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32、母の掌
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結局、その時間では王都行きの汽車はなく、僕は翌早朝の汽車で王都に戻る。結局、王都の屋敷に着いたのは夜遅くであった。
「旦那様……!」
「ブレナン、何があった」
「それが……」
僕がローズマリーを助けた時点では、栄養状態が悪く貧血があった。それでも、そのまま放っておいたらよくはない程度で、今すぐ流産するほど悪かったわけではない。我が家でそれも改善されていたはずなのに。
妊娠は何が起こるかわからないとはいえ、流産するならそれなりの理由があるはず。
「お留守の間にヘンダーソン侯爵家の、ライラ様がいらっしゃいまして」
「ライラが? 一人で?」
「もちろん、付き添いの方はご一緒でございます。……ルーカス様にお会いしたいということで」
「それで?」
廊下を早足で歩きながら、僕はブレナンに問う。ブレナンが半歩下がってついてきながら小声で言った。
「……その折に、妊婦にいいお茶だからと、ローズマリー様に薬草茶をお薦めになり、その夜、突然体調を崩されたのでございます」
「薬草茶……」
「その……下痢がひどく、腹痛も激しいことから、大奥様がウォーラー先生に往診をお願いいたしました。ですが、先生がお着きになった時にはもう、出血も始まり、赤ちゃんの方は――」
ウォーラー先生は、僕が医師になる以前に我が家で診てもらっていた主治医で、僕の出征中もお世話になっていた。老齢だが信頼のおける先生だ。
「……そう。ローズの容体は?」
「ローズマリー様にはウォーラー先生の処置が早かったせいか、命に別状はないだろうと」
僕はホッとする。
「お茶がおかしいと言ったのは、ウォーラー先生?」
僕の問いに、ブレナンが首を振る。
「いえ、ローズマリー様だけが召し上がったものが、その薬草茶だけでして。それでウォーラー先生が茶葉の残りをご覧になり、堕胎成分が含まれていると」
ライラが持ってきた茶葉に――なぜ?
僕はわけがわからなくなりながらも、必死に頭を働かせる。
「ローズマリー以外は飲まなかったのか?」
「妊婦に良いお茶だとライラ様がおっしゃって、大奥様は匂いを嗅がれてあまりお好みではないからと、ご遠慮なさいました」
「だいたい、そんなものをライラはどうやって入手したのだ」
「ウォーラー先生がおっしゃるには、一般には下剤として用いられるもので、ですが妊婦が大量に摂取するとよろしくないと――」
僕がローズマリーの寝室に入った時、ローズマリーはベッドで眠り、その脇のソファに母がいて、ルーカスが母の膝枕で眠っていた。
「イライアス! ……ああ、あたくしがついていながら……」
「母上……」
僕は母に近づいてまずその頬に口づけし、眠っているルーカスを一瞥してから、ベッドで眠るローズマリーを見る。
「……子供は、ダメでしたか……」
「ええ……ウォーラー先生が到着した時には出血も始まって……まさかこんなことになるなんて……」
「ローズもこのことは?」
「可哀想に、まだ現実が受け入れられないのか、なんだか呆然としているようで……」
僕は母と、ブレナンに言う。
「後は僕がついているから、母上も休んでください。ルーカスもベッドに」
ブレナンがルーカスを抱き上げ、二人が部屋を去るのを待って、僕はベッドに腰を下ろし、ローズマリーの寝顔を覗きこむ。
――まさか、僕の嘘がこんな結末を迎えるなんて、考えもしなかった――
伏せられた長い睫毛が頬に陰をつくる。僕はローズの前髪をなで、額にキスを落とす。
「ん……」
ローズが身じろぎし、目を開けた。
「ローズ……」
「イライアス……戻ってきたの?」
「ああ。……僕が留守にしたばかりに、こんな……」
僕がローズの肩口に顔を埋めると、ローズマリーが両腕を僕の首に回した。
「君の兄上から結婚の許可も得たし、ルーカスの養育も全部、上手く話をつけた。後は、結婚の届を出すだけだ」
「でも……赤ちゃんはもう……もともと、あなたの子じゃなかったけど、嘘をついてまで結婚しなくても……」
「ローズ……ごめん……僕のせいだ」
「イライアス?」
「僕が嘘をついたから、バチがあたったんだ……」
ローズマリーが僕の髪を撫でる。
「あなたのせいじゃないわ。……わたしが、不用意に変なお茶を飲んだから……」
「ライラが、危ういのわかっていたのに、君の側を離れた。僕の失態だ……こんな……」
あの時、ライラは僕がローズマリーと結婚するのだけは嫌だといい、自分と結婚すればルーカスを養育してもいいなんて、支離滅裂なことを言い出した。
