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21、再生の光
〈シウリン〉ではない男
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恭親王の膝の上に座らせられて、アデライードは甲板の上で海風を受けながら海を眺めていた。まだ体の節々が痛く、さらに封印が解かれて増加した魔力が溢れて澱み、頭痛と吐き気、思考の混濁が起こる。朝から移動の際はすべて恭親王に抱き上げられ、座るときは彼の膝の上。恥ずかしいことこの上ないが、彼に触れていないと、頭が痛くて堪らないのだ。
〈聖婚〉を受諾し、あの不思議な場所――〈玄牝〉――で彼を夫として受け入れた。躊躇いと、恥じらいと、そして恐れ。何が起ころうとも全て受け入れる覚悟で臨んだが、あまりに予想外の出来事の連続で、アデライードは混乱の極みにあった。
そもそも、アデライードには迷いがあった。彼を、受け入れていいのか。
声を捨てて生きた十年の月日、アデライードはただ、〈シウリン〉のためだけに生きた。沈黙を貫きながら、〈シウリン〉を思った。指輪は、〈シウリン〉の手の内にある。それは、彼がアデライードを忘れないでいてくれる証だと。彼が僧侶として生涯純潔を貫く中で、あの日森の中で出会った少女のことを少しだけでも、覚えていてくれればそれでいいと思うほど、修道院の日々にアデライードは疲弊していた。常に絡みつくエイダの監視。チリチリと首筋を焼く悪意。何人もの侍女や罪のない修道女が、アデライードを狙う刺客の犠牲となった。自らが狙われる恐怖ではなく、身近な者が自分のために巻き込まれ、失われる恐怖。
あの森の中の、金色の龍の〈王気〉を纏った少年僧を思い出すときだけアデライードの心は安らいだ。アデライードはそれでも、再び〈シウリン〉に会うことは望まなかった。彼を危険にさらすよりは、このまま離れている方がいい。
徐々に心が死んでいくようなアデライードにとって、〈シウリン〉は彼岸の空に輝く星のような、そんな存在だった。
そのまま、静かに朽ちていくつもりだったアデライードに命を吹き込んだのは、〈シウリン〉と同じ金の龍の〈王気〉を持つ、彼女の夫となるべき、〈聖婚〉の皇子だった。
彼が纏う金色の〈王気〉――。
あの日、森の中で見た〈王気〉と寸分違わぬ煌めきと、力強さ。
彼は〈シウリン〉ではない。〈シウリン〉は太陽宮にいるはずだ。ただ同じ陽の〈王気〉を持つ、よく似た男なだけだ。
それが証拠に、彼は全く容赦というものがなかった。
侍女に毒を飲ませるのも、襲い来る刺客を葬り去るのも、微塵も躊躇うこともなく、良心の呵責すら感じないようだった。神聖な神殿の柱の陰でアデライードの唇を貪りながら、顔色一つ変えずに刺客を絶命させた。馬車の中で、四阿で、二人きりの寝室で、男の欲望を剥き出しにして、アデライードの唇を蹂躙した。
彼は水際に獲物を追い詰める餓えた肉食獣そのものだ。怯える獲物の恐怖すら、彼の糧なのだ。
あの穏やかで優しかった〈シウリン〉とは似ても似つかない。
わかっているのに、アデライードはどうしても、恭親王の中に〈シウリン〉の面影を探してしまう。
『シウリンは、もう、この世にいない』
指輪とともに彼からもたらされた残酷な宣告。何故。どうして――。
彼から聞かされた〈シウリン〉の人生はあまりにむごかった。
双子として生まれ、僧院に送られる。その存在を秘され、生涯を聖地で天と陰陽に捧げるように強要される。アデライードは森の中で見た、〈シウリン〉の貧しい出で立ちを思い出す。
薄い僧衣、ボロボロのマント(とは名ばかりのただの四角い布)、素足に手作りの草鞋、剃り上げた頭に、アカギレやひびだらけの荒れた手。
それでも、彼には彼の生があった。何も恨まず、何も求めず、無垢で、汚れを知らなかった〈シウリン〉。その短い生を終えた後までも、その存在すら抹殺された。初めから、存在しなかったかのごとく――。
そして目の前にいるのは、逆に何もかも与えられた男。
皇子としての地位、身分、教養。優れた容姿と武威。赫々たる武勲。溢れる自信。
贅沢に慣れ、欲望のままに女を自由にできる、何もかも許された男。
アデライードとて、メイローズが止めなければ、あっさりとその純潔を奪われていただろう。
何が違うというのだろうか。同じ双子なのに。一方は何もかも与えられ、一方は何もかも奪われる。そんな理不尽があっていいのだろうか。
