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15、王気
接触
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その夜、シリルはメイローズから用事を言いつけられて外していて、アルベラは部屋に一人きりだった。塔の下に歩哨くらいはいるだろうが、一人で放置されるのは、生まれて初めてだ。今までは誰かしら、側にいてくれた。
すでに寝支度を整え、夜着の上に毛織のショールを羽織り、フェルトの室内履きをつっかけて、アルベラは細長い窓から外を見下ろす。暗い湖の向こう、月神殿のある島には篝火が灯っていた。
囚人とはいえ、扱いはかなり恵まれている。この部屋は暖炉もあって暖かいし、毎日入浴することもでき、食事も贅沢とまではいえないが、悪くはない。シリルが言うには、女王の棟の厨房で作った、アデライードやシウリンが食べるものと、同じものだと言う。
しばらく湖を眺め、アルベラはもう休もうと蝋燭を吹き消す。灯りは寝台の枕元の魔力灯だけだ。ぼうっと白くけぶる灯り目指して歩いていくと、不意にカタリと音がして空気が流れ、アルベラの肩を過ぎた程度の髪をそよがせた。
人の気配を感じ、アルベラは警戒してベッドサイドに急ぎ、枕の下に隠してあるテセウスの短剣を掴み、暗闇に向かって呼びかけた。
「……誰?」
「……私です、姫」
私です、と言われても、パッとは誰だがわからない。アルベラにはなじみのない、低い、男の声。
「名のらずとも声だけで認識できるほど、親しい男性なんていないわ。ずうずうしい」
棘を含んだ声で詰ってやれば、男は暗闇で苦笑したらしい。
「……これは、失礼を。一応、婚約者でしたので」
「婚約者……?」
そんなのいたかしら、と素で呟く声に、男は苦笑を深める。
「アリオス家のパウロスです。……ずっと、ご所在を探しておりました」
「パウロス……ああ、あの男色家!」
ずけりと言われて、男は息を飲む。だが否定しないところをみると、やっぱり噂は本当だったのだなと、アルベラは納得した。
「その婚約者殿がこんな夜更けに、何の御用? 父が亡くなった以上、婚約の話も立ち消えていると思うけれど」
「そうはまいりません。私は破談に同意していない」
だがアルベラは記憶をたどる。破談も何も、アルベラは婚約の同意書にサインすらしていない。
「わたしは婚約を了承した覚えはないわ。そもそも、婚約自体、成立していないのではなくて?」
「確かに、正式な手続きは秋分の日に、という予定でした。姫は身を隠してしまわれて……。私がどれほど心を痛めたと思われますか?」
闇の中から切々と訴えられて、アルベラは眉を顰める。……何を言っているのか、理解できなかった。
アリオス侯爵の嫡男パウロスとは、正式な婚約者候補として二度ほど顔を合わせた事がある。銀髪に青い瞳で、年齢は二十七、八の、見かけはなかなかの美丈夫だったが、とにかく態度が悪かった。終始、上からアルベラを見下していて、この男とだけは絶対に結婚しないと、アルベラが心に誓ったくらいだ。
「……あなたが、わたしを探す? ありえないわ。頭っからわたしのこと馬鹿にしてたのに。今さら何が目的なの?」
「それは……あの頃は、イフリート公爵の強引なやり口に、反発があって。罪のない姫に、失礼な態度をとってしまった。以前の態度については謝罪します。私と一緒に来ていただきたいのです」
「嫌よ。理由はどうあれ、女というだけで見下す男は嫌い。しかもこんな夜にやってくるなんて、非常識だわ」
一言の元に要求を退けられて、パウロスが鼻白む。
「姫、この国の独立を守るためには、あなたに立ち上がっていただくしかないのです! このまま、アデライード姫の元では、この国は〈禁苑〉の言いなりになって、東の属国になってしまう! もともと、正統な王位継承者は姫です! 我々同志とともに立ち上がってください!」
パウロスの言葉に、アルベラはさすがに脱力しかかった。
