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15、クライブ・マコーレー
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下男にトランクを運ばせて、僕とルーカスは最後に、角の雑貨屋の女将に挨拶した。
「じゃあ、ローズはお貴族様のお屋敷にいるのかい」
「うん、そう。おじさんのおうち」
その雑貨屋はゴミゴミして狭く、フロックコートにかぎ裂きを作りそうなので、僕は店の中には入らずに外に立っていた。女将さんが僕を見て言う。
「つまり、あんた――」
女将さんが言い差してルーカスを見る。僕はピンときたので、ルーカスに言った。
「お友達にお別れの挨拶をしておいで。……その、チョコレートバーを何本か買っていくといい」
僕がポケットから銀貨を出すと、女将さんが心得てチョコレートバーを出し、箱ごとルーカスに渡す。
「ありがとう! 行ってくる!」
チョコレートバーの箱を抱えてルーカスが駆け去ってから、店の戸口まで出てきた女将さんが言う。
「ローズは医者のマコーレー先生とデキてるわよ?」
「知ってる」
僕が笑いながら言えば、女将は興味津々という表情で尋ねる。
「知ってて? じゃあ、あんた、あの子が妊娠してるのもわかってて囲うつもり?」
さすが、女将はローズの様子から妊娠に気づいていたらしい。
「僕だって医者の端くれだから、そのくらいは。――マコーレーは、自分の子じゃないからと、ローズに出て行くように言ったそうだよ」
「ああ、やっぱり」
女将さんが顔を歪める。
「マコーレー先生はこんな下町でも診療してくれて、ありがたいとは思うのよ。でも、少々、あくどいのよね」
特に、若い女がいる家には、最初は家賃もいらないなんて言いながら、数か月後にまとめて請求し、払えなければ体を要求するのが、いつものやり口だという。
「……じゃあ、ローズの他にも被害者が?」
「女房に頭が上がらないらしくて。同時期に愛人二人はダメみたい」
「……女房公認の浮気ってこと?」
女将が肩を竦めて見せる。
「多少の火遊は大目に見ているんでしょうけどね。でも、ローズとはけっこう長いから――」
「……なるほど」
僕は女将に微笑んで見せると、内ポケットの札入れから一ポンド紙幣を出して女将の手に握らせる。
「今まで世話になったよ。僕とローズの幸運を祈ってくれ」
「おや、旦那、気前のいいことで」
女将が僕の耳元で囁く。
「ああ、先生が薬を卸してる娼館がわかったわ。クロスチャーチのリンガー通り、『紅の館』っていう店よ」
「ありがとう、女将、助かるよ」
僕は女将に礼を言って店を離れる。ちょうど、ルーカスが友達に手を振って別れるところだった。
僕とルーカスは歩いて馬車まで戻り、御者がルーカスを馬車に担ぎ上げる間に、僕は待っていた下男のサムにある場所への伝言を頼む。ポケットの銀貨をおまけにつけてやると、サムは帽子を取って一礼し、すぐに駆けだして行った。
「あのお兄さんは一緒に行かないの?」
「ん? ちょっと用事を頼んだ。……ウェリントン通りにやってくれ」
「畏まりました」
僕が指示を出すと、御者はすぐにピシリと馬に鞭を当てる。動き出した馬車の窓から、遠ざかる街を眺めていたルーカスが、僕を振りかえる。
「どこに行くの?」
「マコーレー先生の家だ。鍵を返しに行かないと」
下町からマコーレーの家は目と鼻の先、普通の中流住宅だった。開業医とはいえ往診専門で、診療所は開いていないのだ。
ルーカスを馬車の中で待たせて、僕は一人で玄関前の階段を上り、呼び鈴を押す。
すぐに、白髪頭の老女が扉を開けた。
「どなたさま? 急患?」
「いえ、借家の件で。イライアス・ハミルトンと申します」
僕がトップハットを持ち上げると、老婆は僕が貴族だと気づいて、慌てて中に入って大声で呼んだ。
「奥様ー! 旦那様の借家の件で、お客様が!」
「なんですって?」
バタバタと出てきたのは癇の強そうな痩せぎすの中年女。眉間の皺が深く刻まれて目つきが悪い。何か、最近、こういう顔を見たんだが、どこで――
「マコーレーの家内でございます。主人は今、往診に出ておりますが」
「ああ、失礼。知り合いが退去するので、鍵をお返しに上がったのです。ご主人がいらっしゃらないなら、どうしましょう。鍵だけ奥さんにお預けしても――」
と、その時、ちょうどマコーレーが帰ってきて、玄関先に止まる我が家の馬車を不審そうにジロジロ見て、そして玄関に立つ僕を見上げる。
「失礼、マコーレー先生?」
僕がトップハットを持ち上げ、挨拶する。
「ハミルトンと申します。マクミラン侯爵です。――ミズ・ローズマリー・オルコットの家の、鍵をお返しに」
