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   第二章 運命の急転


 修道院に入って四年目、あの修道士との邂逅からも三年以上の月日が流れて、十七歳のアニエスは、ついに修道誓願を立てることを許された。
 今までの俗人のドレスと違い、灰色の僧衣と白い頭巾ウィンプルをまとい、見かけはすっかり修道女になった。ただ、正式な修道女は顎のところで髪を切り揃えるけれど、アニエスは長いまま。

「神の家に入るというのは、それほど重い決断なのです。ですから二年間は見習いです。二年後、正式に修道女となる時に、髪を切りましょう」

 そう修道院長が言ったからだ。
 そんな見習い修道女として過ごす初めての冬、小雪のちらつく寒い日に、異母妹のロクサーヌが突然、修道院を訪ねてきた。
 驚いて駆けつければ、面会室の暖炉の脇で、鮮やかな赤いフードつきマントをまとったロクサーヌが、不安そうに両手をすり合わせていた。かなり離れて、侍女が控えている。

「ロクサーヌ!」
「……お、お姉さま?」

 アニエスが声をかけると、ロクサーヌはハッと顔を上げ、紫の瞳を見開いた。
 ついでロクサーヌは手にした絹のハンカチを目にあて、はらはらと涙を零す。

「……そんな……もう、俗世を捨ててしまわれたなんて……」
「ロクサーヌ、泣かないで。わたしは俗世に未練もないし、この暮らしが性に合っているのだから」
「……もしかして、髪も切ってしまわれたの?」
「髪はまだ……二年間の猶予期間があって……つまり、見習いなのよ」
「そうなのですか……。修道女になってしまうなんて、わたしは思わなくて……いずれ家に戻ってくださるとばかり……」

 ロクサーヌがアニエスの手に取り縋る。
 アニエスはそれを意外に思った。
 妹は家族の中で唯一、アニエスとの関係は悪くなかったけれど、そこまでアニエスを必要としている風でもなかったからだ。

「どうしたの、ロクサーヌ、何かあったの?」

 王都から半日程度の郊外とはいえ、ロクサーヌがわざわざやってくる理由がとんとわからない。

「……お姉さま、わたし……」

 だが、ロクサーヌはなかなか理由を言い出さない。アニエスがロクサーヌを宥めていると、年嵩の修道女が素朴な焼き菓子と、ハーブと生姜を入れて温めたワインを運んできてくれた。

「寒かったでしょう? これを飲んで温まっていって」

 外の雪はしだいに激しくなり、窓の外が真っ白に染まっていた。
 熱いワインを飲んでホッと一息ついてから、アニエスは再び異母妹を促した。

「何かあったの、ロクサーヌ」
「それが――」

 ロクサーヌはためらうそぶりを見せながら、ついに口を開いた。

「その……王太子妃の候補に入ったの。殿下直々のご指名で選ばれて――」
「……まあ! 王太子妃、って未来の王妃様?」

 四年ぶりに会う異母妹は、すっかり女性らしさを加え、輝くばかりに美しくなっていた。背も伸び、十六歳という年齢より大人びて見える。確かにそろそろ結婚相手が決まってもいい頃合いだが、さすがに相手の名に驚いてしまう。
 アニエスが目を丸くすれば、ロクサーヌはいささか得意そうに頷いた。

「まだ決まったわけではないわ。候補者が四人いて、王太子殿下を囲んで、月に何度か王宮で茶話会をするの。王太子殿下はあまり女性に興味がないらしくて、一、二度参加したものの、脈がないと見切って辞退する方もいらっしゃるから、候補者は頻繁に入れ替わるのよ」

 王宮の事情にうといアニエスに、ロクサーヌが詳しく説明する。王太子はもともと第三王子で、聖職者になるべく一度は修道院に入ったが、四年前に兄王子二人が相次いで亡くなったので、王都に呼び戻されて還俗したのだと。

「……修道士……」

 なんとなく引っかかるものを感じて、アニエスは眉をひそめる。
 アニエスの様子には気が付かず、ロクサーヌは目を輝かせて言った。

「ただ、わたしには目をかけてくださって、王宮に上がるたびに、いろいろ話しかけてくださるの」
「……そうなの。よかった……わね?」

 王宮も王太子も見たことがないアニエスは、そんな話を聞かされても困惑するばかりだ。ロクサーヌの意図がわからず首を傾げていると、ロクサーヌがアニエスを上目遣いで見上げた。