「独立って……辺境が魔物の害が苦しんでいる時には手をこまねいて、ロクな対策も打ち出せなかったクセに、アデライードが結界を修復して魔物の害が消えた途端、横から甘い果実だけ奪おうと言うのね。……最低だわ」
「魔物の害など、南の奴らが大袈裟に言うだけで、大したことは――」
「あなた、見たの?」
アルベラが冷たい声でパウロスを詰った。
「わたしは、この目で見たわ。小さな街の城壁が、黒い魔物の群れに囲まれて、ただ朽ちるのを待つだけだった有様を。魔物に襲われた村の、黒く立ち枯れた葡萄園や、小麦畑を。魔物に襲われて死んで、その後魔物に憑依された殭死も。――その原因が始祖女王の結界の綻びで、ここ二年以上、女王の空位が続いたせいだと知っている。それをもたらしたのが、わが父、イフリート公爵だってことも」
予想だにしない反撃に、パウロスが沈黙する。
「〈禁苑〉からの独立と、王権の世俗化を訴えるのは、いいわ。でも、国土に魔物の害が及んだ時、自分たちの力で跳ねのける力を得てからじゃないの。何一つ、有効な手段を取れなかったクセに、平和で安全な国だけは欲しいだなんて、ムシが良すぎるわ」
「それは――もし、姫が中心になってくだされば、今後は――」
「無理よ。魔物の害が消えたのは、アデライードが結界を修復した結果よ? 危険が去ってからノコノコ出てきて、美味しいとこだけ頂戴しようなんて、そんな面の皮の厚いこと、できるわけないわ。わたしはそこまで恥知らずじゃないもの」
軽蔑を込めたアルベラの言葉に、パウロスが焦って言う。
「ですが、このままでは女王国は東の属国に成り下がってしまう。それだけは許せない!」
「自力では魔物を追い払うこともできず、結界を直すこともできないんだから、しょうがないじゃない。――唯一、結界を修復できるアデライードは、父のせいで十年も、聖地に押し込められていた。あなたたちはそれを助け出そうともしなかったじゃない。〈禁苑〉が彼女を引っ張り出さなきゃ、きっと今ごろ結界は破れたままで、魔物の害でナキアは滅茶苦茶だったかもね」
パウロスが、闇の中でギリと奥歯を噛みしめたらしい。
「あなたは、女王国が東の奴らに蹂躙されても平気なのか! 東の男たちにいいようにされて! 女王家の誇りはないのか!……女王になるための努力が、全部水の泡になるんだぞ!」
詰られて、アルベラは思わず鼻で笑った。
「さんざん女王を踏みつけて、操り人形にしてきたのは、あなたたち元老院じゃないの。西の男たちにいいようにされるのと、東の男たちにいいようにされるのと、何が違うって言うの? 同じことなら魔物を追い払ってくれる、強くて頼りになる男たちの方がずっといいわ。……違うかしら?」
アルベラの言葉は、西の貴族の男であるパウロスのプライドを思いっきり踏みにじったらしい。パウロスが思わず数歩前に出て、アルベラの細い腕を掴む。
「触らないで!」
アルベラは枕の下に隠していた、テセウスの短剣を抜いた。
ヒュンッと、短剣が風を切る音に、パウロスは反射的に飛び退って避ける。
「なぜです、なぜあなたまでが、我々を裏切る!」
「裏切るも何も、最初から味方じゃなかったくせに。……父が生きているうちは力のない傀儡だと侮って、仕方なく結婚に同意して。イフリート家が滅んだらその後釜に入ろうなんて、ほんと、アリオス家って昔っからクズばっかりね?」
「何だと?」
家名を侮辱されて、パウロスが激昂するが、アルベラはさらに畳みかけた。
「アリオス家には伝承されているんじゃない? 三百年前、イフリート家の始祖を辺境から連れてきた女王の夫は、アリオス家の男だった。別の女を愛して女王を蔑ろにし、あまつさえ女王を暗殺しようとして、退けられて神殿に押し込められたクズ男の家系のくせに。三百年たっても性根は治らないままなのね」
「うるさい、なぜ、それを――」
パウロスがなおもアルベラに掴みかかろうとしたとき、ドアを叩く音がした。
「パウロス様、人が――時間切れです」
女の声で呼びかけられ、パウロスがはっとする。チッと舌打ちして身を翻し、だが振り返って言った。
「愚かな人だ。その女王家の血筋がなければ、利用価値もないものを!」