感情の乏しいアデライードですら、憤りを感じずにはいられなかった。
そして何よりも、この全てを与えらえた皇子は、〈シウリン〉の指輪すら平然と触れている。
女王が選んだ夫だけが触れることのできる指輪。アデライードが選んだのは、間違いなく〈シウリン〉だったはずなのに。公聴会でギュスターブを弾き飛ばした指輪をあっさりと取り戻し、これ見よがしに指に嵌めて微笑む自信に満ちた姿。愛も成功も、全てを掴むことが約束されたような姿に、アデライードは指輪の選択を受け入れつつある自分に気づく。
いつの間にかアデライードですら、〈シウリン〉でないこの男を指輪の主として受け入れていた。
アデライードの躊躇いと戸惑いは、そこに発している。
彼女が約束したのは、〈シウリン〉だ。〈シウリン〉によく似た、この男ではない。
それなのに、今アデライードは間違いなく、この男に魅かれ始めている。
男は、アデライードに対して熱烈に愛を囁く。〈禁苑〉の決めた古式ゆかしいただの〈聖婚〉だというのに、彼はアデライードを抱きしめ、口づけし、時には組み敷いて、その征服欲を露わにする。アデライードは自分のものだと、繰り返し言う。
口づけられ、触れられ、〈王気〉が混じり合うと、アデライードの身体は疼き、心が蕩ける。力強い腕の檻に囚われて、そのままどうにかなってしまいそうになる。その愛を受け入れ、その身を任せてしまいたくなる。
それは、〈シウリン〉に対する、とてつもない裏切りではないのか。
彼が〈シウリン〉なら――彼が〈シウリン〉その人ならば、アデライードが躊躇う必要もないのに。
男が、自分は〈シウリン〉ではないと否定するたびに、アデライードは落胆する。
〈シウリン〉を裏切りたくない。どんな男のものになったとしても、真実は〈シウリン〉一人に捧げるつもりだった。それは夫への裏切りかもしれないが、アデライードにとっては〈シウリン〉の方が大切だ。
アデライードの混乱は、聖地の散策に出たあの日、さらに深まる。
地味な衣裳に身をやつし、屋台の食べ物を二人で買い食いしながら、男は自然にアデライードの世話を焼いた。穏やかな語り口、妙に気の付くところ、普段とは異なる、険のない透明な笑顔。あの日森の中で、幼いアデライードの我儘に微笑んで付き合ってくれた〈シウリン〉そのままで、アデライードはますます、訳がわからなくなる。
〈シウリン〉に対する罪悪感がどれほど邪魔をしても、アデライードはもう、天と陰陽が定めた婚約者に魅かれていく自分を、止めることはできなかった。
〈聖婚〉を受諾し、あの不思議な場所――〈玄牝〉――で彼を夫として受け入れた。躊躇いと、恥じらいと、そして恐れ。何が起ころうとも全て受け入れる覚悟で臨んだが、あまりに予想外の出来事の連続で、アデライードは混乱の極みにあった。
そもそも、アデライードには迷いがあった。彼を、受け入れていいのか。
声を捨てて生きた十年の月日、アデライードはただ、〈シウリン〉のためだけに生きた。沈黙を貫きながら、〈シウリン〉を思った。指輪は、〈シウリン〉の手の内にある。それは、彼がアデライードを忘れないでいてくれる証だと。彼が僧侶として生涯純潔を貫く中で、あの日森の中で出会った少女のことを少しだけでも、覚えていてくれればそれでいいと思うほど、修道院の日々にアデライードは疲弊していた。常に絡みつくエイダの監視。チリチリと首筋を焼く悪意。何人もの侍女や罪のない修道女が、アデライードを狙う刺客の犠牲となった。自らが狙われる恐怖ではなく、身近な者が自分のために巻き込まれ、失われる恐怖。
あの森の中の、金色の龍の〈王気〉を纏った少年僧を思い出すときだけアデライードの心は安らいだ。アデライードはそれでも、再び〈シウリン〉に会うことは望まなかった。彼を危険にさらすよりは、このまま離れている方がいい。
徐々に心が死んでいくようなアデライードにとって、〈シウリン〉は彼岸の空に輝く星のような、そんな存在だった。
そのまま、静かに朽ちていくつもりだったアデライードに命を吹き込んだのは、〈シウリン〉と同じ金の龍の〈王気〉を持つ、彼女の夫となるべき、〈聖婚〉の皇子だった。
彼が纏う金色の〈王気〉――。
あの日、森の中で見た〈王気〉と寸分違わぬ煌めきと、力強さ。
彼は〈シウリン〉ではない。〈シウリン〉は太陽宮にいるはずだ。ただ同じ陽の〈王気〉を持つ、よく似た男なだけだ。
それが証拠に、彼は全く容赦というものがなかった。