あの時点で、まともな精神状態じゃないと、気づくべきだった。
僕は、リリー叔母さんがライラかマーガレットのどちらかと結婚しろと言い出したのを厄介に思い、ローズマリーとの結婚を急ぐためにアーリングベリに向かった。しかし、その間にライラが――
僕は思う。
心のどこかで、あの町医者の子などいなくなればいいと思っていなかったか。
僕はどこかで、今の状態を歓んでいるのではないかのか。僕は――
「イライアス……あなたのせいじゃないわ。あなただけだわ、子供ごと欲しいって言ってくれたのは。最初から、この子があなたの子ならいいのにって。生まれて、あなたに似ていなかったら、あなたの子じゃないとバレたらどうなるのか怖かった――」
「僕が欲をかいたんだよ。子供がいて弱みのある君に付け込んで、全部手に入れようとしたから、こんなことに」
ローズマリーが僕を見上げて言う。
「子供がいなくなっても、わたしを捨てない?」
「まさか……その子だって僕の子だよ。いつか、戻ってきてくれる。愛してる、ローズ」
「わたしも、愛してるわ、イライアス……」
目じりから零れるローズの涙を唇で吸いあげて、僕たちはずっと長いこと、抱き合っていた。
妊婦にわざと堕胎成分の入ったお茶を飲ませたことで、僕はライラに責任を問いたいと思ったが、母に止められた。
「ライラはかりにもあたくしの姪なのよ。警察沙汰なんてやめてちょうだい」
「でも、ローズの子が……」
「お前だって、深く探られたらまずいことになるでしょう? 妊娠の月数が合わないことを、どう説明するの」
「……え?」
母の反論に、僕は凍り付く。
「大方、ローズが妊娠して男に捨てられたのにつけこみ、無理に連れてきたのでしょ? お前のやり口くらい、わかっていますよ」
「……母、上……?」
母は呆れたように僕に言った。
「見てればわかりますよ。ローズは明らかに、秘密を抱えさせられて青い顔をしていましたから」
「……知っていて、なぜ?」
「気の毒な妊婦を追い出すなんて、あたくしにはできません。しかも、お前はローズに夢中だし。子供に罪はないし、無事に生まれるのがいちばんだと思ったのよ」
……僕は母の答えに呆然とする。
「マクミラン侯爵家に他の血が入るのは、構わないと」
「男の子しか継承権はないのよ。二分の一の確率だわ。それに、一応、長男総取りって原則ではあるけれど、話し合いによっては次男以下に継がせることもできないわけじゃない。ローズが自分から、郭公よろしく托卵を目論んでいるならともかく、あの子にそんな度胸はなさそうだったし」
母は卓上のお茶を優雅に飲み干し、微笑んだ。
「ローズマリーは意気消沈しているようだから、ちゃんと慰めて、次こそは本物の孫をお願いね」
――要するに、僕は母の掌で転がされていたらしい――
僕たちはローズの体調が戻ってすぐに婚姻届けを出し、一月後に小さな教会で結婚式をした。
母待望の本物の孫が生まれたのは、それから一年後のことである。
FIN.
「旦那様……!」
「ブレナン、何があった」
「それが……」
僕がローズマリーを助けた時点では、栄養状態が悪く貧血があった。それでも、そのまま放っておいたらよくはない程度で、今すぐ流産するほど悪かったわけではない。我が家でそれも改善されていたはずなのに。
妊娠は何が起こるかわからないとはいえ、流産するならそれなりの理由があるはず。
「お留守の間にヘンダーソン侯爵家の、ライラ様がいらっしゃいまして」
「ライラが? 一人で?」
「もちろん、付き添いの方はご一緒でございます。……ルーカス様にお会いしたいということで」
「それで?」
廊下を早足で歩きながら、僕はブレナンに問う。ブレナンが半歩下がってついてきながら小声で言った。
「……その折に、妊婦にいいお茶だからと、ローズマリー様に薬草茶をお薦めになり、その夜、突然体調を崩されたのでございます」
「薬草茶……」
「その……下痢がひどく、腹痛も激しいことから、大奥様がウォーラー先生に往診をお願いいたしました。ですが、先生がお着きになった時にはもう、出血も始まり、赤ちゃんの方は――」
ウォーラー先生は、僕が医師になる以前に我が家で診てもらっていた主治医で、僕の出征中もお世話になっていた。老齢だが信頼のおける先生だ。
「……そう。ローズの容体は?」
「ローズマリー様にはウォーラー先生の処置が早かったせいか、命に別状はないだろうと」
僕はホッとする。
「お茶がおかしいと言ったのは、ウォーラー先生?」
僕の問いに、ブレナンが首を振る。
「いえ、ローズマリー様だけが召し上がったものが、その薬草茶だけでして。それでウォーラー先生が茶葉の残りをご覧になり、堕胎成分が含まれていると」
ライラが持ってきた茶葉に――なぜ?