「あなたの利益になる存在じゃなくて、幸運だったわ」
パウロスは乱暴に扉を開けると、足音を立てて塔を降りていった。
すでに寝支度を整え、夜着の上に毛織のショールを羽織り、フェルトの室内履きをつっかけて、アルベラは細長い窓から外を見下ろす。暗い湖の向こう、月神殿のある島には篝火が灯っていた。
囚人とはいえ、扱いはかなり恵まれている。この部屋は暖炉もあって暖かいし、毎日入浴することもでき、食事も贅沢とまではいえないが、悪くはない。シリルが言うには、女王の棟の厨房で作った、アデライードやシウリンが食べるものと、同じものだと言う。
しばらく湖を眺め、アルベラはもう休もうと蝋燭を吹き消す。灯りは寝台の枕元の魔力灯だけだ。ぼうっと白くけぶる灯り目指して歩いていくと、不意にカタリと音がして空気が流れ、アルベラの肩を過ぎた程度の髪をそよがせた。
人の気配を感じ、アルベラは警戒してベッドサイドに急ぎ、枕の下に隠してあるテセウスの短剣を掴み、暗闇に向かって呼びかけた。
「……誰?」
「……私です、姫」
私です、と言われても、パッとは誰だがわからない。アルベラにはなじみのない、低い、男の声。
「名のらずとも声だけで認識できるほど、親しい男性なんていないわ。ずうずうしい」
棘を含んだ声で詰ってやれば、男は暗闇で苦笑したらしい。
「……これは、失礼を。一応、婚約者でしたので」
「婚約者……?」
そんなのいたかしら、と素で呟く声に、男は苦笑を深める。
「アリオス家のパウロスです。……ずっと、ご所在を探しておりました」
「パウロス……ああ、あの男色家!」
ずけりと言われて、男は息を飲む。だが否定しないところをみると、やっぱり噂は本当だったのだなと、アルベラは納得した。
「その婚約者殿がこんな夜更けに、何の御用? 父が亡くなった以上、婚約の話も立ち消えていると思うけれど」
「そうはまいりません。私は破談に同意していない」
だがアルベラは記憶をたどる。破談も何も、アルベラは婚約の同意書にサインすらしていない。
「わたしは婚約を了承した覚えはないわ。そもそも、婚約自体、成立していないのではなくて?」
「確かに、正式な手続きは秋分の日に、という予定でした。姫は身を隠してしまわれて……。私がどれほど心を痛めたと思われますか?」
闇の中から切々と訴えられて、アルベラは眉を顰める。……何を言っているのか、理解できなかった。
アリオス侯爵の嫡男パウロスとは、正式な婚約者候補として二度ほど顔を合わせた事がある。銀髪に青い瞳で、年齢は二十七、八の、見かけはなかなかの美丈夫だったが、とにかく態度が悪かった。終始、上からアルベラを見下していて、この男とだけは絶対に結婚しないと、アルベラが心に誓ったくらいだ。
「……あなたが、わたしを探す? ありえないわ。頭っからわたしのこと馬鹿にしてたのに。今さら何が目的なの?」
「それは……あの頃は、イフリート公爵の強引なやり口に、反発があって。罪のない姫に、失礼な態度をとってしまった。以前の態度については謝罪します。私と一緒に来ていただきたいのです」
「嫌よ。理由はどうあれ、女というだけで見下す男は嫌い。しかもこんな夜にやってくるなんて、非常識だわ」
一言の元に要求を退けられて、パウロスが鼻白む。
「姫、この国の独立を守るためには、あなたに立ち上がっていただくしかないのです! このまま、アデライード姫の元では、この国は〈禁苑〉の言いなりになって、東の属国になってしまう! もともと、正統な王位継承者は姫です! 我々同志とともに立ち上がってください!」
パウロスの言葉に、アルベラはさすがに脱力しかかった。
「独立って……辺境が魔物の害が苦しんでいる時には手をこまねいて、ロクな対策も打ち出せなかったクセに、アデライードが結界を修復して魔物の害が消えた途端、横から甘い果実だけ奪おうと言うのね。……最低だわ」
「魔物の害など、南の奴らが大袈裟に言うだけで、大したことは――」
「あなた、見たの?」
アルベラが冷たい声でパウロスを詰った。