「……!」
マコーレーは僕へ挨拶を返すのも早々に、慌てて女房を盗み見る。女房は露骨に眉が吊り上がり、額に青筋が浮かぶ。ローズマリーとの関係を知っているんだ。
――ああ、あれだ。博物館で見た、東洋の仮面劇のお面。たしか、嫉妬深い女を表す般若とかいうの。あれにそっくり。
「立ち話でもなんですので、狭いですがどうぞお入りください」
「失礼します」
玄関脇に小さな応接間があって、僕は勧められるままにソファに腰を下ろす。さっきの老女がお茶を運んできて、僕は一口飲んだ。――植民地産の、普通の茶葉。中流の家ならこんなもんだろう。
話が気になるのかなかなか下がろうとしない女房に何か言いつけて追い出し、マコーレーはハンカチを出して額の汗を拭う。
「いえ、どうもすみません。……その、ローズ……いえ、オルコット嬢が退去すると。今はどちらに」
「僕の屋敷です」
「え? マクミラン侯爵邸に? その、もしかして、閣下はその……ルーカスの父親では」
僕の顔を探るように見るマコーレーの視線は、正直、気分のよいものではない。だが、僕は顔色を変えずに説明する。
「残念ながら、僕はルーカスの父親ではありません。友人の依頼で、オルコット嬢とその子の行方を捜していました。ルーカスは友人の子に間違いないと思います。ですので、僕の屋敷に移ってもらい、貴族としての教育を施すつもりです。――これまでお世話になりました」
僕が鍵を出してテーブルに置くと、マコーレーが小狡そうな小さな茶色い目を見開く。
「その――まことに言いかねるのですが、ローズはああ見えてしたたかな女で、けっこな額の家賃が未払いになっておりまして。その請求はマクミラン侯爵家に回しても?」
マコーレーの発言に、僕が思わず目を眇める。――なるほど、取れそうなところからは金を取ろうというやつだ。たくましいというよりは、盗人猛々しい。
「彼女は、家賃分の代償は支払っているはずです。あくまで請求なさるなら、我が家の僕の弁護士を間に立てましょう」
「いや、あんな女のためにそこまでせずとも、あなたにとっては大した金額ではないでしょう。こんなことで裁判になれば、あなたの不名誉になります。まだ、お若い方がそのような危険を冒さなくとも」
僕が青二才だと見くびって、ニヤニヤといやらしい顔で笑うマコーレーの、やや薄くなった頭頂部を見下ろし、僕もにっこりと微笑み返す。
「いえ、危険は何もないですよ。刑事だけじゃなくて民事も加わるだけの話ですので」
「じゃあ、ローズはお貴族様のお屋敷にいるのかい」
「うん、そう。おじさんのおうち」
その雑貨屋はゴミゴミして狭く、フロックコートにかぎ裂きを作りそうなので、僕は店の中には入らずに外に立っていた。女将さんが僕を見て言う。
「つまり、あんた――」
女将さんが言い差してルーカスを見る。僕はピンときたので、ルーカスに言った。
「お友達にお別れの挨拶をしておいで。……その、チョコレートバーを何本か買っていくといい」
僕がポケットから銀貨を出すと、女将さんが心得てチョコレートバーを出し、箱ごとルーカスに渡す。
「ありがとう! 行ってくる!」
チョコレートバーの箱を抱えてルーカスが駆け去ってから、店の戸口まで出てきた女将さんが言う。
「ローズは医者のマコーレー先生とデキてるわよ?」
「知ってる」
僕が笑いながら言えば、女将は興味津々という表情で尋ねる。
「知ってて? じゃあ、あんた、あの子が妊娠してるのもわかってて囲うつもり?」
さすが、女将はローズの様子から妊娠に気づいていたらしい。
「僕だって医者の端くれだから、そのくらいは。――マコーレーは、自分の子じゃないからと、ローズに出て行くように言ったそうだよ」
「ああ、やっぱり」
女将さんが顔を歪める。
「マコーレー先生はこんな下町でも診療してくれて、ありがたいとは思うのよ。でも、少々、あくどいのよね」
特に、若い女がいる家には、最初は家賃もいらないなんて言いながら、数か月後にまとめて請求し、払えなければ体を要求するのが、いつものやり口だという。
「……じゃあ、ローズの他にも被害者が?」
「女房に頭が上がらないらしくて。同時期に愛人二人はダメみたい」
「……女房公認の浮気ってこと?」
女将が肩を竦めて見せる。
「多少の火遊は大目に見ているんでしょうけどね。でも、ローズとはけっこう長いから――」
「……なるほど」
僕は女将に微笑んで見せると、内ポケットの札入れから一ポンド紙幣を出して女将の手に握らせる。
「今まで世話になったよ。僕とローズの幸運を祈ってくれ」
「おや、旦那、気前のいいことで」
女将が僕の耳元で囁く。