「王宮は大変なの。候補者同士、足の引っ張り合いもあって……ほら、わたしは身分も伯爵令嬢で低いから、いろいろ気苦労が絶えなくて……」
「そうなの。でもロクサーヌはとても綺麗だし、王太子様直々のご指名なら、気にしなくても――」
「だめよ! ライバルが虎視眈々こしたんたんと、わたしを追い落とそうと狙っているのよ! だから絶対に失敗できないの!」

 いかにも大変そうではあるが、アニエスにはどうしようもない。だがロクサーヌがためらいがちに言うのは……

「その……刺繍がね、課題にあるのよ」
「刺繍?」
「そう、ハンカチに刺繍して、提出するの。……王太子妃は別に刺繍なんてできなくてもいいと思うのだけど、そうもいかないらしくて」
「へえ……」
「それで……その……わたし、刺繍だけは不得意で……つい……」

 ロクサーヌが膝の上でスカートを摘まんでごそごそと気まずそうに引っ張った。

「ロクサーヌ、ドレスが皺になるわ。どうしたの?」
「この前お姉さまが手紙に同封してくださったハンカチを……つい……。……殿下が、それをとても褒めてくださって……紋章や、イニシャルも頼めないかって……」

 アニエスは目を見開いた。
 ロクサーヌとの手紙のやり取りのついでに、刺繍入りのハンカチやリボンなど、ちょっとしたものを添えることはあった。
 しかしまさか……

「つまり、わたしの刺繍を提出して、褒められたってこと?」

 ロクサーヌが頷き、そして半泣きでアニエスに言った。

「そう。次の登城の時までに、紋章とイニシャル入りのハンカチを持っていかないといけないの! だから……ね?」

 本人の刺繍じゃないことがバレたら、罰せられたりはしないのだろうか? 
 一瞬疑念がよぎるが、上目遣いで瞳を潤ませるロクサーヌの姿に、慌ててアニエスは頷いた。

「刺繍くらい、わたしは別に構わないけれど――王太子殿下の紋章も名前も知らないわ」

 アニエスが言えば、ロクサーヌはパッと表情を輝かせる。

「ほんと! お姉さま! ありがとう! 次の登城は半月後だから、それまでにお願い! 紋章の図案はこれで、殿下のお名前はアンブロワーズ様とおっしゃるの!」
「……アンブロワーズ……」

 その名に聞き覚えはあった。だが――

(――修道士で、アンブロワーズ……でも、まさか――)

 いつか、庭で出会った修道士を思い出すが、彼が王太子のはずがない。――だって、彼の母親は心を壊し、あの塔で亡くなった。あれが王妃様であるわけがない。
 アニエスは疑いを振りほどき、ロクサーヌの持ってきた王太子の紋章を写し取る。
 盾と一角獣ユニコーン。イニシャルは〈A〉。
 アニエスが図案を写している様子を横から覗きこんで、ロクサーヌが媚びるように言った。

「殿下は白い薔薇もお好きなんですって。ほら、お姉さまはいつも、白い薔薇を刺してくださるから」
「あ……ええ……そう」

 あの日、彼に渡したハンカチにも、白い薔薇と四つ葉のクローバーを刺繍していた。

(偶然よ、偶然――)

 それでも、アニエスはハンカチの刺繍に白薔薇と、四つ葉のクローバーの刺繍を小さく加えないではいられなかった。


 十日後、異母妹のロクサーヌは再びアニエスのもとを訪れ、ハンカチを受け取った。

「ありがとう、お姉さま! よかった、どうしようかと思ったのよ!」
「刺繍くらいはどうってことはないけど……王族の方を騙すことにならないか、心配だわ」

 だがアニエスの心配をよそに、ロクサーヌは自信満々で微笑む。

「大丈夫よ! 他の人だって侍女にやらせてるに決まってるわ。それに、殿下はわたしのことがお気に入りみたいだし! 四人の候補者の中で、わたしにだけ特にお声がけしてくださることが多いのよ!」
「お優しい方なのね」
「ええ! とっても!」