侍女に毒を飲ませるのも、襲い来る刺客を葬り去るのも、微塵も躊躇うこともなく、良心の呵責すら感じないようだった。神聖な神殿の柱の陰でアデライードの唇を貪りながら、顔色一つ変えずに刺客を絶命させた。馬車の中で、四阿で、二人きりの寝室で、男の欲望を剥き出しにして、アデライードの唇を蹂躙した。
彼は水際に獲物を追い詰める餓えた肉食獣そのものだ。怯える獲物の恐怖すら、彼の糧なのだ。
あの穏やかで優しかった〈シウリン〉とは似ても似つかない。
わかっているのに、アデライードはどうしても、恭親王の中に〈シウリン〉の面影を探してしまう。
『シウリンは、もう、この世にいない』
指輪とともに彼からもたらされた残酷な宣告。何故。どうして――。
彼から聞かされた〈シウリン〉の人生はあまりにむごかった。
双子として生まれ、僧院に送られる。その存在を秘され、生涯を聖地で天と陰陽に捧げるように強要される。アデライードは森の中で見た、〈シウリン〉の貧しい出で立ちを思い出す。
薄い僧衣、ボロボロのマント(とは名ばかりのただの四角い布)、素足に手作りの草鞋、剃り上げた頭に、アカギレやひびだらけの荒れた手。
それでも、彼には彼の生があった。何も恨まず、何も求めず、無垢で、汚れを知らなかった〈シウリン〉。その短い生を終えた後までも、その存在すら抹殺された。初めから、存在しなかったかのごとく――。
そして目の前にいるのは、逆に何もかも与えられた男。
皇子としての地位、身分、教養。優れた容姿と武威。赫々たる武勲。溢れる自信。
贅沢に慣れ、欲望のままに女を自由にできる、何もかも許された男。
アデライードとて、メイローズが止めなければ、あっさりとその純潔を奪われていただろう。
何が違うというのだろうか。同じ双子なのに。一方は何もかも与えられ、一方は何もかも奪われる。そんな理不尽があっていいのだろうか。
感情の乏しいアデライードですら、憤りを感じずにはいられなかった。
そして何よりも、この全てを与えらえた皇子は、〈シウリン〉の指輪すら平然と触れている。
女王が選んだ夫だけが触れることのできる指輪。アデライードが選んだのは、間違いなく〈シウリン〉だったはずなのに。公聴会でギュスターブを弾き飛ばした指輪をあっさりと取り戻し、これ見よがしに指に嵌めて微笑む自信に満ちた姿。愛も成功も、全てを掴むことが約束されたような姿に、アデライードは指輪の選択を受け入れつつある自分に気づく。
いつの間にかアデライードですら、〈シウリン〉でないこの男を指輪の主として受け入れていた。
アデライードの躊躇いと戸惑いは、そこに発している。
彼女が約束したのは、〈シウリン〉だ。〈シウリン〉によく似た、この男ではない。
それなのに、今アデライードは間違いなく、この男に魅かれ始めている。
男は、アデライードに対して熱烈に愛を囁く。〈禁苑〉の決めた古式ゆかしいただの〈聖婚〉だというのに、彼はアデライードを抱きしめ、口づけし、時には組み敷いて、その征服欲を露わにする。アデライードは自分のものだと、繰り返し言う。
口づけられ、触れられ、〈王気〉が混じり合うと、アデライードの身体は疼き、心が蕩ける。力強い腕の檻に囚われて、そのままどうにかなってしまいそうになる。その愛を受け入れ、その身を任せてしまいたくなる。
それは、〈シウリン〉に対する、とてつもない裏切りではないのか。
彼が〈シウリン〉なら――彼が〈シウリン〉その人ならば、アデライードが躊躇う必要もないのに。
男が、自分は〈シウリン〉ではないと否定するたびに、アデライードは落胆する。
〈シウリン〉を裏切りたくない。どんな男のものになったとしても、真実は〈シウリン〉一人に捧げるつもりだった。それは夫への裏切りかもしれないが、アデライードにとっては〈シウリン〉の方が大切だ。
アデライードの混乱は、聖地の散策に出たあの日、さらに深まる。
地味な衣裳に身をやつし、屋台の食べ物を二人で買い食いしながら、男は自然にアデライードの世話を焼いた。穏やかな語り口、妙に気の付くところ、普段とは異なる、険のない透明な笑顔。あの日森の中で、幼いアデライードの我儘に微笑んで付き合ってくれた〈シウリン〉そのままで、アデライードはますます、訳がわからなくなる。
〈シウリン〉に対する罪悪感がどれほど邪魔をしても、アデライードはもう、天と陰陽が定めた婚約者に魅かれていく自分を、止めることはできなかった。
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