寄せて唇を塞ぐ。わたしもそれを受け入れ、リジーの肩に両手を回した。……最近、ユールはわたしたちの空気を読むようになって、キスを始めるとそっと離れて、一人であちこち掘り返して遊んでいる。それをいいことに、リジーのキスはどんどん、激しく、深くなり、わたしは息ができず、頭がぼうっとしてくる。酸欠になる寸前でようやく解放され、ホッと息をついていると、彼が耳元で囁いた。

「あのな、エルシー。俺の夜の技術に不満を覚えた場合、頼むから余所の男で試す前に、率直に俺に言って欲しいんだ。努力は厭わないつもりだから」 
「ふ、不満なんてありません!」

 思わず叫んでしまってから、わたしはしまったと口を塞ぐ。目の前でリジーが金色の瞳をギラギラさせ、微笑んだ。

「そっか、満足してくれているなら、よかった。これからも努力のし甲斐があるな」
「ま、満足って……そういう意味では……」
「ここはエルシーと俺だけの秘密の花園だけど、エルシーの秘密の花園は、俺だけのものだからな?」 

 リジーはニヤニヤと宣言して、顔がカーッと熱くなったわたしの唇を、もう一度塞いだ。
  
 薔薇の、香が鼻腔をくすぐる。薔薇園ローズ・ガーデンに夕暮れが訪れ、薔薇の香りがさらに強くなった。
 
  
  Fin.
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