 鮮やかな青色のドレスを着たロクサーヌが、花がほころぶような笑顔を見せる。紫色の瞳にけぶるような長い睫毛、陶器のように白い肌。磨かれて輝くばかりのロクサーヌの美しさに、王太子も夢中になって当然だと、アニエスも思う。

「お姉さまのことも気にかけていらっしゃったわよ」
「ええ?」

 アニエスがドキリとして胸を押さえると、ロクサーヌがころころと笑った。

「次女のわたしの肖像と釣り書きだけが来たから、姉はもう嫁いだのかって。修道女になると言ったら、納得していらっしゃったけれど」
「そう……」

 アニエスの脳裏に、あの日の修道士の姿がよぎる。
 ――でも、そんなわけはない。わたしの名は名乗ったけれど、ロクサーヌの姉だと気づくはずはないし、なにより――
 将来この国の王になり、ロクサーヌを王太子妃に選ぶ。
 ロクサーヌの口から語られる貴公子然とした王太子の姿と、庭仕事を手伝ってくれたあの修道士は全く重ならない。きっと、あの人とは違う。
 アニエスは疑問を振り切る。
 たとえ万が一、王太子があの人だったからと言って、どうなるものでもない。
 修道女になり、生涯の純潔を守るわたしとは、縁のない人。二度と会うこともないし、だから――
 しかし、王太子の美しさ、宮廷の素晴らしさについて、得意げに話すロクサーヌの言葉を聞きながら、アニエスは騒ぐ胸を抑えられなかった。


 十九歳になり、二年の見習い期間も終わりが見えてきたある日、アニエスは院長から呼び出しを受けた。
 不思議に思いながら院長室に顔を出せば、やや青ざめた院長が言った。

「隣国のルエーヴル公爵一家が乗った船が沈んで、全員、亡くなられたそうです」
「……え?」

 最初は意味がわからず、慌てて胸のところで聖印を切った。

「神よ……彼らの魂に平安を――」
「亡くなった公爵はあなたの母上のイトコに当たります」
「はあ……そ、そうなのですか……」

 どうして院長が青ざめているのかわからず、アニエスは口ごもる。アニエスが修道院に入れたのも、すべて曾祖父のおかげとは聞いているが、親族に直接会ったこともなく、ルエーヴル公爵家がどれほどの資産と領地を持っているか、何も知らなかった。

「一家全滅となると、相続の件でアニエスにも問い合わせがくるかもしれません」
「母が公爵様のイトコ程度なら、もっと近い方がいらっしゃるでしょう」
「そうとは思いますが……」

 だが、ジョセフィーヌ院長の不安は的中する。
 修道請願の猶予期間もあとひと月というところで、突然、父のラングレー伯爵が修道院を訪れた。
 修道院に入ってから六年間、手紙一つ寄越さなかった父の来訪に嫌な予感しかしないが、アニエスは身支度を整え、主棟に向かう。
 グレーの僧衣は地味だが、染みも皺もなく、白い頭巾ウィンプルは洗いたてで糊も利いている。アニエスは全身を点検し、深呼吸してから、貴賓室のドアをノックした。

「アニエスでございます」
「おはいり」

 もう一度深呼吸してからドアを開け、腰を落として礼をする。
 顔を上げると、奥の長椅子にラングレー伯爵が、手前の一人がけにジョセフィーヌ院長が座って、同時にアニエスを見た。すっかり修道女然としたアニエスの姿に、父が息を呑んだ。

「こちらに……ラングレー伯爵、のアニエスです」

 ことさらに修道女として紹介されて、アニエスは院長の意図をはかりかねて、院長と父を見比べる。院長の余裕ありげな表情に比べ、父――ラングレー伯爵は苦々しげに顔を歪めていて、院長が父を牽制しているのだと気づく。ラングレー伯爵は不愉快そうにフンっと鼻を鳴らした。

「状況が変わりました、院長どの。アニエスを還俗させねばなりません」
「還俗――」

 アニエスが目をみはって、パチパチと瞬きする。

(……今さら、俗世に戻れということ?)