僕はわけがわからなくなりながらも、必死に頭を働かせる。
「ローズマリー以外は飲まなかったのか?」
「妊婦に良いお茶だとライラ様がおっしゃって、大奥様は匂いを嗅がれてあまりお好みではないからと、ご遠慮なさいました」
「だいたい、そんなものをライラはどうやって入手したのだ」
「ウォーラー先生がおっしゃるには、一般には下剤として用いられるもので、ですが妊婦が大量に摂取するとよろしくないと――」
僕がローズマリーの寝室に入った時、ローズマリーはベッドで眠り、その脇のソファに母がいて、ルーカスが母の膝枕で眠っていた。
「イライアス! ……ああ、あたくしがついていながら……」
「母上……」
僕は母に近づいてまずその頬に口づけし、眠っているルーカスを一瞥してから、ベッドで眠るローズマリーを見る。
「……子供は、ダメでしたか……」
「ええ……ウォーラー先生が到着した時には出血も始まって……まさかこんなことになるなんて……」
「ローズもこのことは?」
「可哀想に、まだ現実が受け入れられないのか、なんだか呆然としているようで……」
僕は母と、ブレナンに言う。
「後は僕がついているから、母上も休んでください。ルーカスもベッドに」
ブレナンがルーカスを抱き上げ、二人が部屋を去るのを待って、僕はベッドに腰を下ろし、ローズマリーの寝顔を覗きこむ。
――まさか、僕の嘘がこんな結末を迎えるなんて、考えもしなかった――
伏せられた長い睫毛が頬に陰をつくる。僕はローズの前髪をなで、額にキスを落とす。
「ん……」
ローズが身じろぎし、目を開けた。
「ローズ……」
「イライアス……戻ってきたの?」
「ああ。……僕が留守にしたばかりに、こんな……」
僕がローズの肩口に顔を埋めると、ローズマリーが両腕を僕の首に回した。
「君の兄上から結婚の許可も得たし、ルーカスの養育も全部、上手く話をつけた。後は、結婚の届を出すだけだ」
「でも……赤ちゃんはもう……もともと、あなたの子じゃなかったけど、嘘をついてまで結婚しなくても……」
「ローズ……ごめん……僕のせいだ」
「イライアス?」
「僕が嘘をついたから、バチがあたったんだ……」
ローズマリーが僕の髪を撫でる。
「あなたのせいじゃないわ。……わたしが、不用意に変なお茶を飲んだから……」
「ライラが、危ういのわかっていたのに、君の側を離れた。僕の失態だ……こんな……」
あの時、ライラは僕がローズマリーと結婚するのだけは嫌だといい、自分と結婚すればルーカスを養育してもいいなんて、支離滅裂なことを言い出した。
あの時点で、まともな精神状態じゃないと、気づくべきだった。
僕は、リリー叔母さんがライラかマーガレットのどちらかと結婚しろと言い出したのを厄介に思い、ローズマリーとの結婚を急ぐためにアーリングベリに向かった。しかし、その間にライラが――
僕は思う。
心のどこかで、あの町医者の子などいなくなればいいと思っていなかったか。
僕はどこかで、今の状態を歓んでいるのではないかのか。僕は――
「イライアス……あなたのせいじゃないわ。あなただけだわ、子供ごと欲しいって言ってくれたのは。最初から、この子があなたの子ならいいのにって。生まれて、あなたに似ていなかったら、あなたの子じゃないとバレたらどうなるのか怖かった――」
「僕が欲をかいたんだよ。子供がいて弱みのある君に付け込んで、全部手に入れようとしたから、こんなことに」
ローズマリーが僕を見上げて言う。
「子供がいなくなっても、わたしを捨てない?」
「まさか……その子だって僕の子だよ。いつか、戻ってきてくれる。愛してる、ローズ」
「わたしも、愛してるわ、イライアス……」
目じりから零れるローズの涙を唇で吸いあげて、僕たちはずっと長いこと、抱き合っていた。
妊婦にわざと堕胎成分の入ったお茶を飲ませたことで、僕はライラに責任を問いたいと思ったが、母に止められた。
「ライラはかりにもあたくしの姪なのよ。警察沙汰なんてやめてちょうだい」
「でも、ローズの子が……」
「お前だって、深く探られたらまずいことになるでしょう? 妊娠の月数が合わないことを、どう説明するの」
「……え?」
母の反論に、僕は凍り付く。
「大方、ローズが妊娠して男に捨てられたのにつけこみ、無理に連れてきたのでしょ? お前のやり口くらい、わかっていますよ」
「……母、上……?」
母は呆れたように僕に言った。
「見てればわかりますよ。ローズは明らかに、秘密を抱えさせられて青い顔をしていましたから」
「……知っていて、なぜ?」
「気の毒な妊婦を追い出すなんて、あたくしにはできません。しかも、お前はローズに夢中だし。子供に罪はないし、無事に生まれるのがいちばんだと思ったのよ」
……僕は母の答えに呆然とする。
「マクミラン侯爵家に他の血が入るのは、構わないと」
「男の子しか継承権はないのよ。二分の一の確率だわ。それに、一応、長男総取りって原則ではあるけれど、話し合いによっては次男以下に継がせることもできないわけじゃない。ローズが自分から、郭公よろしく托卵を目論んでいるならともかく、あの子にそんな度胸はなさそうだったし」
母は卓上のお茶を優雅に飲み干し、微笑んだ。
「ローズマリーは意気消沈しているようだから、ちゃんと慰めて、次こそは本物の孫をお願いね」
――要するに、僕は母の掌で転がされていたらしい――
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