「ああ、先生が薬を卸してる娼館がわかったわ。クロスチャーチのリンガー通り、『紅の館』っていう店よ」
「ありがとう、女将、助かるよ」
僕は女将に礼を言って店を離れる。ちょうど、ルーカスが友達に手を振って別れるところだった。
僕とルーカスは歩いて馬車まで戻り、御者がルーカスを馬車に担ぎ上げる間に、僕は待っていた下男のサムにある場所への伝言を頼む。ポケットの銀貨をおまけにつけてやると、サムは帽子を取って一礼し、すぐに駆けだして行った。
「あのお兄さんは一緒に行かないの?」
「ん? ちょっと用事を頼んだ。……ウェリントン通りにやってくれ」
「畏まりました」
僕が指示を出すと、御者はすぐにピシリと馬に鞭を当てる。動き出した馬車の窓から、遠ざかる街を眺めていたルーカスが、僕を振りかえる。
「どこに行くの?」
「マコーレー先生の家だ。鍵を返しに行かないと」
下町からマコーレーの家は目と鼻の先、普通の中流住宅だった。開業医とはいえ往診専門で、診療所は開いていないのだ。
ルーカスを馬車の中で待たせて、僕は一人で玄関前の階段を上り、呼び鈴を押す。
すぐに、白髪頭の老女が扉を開けた。
「どなたさま? 急患?」
「いえ、借家の件で。イライアス・ハミルトンと申します」
僕がトップハットを持ち上げると、老婆は僕が貴族だと気づいて、慌てて中に入って大声で呼んだ。
「奥様ー! 旦那様の借家の件で、お客様が!」
「なんですって?」
バタバタと出てきたのは癇の強そうな痩せぎすの中年女。眉間の皺が深く刻まれて目つきが悪い。何か、最近、こういう顔を見たんだが、どこで――
「マコーレーの家内でございます。主人は今、往診に出ておりますが」
「ああ、失礼。知り合いが退去するので、鍵をお返しに上がったのです。ご主人がいらっしゃらないなら、どうしましょう。鍵だけ奥さんにお預けしても――」
と、その時、ちょうどマコーレーが帰ってきて、玄関先に止まる我が家の馬車を不審そうにジロジロ見て、そして玄関に立つ僕を見上げる。
「失礼、マコーレー先生?」
僕がトップハットを持ち上げ、挨拶する。
「ハミルトンと申します。マクミラン侯爵です。――ミズ・ローズマリー・オルコットの家の、鍵をお返しに」
「……!」
マコーレーは僕へ挨拶を返すのも早々に、慌てて女房を盗み見る。女房は露骨に眉が吊り上がり、額に青筋が浮かぶ。ローズマリーとの関係を知っているんだ。
――ああ、あれだ。博物館で見た、東洋の仮面劇のお面。たしか、嫉妬深い女を表す般若とかいうの。あれにそっくり。
「立ち話でもなんですので、狭いですがどうぞお入りください」
「失礼します」
玄関脇に小さな応接間があって、僕は勧められるままにソファに腰を下ろす。さっきの老女がお茶を運んできて、僕は一口飲んだ。――植民地産の、普通の茶葉。中流の家ならこんなもんだろう。
話が気になるのかなかなか下がろうとしない女房に何か言いつけて追い出し、マコーレーはハンカチを出して額の汗を拭う。
「いえ、どうもすみません。……その、ローズ……いえ、オルコット嬢が退去すると。今はどちらに」
「僕の屋敷です」
「え? マクミラン侯爵邸に? その、もしかして、閣下はその……ルーカスの父親では」
僕の顔を探るように見るマコーレーの視線は、正直、気分のよいものではない。だが、僕は顔色を変えずに説明する。
「残念ながら、僕はルーカスの父親ではありません。友人の依頼で、オルコット嬢とその子の行方を捜していました。ルーカスは友人の子に間違いないと思います。ですので、僕の屋敷に移ってもらい、貴族としての教育を施すつもりです。――これまでお世話になりました」
僕が鍵を出してテーブルに置くと、マコーレーが小狡そうな小さな茶色い目を見開く。
「その――まことに言いかねるのですが、ローズはああ見えてしたたかな女で、けっこな額の家賃が未払いになっておりまして。その請求はマクミラン侯爵家に回しても?」
マコーレーの発言に、僕が思わず目を眇める。――なるほど、取れそうなところからは金を取ろうというやつだ。たくましいというよりは、盗人猛々しい。
「彼女は、家賃分の代償は支払っているはずです。あくまで請求なさるなら、我が家の僕の弁護士を間に立てましょう」
「いや、あんな女のためにそこまでせずとも、あなたにとっては大した金額ではないでしょう。こんなことで裁判になれば、あなたの不名誉になります。まだ、お若い方がそのような危険を冒さなくとも」
僕が青二才だと見くびって、ニヤニヤといやらしい顔で笑うマコーレーの、やや薄くなった頭頂部を見下ろし、僕もにっこりと微笑み返す。
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