 動転するアニエスとは異なり、院長はラングレー伯爵の言葉を半ば予想していたらしい。

「状況が変わったというのは、ルエーヴル公爵家のことで?」

 院長が落ち着いた口調で言えば、ラングレー伯爵は頷いた。

「ええ、そうです。船の事故でルエーヴル公爵の家族がすべて亡くなり、アニエスは公爵の継承人となったのです」

 その言葉に、アニエスは息を呑んだ。
 公爵一家の乗った船が沈み、全員助からなかった。公爵の兄弟もすでに亡くなっており、もっとも近い親族はアニエスであると判明したのだという。

(……つまり、わたしがルエーヴル公爵の爵位と領地を継承するということ? でも、そんな……)

 ようやく状況を掴んだアニエスを横目で見て、ラングレー伯爵は淡々と続けた。

「事情が事情ですので、修道誓願を取り下げ、還俗の手続きを」
「公爵位を継ぐだけならば、聖職のままでも可能でしょう」
「そうは参りません。アニエスは女公爵となり、公爵家を継ぐ子供を儲けねばなりません。だいたい、あの広大な領地をアニエス一人では管理できない。支えとなる夫が必要です」

 院長の反論に対し、還俗して結婚する以外に選択肢はないと、ラングレー伯爵は言い切った。
 一方、アニエス本人は自身の運命の急転に呆然として、声も出ない。アニエスに代わり、院長が伯爵に問う。

「アニエスの曾祖父である、先代のルエーヴル公爵閣下は、直々に我が修道院に彼女の養育と後見を依頼なさった。我々としては、そのご遺志を尊重したいのですが。そこまで急いで結婚させる必要がありますかしら?」

 ラングレー伯爵は、院長の反論に一瞬、眉間の皺を深くする。

「大領ルエーヴルの継承者を、いつまでも修道院に入れておくわけにまいりません。とにかく、修道請願を取り下げ、還俗して連れて帰らねばならないのです!」

 苛立ちもあらわに言い張るラングレー伯爵に、院長はコホンと咳払いして言った。

「まあ、お待ちなさいませ。修道誓願の取り下げは大ごとです。今日やってきてその日になんて、できません。まず、こちらから大司教猊下げいかにお話を通さなければ」

 ジョセフィーヌ院長がラングレー伯爵を窘める。

「ところで……アニエスは六年も修道院で過ごしておりましたのよ。今、アニエスが家に戻るとして、伯爵家で暮らす準備はできておりますの?」

 そんなことは考えたこともなかった、という風にラングレー伯爵が目を剥いた。

「それは――」
「普通の貴族令嬢に戻るのですもの。当然、ドレスや小間使いのメイドも、用意されているのですよね?」

 痛いところを突かれ、眉間に皺を寄せたラングレー伯爵に、院長は噛んで含めるように言った。

「我々がお預かりしている、アニエスの遺産のこともございます。公証人の立ち会いのもと、財産の処理も必要ですわ。後々、こちらが掠め取ったなんて言われても迷惑ですものね」

 それは全くその通りで、ラングレー伯爵はため息をついた。

「……わかりました。数日後にもう一度参ります。その折に正式な手続きを。……大司教猊下げいかの方には――」
「ええ、もちろんこちらで手続きいたします」

 ジョセフィーヌ院長が請け合った。それから、ふと思いついたように尋ねる。

「……ところで、ラングレー伯爵のご令嬢は王太子殿下の婚約者に内定したと伺いました。そうなるとアニエスの縁談にも、王家の許可が必要になりますわね?」

 院長の問いに、アニエスがハッとした。
 ――ロクサーヌが、王太子殿下の婚約者に内定? 