「わたしは、この目で見たわ。小さな街の城壁が、黒い魔物の群れに囲まれて、ただ朽ちるのを待つだけだった有様を。魔物に襲われた村の、黒く立ち枯れた葡萄園や、小麦畑を。魔物に襲われて死んで、その後魔物に憑依された殭死も。――その原因が始祖女王の結界の綻びで、ここ二年以上、女王の空位が続いたせいだと知っている。それをもたらしたのが、わが父、イフリート公爵だってことも」
予想だにしない反撃に、パウロスが沈黙する。
「〈禁苑〉からの独立と、王権の世俗化を訴えるのは、いいわ。でも、国土に魔物の害が及んだ時、自分たちの力で跳ねのける力を得てからじゃないの。何一つ、有効な手段を取れなかったクセに、平和で安全な国だけは欲しいだなんて、ムシが良すぎるわ」
「それは――もし、姫が中心になってくだされば、今後は――」
「無理よ。魔物の害が消えたのは、アデライードが結界を修復した結果よ? 危険が去ってからノコノコ出てきて、美味しいとこだけ頂戴しようなんて、そんな面の皮の厚いこと、できるわけないわ。わたしはそこまで恥知らずじゃないもの」
軽蔑を込めたアルベラの言葉に、パウロスが焦って言う。
「ですが、このままでは女王国は東の属国に成り下がってしまう。それだけは許せない!」
「自力では魔物を追い払うこともできず、結界を直すこともできないんだから、しょうがないじゃない。――唯一、結界を修復できるアデライードは、父のせいで十年も、聖地に押し込められていた。あなたたちはそれを助け出そうともしなかったじゃない。〈禁苑〉が彼女を引っ張り出さなきゃ、きっと今ごろ結界は破れたままで、魔物の害でナキアは滅茶苦茶だったかもね」
パウロスが、闇の中でギリと奥歯を噛みしめたらしい。
「あなたは、女王国が東の奴らに蹂躙されても平気なのか! 東の男たちにいいようにされて! 女王家の誇りはないのか!……女王になるための努力が、全部水の泡になるんだぞ!」
詰られて、アルベラは思わず鼻で笑った。
「さんざん女王を踏みつけて、操り人形にしてきたのは、あなたたち元老院じゃないの。西の男たちにいいようにされるのと、東の男たちにいいようにされるのと、何が違うって言うの? 同じことなら魔物を追い払ってくれる、強くて頼りになる男たちの方がずっといいわ。……違うかしら?」
アルベラの言葉は、西の貴族の男であるパウロスのプライドを思いっきり踏みにじったらしい。パウロスが思わず数歩前に出て、アルベラの細い腕を掴む。
「触らないで!」
アルベラは枕の下に隠していた、テセウスの短剣を抜いた。
ヒュンッと、短剣が風を切る音に、パウロスは反射的に飛び退って避ける。
「なぜです、なぜあなたまでが、我々を裏切る!」
「裏切るも何も、最初から味方じゃなかったくせに。……父が生きているうちは力のない傀儡だと侮って、仕方なく結婚に同意して。イフリート家が滅んだらその後釜に入ろうなんて、ほんと、アリオス家って昔っからクズばっかりね?」
「何だと?」
家名を侮辱されて、パウロスが激昂するが、アルベラはさらに畳みかけた。
「アリオス家には伝承されているんじゃない? 三百年前、イフリート家の始祖を辺境から連れてきた女王の夫は、アリオス家の男だった。別の女を愛して女王を蔑ろにし、あまつさえ女王を暗殺しようとして、退けられて神殿に押し込められたクズ男の家系のくせに。三百年たっても性根は治らないままなのね」
「うるさい、なぜ、それを――」
パウロスがなおもアルベラに掴みかかろうとしたとき、ドアを叩く音がした。
「パウロス様、人が――時間切れです」
女の声で呼びかけられ、パウロスがはっとする。チッと舌打ちして身を翻し、だが振り返って言った。
「愚かな人だ。その女王家の血筋がなければ、利用価値もないものを!」
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パウロスは乱暴に扉を開けると、足音を立てて塔を降りていった。
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