「……大公女殿下はお耳が早い。ですが、アニエスの婚姻は我が家の個人的な事情で、王家の許可は特には――」
「そんな馬鹿な⁉」

 ジョセフィーヌ院長が食い気味に口を挟む。

「令嬢が王太子妃となるということは、ラングレー伯爵家は王家の姻戚になるということですわ。もはや一介の貴族家ではございません。その姉で、しかもルエーヴル公爵領の継承者の婚姻を、少なくとも、母は黙って見過ごしたりはしないでしょうね」
(そうか、院長さまのお母様は、王太后陛下なのね……)

 院長の口から出た「母」という言葉に、アニエスが思い返す。ラングレー伯爵も院長の迫力に押されたのか、もごもごと言い訳した。

「たしかに王太后陛下は、ロクサーヌの王太子妃選定にご不満であらせられるが……」
「母は頑固でしてよ。一度機嫌を損ねると、テコでも動きませんのよ。言動にはご注意あそばせ」
「……ご忠告、ありがとうございます、ジョセフィーヌ大公女殿下」

 その日、ラングレー伯爵はいったん引き下がり、帰っていった。
 だが、伯爵を送りだした後、アニエスの還俗は避けられないだろうと、ジョセフィーヌ院長は結論づけた。

「ことは大領の継承にかかわります。猶予期間が過ぎていても、家族の方から申し出て正規の手続きを踏めば、認められる可能性が高いわ。まして猶予期間内では、我々にはどうしようもない」

 アニエスは項垂うなだれる。ラングレー伯爵家にはいい思い出がない。ずっといないも同然の扱いだったのに、ルエーヴル公爵の継承人になった途端、掌を返されるなんて。

「母上にあたくしから手紙を出し、アニエスの保護を求めるわ。このままだと、あなたは領地目当てのろくでもない男に売られてしまう。貴族の結婚に、普通、王家が口を出すことはないけれど、これは国際問題に発展しかねないから」
「国際……問題?」

 アニエスが首を傾げる。

「ルエーヴル公爵家は隣国セレンティアの王家から、公爵位を授けられているのよ。継承する場合にはセレンティアへの臣従礼が必要になるわ。隣国は女性でも爵位を継承できるけれど、継いだからって、アニエスが今すぐ広大な領地を管理できるわけないわ。つまり、領地の実質的な支配権は、あなたの結婚相手が握ることになる」

 ジョセフィーヌ院長の説明に、アニエスはパチパチと瞬きした。母が隣国貴族の出なのも、曾祖父が隣国の大貴族なのも知ってはいたけれど、まさか、自分がその大領を継承することになるなんて、想像もしなかった。困惑を隠せないアニエスに、ジョセフィーヌ院長がなおも言う。

「当然、隣国の王家は、あなたは自国の貴族と結婚させたいと思っているでしょう。それでなくても、広大な領地を持つ女公爵の結婚には、野心家が群がるものよ。どうやら、あなたの父親はあなたの結婚を高く売りつけるつもりのようね。迂闊うかつな男がルエーヴルの婿になったら、我が王家の面目は丸つぶれよ」

 隣国の広大な領地の継承者であるアニエスの結婚は、ヴェロワとセレンティアの二国を跨ぐ、国際的な懸案事項となってしまったのだ。このまま修道女として独身を貫くなんて、到底許されない。
 不安に打ち震えるアニエスを、院長がそっと抱きしめた。

「アニエス、あなたはあたくしの娘も同じよ。大丈夫よ。神様が守ってくださるわ」
「院長さま……」

 院長の温かい手に縋りつき、アニエスは自分の未来を思った。


 伯爵来訪の二日後には、妹のロクサーヌが弟のアランと二人でやってきた。
 三歳年下のアランは十六歳で、すっかり背も伸びて見違えるようだったが、生意気盛りの顔にニヤけた笑顔を浮かべ、アニエスを見ている。

「お姉さま! 還俗するんですってね!」

 ロクサーヌが嬉しそうにアニエスの手を取るが、アニエスは力なく言った。

「……わたしは、この暮らしが気に入っているの。還俗は、できればしたくないわ……」
「どうして!」
「ルエーヴル公爵位が転がり込んできたんだぜ? なんでそんなに辛気くさいツラしてんだよ!」

 年若いアランに嘲笑されて、アニエスがさすがにムッとすると、ロクサーヌが弟に声を荒らげる。

「アラン! あんた、無理矢理ついてきたくせに、何よその態度。余計なこと言うなら、とっとと帰って。わたしはお姉さまに大事なお話があるんだから!」

 ロクサーヌに窘められ、アランは大げさに肩を竦めてみせる。アニエスがオロオロと二人を見比べ、話を変えようとロクサーヌに言った。

「そう言えば、ロクサーヌが王太子妃に内定したって聞いたわ。おめでとう」
「そうなのよ! その報告も兼ねてやってきたの!」

 アニエスからの祝いの言葉に、ロクサーヌはパッと華やかな表情を浮かべ、面会室の木の長椅子の上で、アニエスににじり寄った。

「それでね、お姉さまにお願いがあるのよ」
「お願い? また刺繍?」
「もう刺繍はいいのよ、それよりも大事なこと。――結婚してほしいの!」

 思いもよらぬロクサーヌの言葉に、アニエスは目をみはる。

「結婚? わたしが? どうして?」

 父のラングレー伯爵も、そして修道院のジョセフィーヌ院長も、アニエスの結婚は避けられないと言っていた。でも、それとロクサーヌが王太子妃になるのと、何の関係が? 
 なんとなく不安に駆られ、アニエスがロクサーヌとニヤニヤ笑うアランを見比べる。すると、ロクサーヌがアニエスの耳元に顔を寄せ、小声で言った。

「わたしと王太子殿下の婚約は、まだ内定段階なの――王太后陛下が反対なさっていて。王太后陛下が頷いてくださらないと、正式決定はできないの」

 王太后は国王の母親で、王太子の祖母。反対するには、それなりの理由があるのだろうと、アニエスはおずおずと尋ねた。

「……どうして、反対なさっているの?」

 ロクサーヌは少しばかり不満げに唇を尖らせた。

「わたしはほら、お父様が伯爵で、お母さまが男爵家の出身でしょ? 身分の重みが足らないんですって。王太子殿下がおっしゃるには、たとえば侯爵家あたりの後見があれば、王太后様も納得してくださるだろうって。だから、お父様はギュネ侯爵様に、わたしの後見役をお願いしているの」
「ギュネ侯爵……」
「ギュネ侯爵閣下は、国王陛下の愛妾ドロテ夫人の義兄で、陛下の一番の寵臣だ」

 宮廷の事情にうといアニエスが聞きなれぬ名前に首を傾げれば、アランが横から偉そうに説明した。

「国王陛下の……愛妾……」

 困惑で眉尻を下げるアニエスに、ロクサーヌが丁寧に付け加える。

「国王陛下は十年前の大火傷が原因で寝たきりで、まつりごとも王太子殿下が王太后様や重臣たちの補佐を受けてなさっているの。ただ、王太子殿下も、仮にも国王陛下の意向を突っぱねることはできないから、ギュネ侯爵の権勢はすごいのよ」

 ロクサーヌが王太子妃の候補に滑り込めたのも、ギュネ侯爵の口添えのおかげだという。
 だから、後見役も彼に頼む以外にない。ただ、ギュネ侯爵はあくまで国王の寵臣なので、王太子妃の選定には口は出さない方針だった。

「宮中では、ギュネ侯爵派と王太后派の対立があるからな。ギュネ派が国王側で、王太后派は王太子寄りなんだよ」

 アランの得意げな補足説明を聞いてもよくわからないのだが、とりあえず大人しく頷く。

「それで?」

 アニエスが先を促せば、ロクサーヌは少しばかり困ったよう表情を浮かべてみせた。

「ギュネ侯爵も、わたしの後見役についてもいいとおっしゃったの。――ただし、見返りを要求なさったのよ」
「見返り――」

 ロクサーヌがアニエスを見て、紅く艶やかな唇の口角を上げた。

「お姉さまとの結婚よ」

 アニエスはしばし呼吸を忘れ、ロクサーヌの顔をじっと見つめた。ロクサーヌを後見する見返りが、アニエスとの結婚――
 それは、ロクサーヌが王太子妃になるために、アニエスがギュネ侯爵に嫁がされるということ? 

「……ちょっと待って。ギュネ侯爵って、おいくつなの?」

 国王の寵姫の義兄となれば、アニエスの父親と同じか、それ以上の年齢ではないのか。
 アニエスの問いに、アランが弾けるように笑い出した。


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